違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

自分探しというライフワーク

あんなに好きだったのに今は何とも思ってない、場合によっては嫌いにすらなっている、そんなことは誰にでもあるかもしれない。

 

思い当たる人はすでに具体的な何かを思い出してるはず。

 

該当するのは人間関係だけではない、趣味や遊びなど極めて個人的なものまである。

 

きっかけは何だったのか?

 

脳裏をよぎる一般的なことばは飽きただ。

 

 

飽きたを広く解釈すると、必要が無くなったも含められるし、優先順位が下がって割り当てる時間が無くなったも含まれるし、予定調和ばかりで新鮮な感動が無くなったとも言える。

 

大事なのは飽きた理由だが、それは人それぞれだから単純化は難しい、だから飽きもせず続けてるものを考えたい。

 

誰にでも当てはまるのが自分自身だ。

 

自分自身に飽きないために続けてることがあるから人は生き続けてるのだ。

 

いろいろな理由や理屈や大義名分をつけるから生き続けられるのだ。

 

しかしそんな理由の数々は実は真の理由ではない。

 

だから自分探しがやめられなくなる。

 

自分探しという表現はバカにされがちだが、自己実現を追求すると置き換えても意味はまったく同じ。

 

 

人間社会も弱肉強食だと言われるが、本当に弱肉強食だったら自分探しや自己実現なんて概念が出てくるわけはない。

 

 

自分自身を続けるためには、自分が納得できる理由が必要になる。

 

自分が納得できる理由を、自分自身を相手にプレゼンを繰り返し続けるのが生きるということで、それが死ぬまで続くのだ。

 

この作業を楽しめる人が幸せなのは言うまでもない、他人からどう見えてるかはあまり関係ないのだ。

デジタルファブリケーション

グローバル化で加速した、グローバル化が加速させたのが大量生産&大量消費。

 

 

生産される商品には一定の寿命があることと、新しい商品の方がスペックやデザインが向上するので大量生産&大量消費は繰り返される運命にある。

 

しかし、この繰り返されるサイクルには意識されにくい負の側面がある。

 

大量の廃棄物が出ること、またスペックやデザインが継続的に進化することで欲望の飽和のようなそれ以上を望む気持ちが薄らぐようになる。

 

それによって大量消費の一角が崩れ始める。

 

そうすると、一部の市場で評価が高い商品の単価の上昇が起きる。

 

評価が高いわけではない商品は単価の下落もしくは在庫の増加が起きる、これをどう捌くかが重要になる、捌けなければ新品にして廃棄の運命だ。

 

捌くためには騙す必要がある、騙すという表現以外だと錯覚させるが相応しいはず。

 

最近の世の風潮の根底には大量生産の行き詰まりがあるのだ。

 

大量生産を支えてきたグローバル化を初期の段階で支えたのは多くの労働者だったが、人から機械化自動化と主流が置き換わったことで大量生産のレベルが桁違いになったことと品質の差がなくなった。

 

大量生産の次のステージはどうなるのか?

 

大量生産のあり方が変わるのか、それとも大量生産の否定が導く次の何かの登場か?

 

3Dプリンターのように一定の条件下では一品物のオーダーメイドが簡単に作れるようになると、大量生産の一角はさらに崩れるようになりそうだ。

 

3Dプリンターに限定すると小さな世界に感じてピンとこないのでここはデジタルファブリケーション(総務省)と広く捉えたい。

 

(出典)総務省情報通政策研究所「ファブ社会の基盤設計に関する検討会報告書」(平成27年)

 

デジタルファブリケーションによるメリットは複数あるが、第一にはこれまでの製造技術では作製困難なものが作製できる点があげられる。加えて、個人レベルでの新しいものづくりが可能となり、これまでものをつくる行為に携わっていない人々のものづくりへの参画や、「Fab Lab(ファブラボ)」と呼ばれるデジタルファブリケーション機器が設置された施設を使うことで、組織に属さずとも高度な工作機器を使用した自由なものづくりが可能となり、新しいイノベーション、新しい経済、新しい働き方が生まれると期待されている。

 

 

 

 

幸か不幸か、人間は時代を逆行できない。

 

今が行き詰まっても、前に進むしかない。

 

 

デジタルファブリケーションは、壮大なことも可能だがそれ以上に個人レベルにとっても上手く利用できれば革命なのだ。

 

 

まだまだこれからの領域なので今からアンテナを張っておくと良いことがあるかもしれない。

 

 

最上級表現のリスク

すっかり日本語として定着したベスト(best)という概念は言語明瞭だが意味不明でもある。

 

goodの比較級がbetterで最上級がbest、昔は英語の授業で教わったことだが、今では幼稚園児でも意味を理解せずに使うことがあっても不思議ではない。

 

日本語だとベストは『尽くす』ものとされ、暗黙のうちに何か条件がつくことが多い、『現時点の』や『自分なりの』などと。

 

つまり、よくよく考えるとそれってベストではなく、あまたあるbetterの一つなのだ。

 

ベストは深く厳密に考えると概念上だけの存在でしかないのに、中途半端な人が使いたがるので巷には多種多様なベストが溢れている。

 

何事にも真摯に向き合う人だときっとベストという表現を用いることに抵抗があるはず。

 

しかし、日本人の多くに馴染みがあるのはベスト10などというベストと数字の組み合わせでの順位表現、誤用といえば誤用だがそのおかげでベストの大安売りが定着したのだ。

 

人を説得したい納得させたいと意図する時には通用する最上級の表現を使いたいのが人情だが、使うことに抵抗を感じてる人は使えない。

 

何も考えずに使う人あるいは抵抗なく使える人は自分の発言に自信を持ってると好感を持たれる、それが詐欺を成立させる要だとすると、やっぱり騙す側よりも騙される側に問題があると言えるだろう。

 

最上級表現が好きな人は危険だ。

勝負の世界

勝負に関することわざや慣用表現は以下のようにさまざまある。

 

  • 勝てば官軍負ければ賊軍

 

  • 勝負は時の運

 

  • 勝負は下駄を履くまで分からない(下駄を履くとは帰り支度をするという意味)

 

  • 勝負は戦う前に決まってる(ついている)

 

  • 負けて勝つ

 

  • 負けるが勝ち

 

 

どれもが同時に成立することはないが、そのいずれもが状況次第では、いつ、どこで、誰が(に)、何に関して、どのように、起きてもちっとも不思議ではないことを私たちは知っているし感じている。

 

要になるのは5W1Hの残された一つであるなぜだ。

 

なぜに関して番狂せや想定外が起きる場合には、広い意味での盲点が隠れている。

 

このなぜに答えがありその答えに再現性があると期待すればこそ、そのなぜの答えは秘訣やノウハウとして珍重される。

 

しかし、その秘訣やノウハウはテクニックのようでもあり心理学の駆使のようでもある。

 

いろんなことが分かれば分かるほど状況の説明や解説はできても再現性があるとは思えない部分も感じられる。

 

 

勝ち負けというのは単純ではなく複雑だということだ。

 

勝ち負けがスポーツのようなものであっても奇跡や偶然のような要素が決め手になる場合は少なくない。

 

現実の人間社会ではスポーツの奇跡や偶然の代わりに騙しや暴力や脅しが機能することが多い、その場合の騙しや暴力や脅しはある意味では心理学の駆使でもある。

 

 

勝ちたいと思う人はいても負けたいと思う人はいない。

 

負けたいと思う人はいないが、負けても構わない、なんなら負けてあげる、そんな気持ちになることはあり得る。

 

 

勝負の世界にはさまざまな思惑が渦巻いている。

 

 

勝負などしていないという勝負の世界すら存在している。

 

 

つまり、すべての人が、生きている限り勝負をしているのだ。

 

いったい誰と戦っているのか、何と戦っているのか?

 

そのことに対する答えは持っておいた方が良いだろう。

純と鈍

紙と向かい合ってきちんと字を書くことが極端に減ったので、『あの漢字はどう書くんだったっけ?』と思うことがしばしばある。

 

今日も突然わたしの脳内で鈍器や愚鈍の『鈍』と純粋の『純』がごちゃ混ぜになってることに気付いた。

 

ゲシュタルト崩壊の一種なのか、老化なのか、それよりも昔から何事も中途半端だったからかもしれないとも感じる。

 

 

使われ方から鈍にはにぶいという意味や角が丸いという意味があることはよく分かるが、純もピュアの意味合いで騙されやすいというニュアンスを感じると愚鈍に通じるなと思えることから、わたしの脳内ではこの二つの漢字はごっちゃになってしまったのだろう。

 

 

今さらながら純の意味を調べると、混じり気がないと出る、まさにピュアだ。

 

由来としては、蚕の繭から糸を作る作業が糸の純粋さを高める作業でありかつ糸をより合わせる作業だからで、屯にたむろするという意味があることとの合わせ技のようだ。

 

では鈍はというと、刃物の切れ味が悪いや、反応が悪いという意味、由来としては鋭さが薄れ丸みを帯びた状態を指すようだ。

 

鋭い刃物も集めて重ねると鈍器状になると解釈すると、優秀な人を集めた集団なのに大して機能しない集団がいることに通じるなと感じる。

 

 

本来の意味とは違うのに、取り違えて使っても実害はほぼ無い漢字はたくさんありそう。

 

世代が異なるとあるいは同じ人でも年月を経ると、同じことばでも意味が変わることなんて何の不思議もないと気付く。

後悔は百害あって一利なし

日本のプロ野球の名選手であり名監督だった故野村克也監督は数々の名言を残している。

 

その中でもわたしが一番好きなのが、

 

勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし

 

この名言にひと際味わい深さを感じたのが水原一平事件だ。

 

今更事件の内容には触れないが、この事件はリスクマネジメントや危機管理のプロの目を掻い潜って起きていた。

 

事件が起きた、事件を起こせたという意味では、全てが発覚するまでの間は水原一平さんにとっては不思議な勝ちが続いていたのだ、勝ちと書いたがそれは掻い潜ってすり抜けたという意味で、肝心なギャンブルでは負けていたのは皮肉だ。

 

一方で、この件で負けたのは大谷翔平さんではないと感じてる、失われた24億円は彼の屋台骨にはなんら影響してないからだ、せいぜいぐっすり眠れば忘れられる程度の疲労だったはず。

 

この件で不思議ではない負けを思い知らされているのは、大谷翔平さんの脇を固めていたはずの危機管理のプロ達だ。

 

プロとしてそれなりの対価を受け取る契約をして請け負った業務を、分かってしまうと極めてお粗末な対応で果たせなかったからだ。

 

もちろん言い訳があるだろうことも理解できる上で、セオリーに対して例外を認めてしまったことが敗因だ。

 

 

こういうことっていまだに全国各地で後を絶たない詐欺被害にも共通してるはず。

 

ごく初期の段階のそんな手口があるなんて知らなかった頃とは違い、さまざまな注意喚起をされてることは知っていて、気をつけなければと思ってるはずなのに、そんな思いをすり抜けて詐欺が続くのだ。

 

負けに不思議の負けなしを経験すると、後悔先に立たずを感じるはず。

 

詐欺被害は想像するだけの擬似体験でも、かなり強いインパクトを感じる人はいるので、なんの被害も受けてないけど被害を受けたかのような意識を持てる人は少なくない。

 

しかし後悔した人の中には、負けるべくして負けたという反省をロンダリングしてるかもしれない。

 

つまり、反省が定着しないのだ。

 

 

後悔は百害あって一利なし。

時間差の美学

デフレが続いた日本でも物価が上昇している。

 

つまり売ってるモノの値段が上がっている。

 

それに引き続いて上場企業や業績好調企業では賃上げや初任給アップが実現され始めた。

 

これだけを活字にして見ると日本にも好景気の波が来てるかに感じられる。

 

しかし、時間が経たないとわからないこともある。

 

皮算用では値段を上げても従来通りに売れるつもりだろうけど、収入や給料が上がるのはごく一部でしかも実質手取りとなると上がった人はどのくらいいるのか、そしていったいいくら上がったのか。

 

 

値段を上げた結果の業績がどのような結果に至るのか、真の評価はそれが分かるまでお預けだ。

 

真の評価には時間差が発生するのだ。

 

 

長年に渡るデフレという経験があったことでコスパの意味もデフレを前提にしたものになってれば、ただ単にコスパが悪いものだらけになる。

 

一方で、それを補って余りある魅力がプラスされようとしている印象はない。

 

どちらも果たしてどうなるかは今の時点では評価できないのだ。

 

わたしには消費者目線でしか見えないが、この事態は投資家目線でも大きな評価の対象になってるはず。

 

投資家は期待に着目するはず。

 

 

期待も希望と同じくパンドラの箱の中に封じ込められていた罪悪の一種なのかもしれない。

 

投資のつもりだったのに実際にやってたことはギャンブルや詐欺だった、そういうことが明るみに出るにはやはり時間差が必要。

 

だからと言って結果が出るまで待っていては投資にならない。

 

投資とギャンブルは紙一重。

 

ギャンブル依存症はあるけど投資依存症とは言われない。

 

このようなことを考えていたらはっきり分かるのは、わたしには投資家のセンスも才能も無いということだ。