違う見方

見方を変えると目からウロコが落ちるかもという独断と偏見による雑記、備忘録

若者が迷いながら脱予定調和に向かっているのかもしれない

前回下記の記事を見てブログを書いた。

 

その時は、日本の若者が変化してるが、その変化は退化かもしれないという視点で書いたが、退化に見えてる私自身が1周遅れかもしれないとも思えたので、そういうことを書いてみたい。

 

いまの若者たちにとって「個性的」とは否定の言葉である

2〜3年前、毎日新聞記者の小国綾子さんからこんなエピソードをうかがったことがある。LINE株式会社の出前授業に付き添い、中学校を訪問した時のことだそうだ。

「友だちから言われて最もイヤな言葉は? (1)まじめだね  (2)おとなしいね  (3)天然だね  (4)個性的だね  (5)マイペースだね」との問いかけに対し、一番多かった回答は「(4)個性的だね」だったという。

 

 

「まさか!」と耳を疑った彼女に向かって、生徒たちは口々にこう語ったそうだ。

「個性的と言われると、自分を否定された気がする」「周囲と違うってことでしょ? どう考えてもマイナスの言葉」「他の言葉は良い意味にも取れるけど、個性的だけは良い意味に取れない」「差別的に受け取られるかも」等々――。

驚かれるかもしれないが、どうやらこの中学生たちだけが特殊というわけでもないらしい。

 

 

「個性を重視する」ということばには懐かしさを感じるとともに、耳心地の良さも感じられる。

 

子供の頃聞いた、個性を重視するという言葉の響きには肯定感が強く感じられた。

 

しかし、その一方で中学高校とガチガチの校則は、個性を重視してるようには感じられなかった。

 

不良と言われる生徒たちが、校則に反発すると、「やりたいなら学校をやめろ」や「やりたければ卒業してからにしろ」というのは学校側の定番の答えだった。

 

当時は気付かなかったが、今なら気付くのが、すべての人には二つの立場があるということだ。

 

  • 家族や学校や職場や社会のどこかに所属してるという立場

 

  • すべての人が消費者であるという立場

 

「個性を重視する」という思想や教育が、明治期の資本主義の始まりとともに生まれた。

 

「個人の尊重」を謳ったのは誰か

学校では「子どもにはひとりひとり個性があって、その発想や想像力を大切にしなければならない」と教わる。

 

マスコミは「個人の消費行動って格好いいでしょ。これが新しいライフスタイルなのよ。」と個人消費を煽る。

 

それすなわちそのまま「個人の消費行動」に全てがつながり、それすなわち「企業の利益」に全てがつながる。

 

 

 

 

 

この個性は、消費者という立場で求められていたものであり、所属する立場で求められたものではない。

 

だから、日本語の「個性的」には、わがままや協調性の無さを連想させる悪いイメージがつきまとう。

 

経済成長とともに、消費者として「個性的」に行動し始めた日本人は、所属の場でも流動性が生まれ「個性的」に行動し始めた。

 

時間差はあったが全ての場で個性が通用するかに見えたが、経済成長が止まると二つの立場がまた分離し始めた。

 

【悲報】日本企業は個性の”無い”人間を求めている事実が明らかにwwwwwwww

個性の意味を履き違えている人が多いと思う。個性とは珍しい性格だとか 

変な奴だとか、他人と違うことをしてきた人だとか、そういうことじゃない。 

徹底的に他人を模倣して研鑽し、それでもにじみ出てきてしまうその人なりの味を 個性と言う。

 

経験の浅い人に個性なんてあるわけがない。それがにじみ出てくる域まで到達して ないから。だから企業の採用でも「新人の個性」なんて言うまやかしは評価の対象に なるはずが無い。

 

 

このエントリーは2014年のものだ。

 

学校教育や家庭で就活がどのように伝えられてるかは、推して知るべしだろう。

 

そんな中学生が「個性的」であることにネガティブな印象を持つのは当然だ。

 

 

 

所属の場では、規則と成績(挙績)がより強く求められる様になって来た。

 

情報のやり取りが、自由で多様性に富んでいる分だけ、昔より今のほうが締め付けられ感が強いだろう。

 

 

 

集団としての日本人の特徴を語る時にキーワードになるのが「ヤンキー」と言うのはよく知られている。

 

日本の消費社会を牽引してるのがヤンキーだと言われている。

 

ご存知でしたか 日本人の9割がヤンキーになる 1億総中流の時代はよかったなぁ 2013年

「ヤンキーの価値観は『気合主義』と『反知性主義』。つまり、『気合と勢いがあればなんとかなる』『ややこしい理屈をこねるより、大それたことを実行した奴が偉い』という発想です。このような考え方は、日本人なら誰もが多かれ少なかれ不良経験とは無関係に持っているのですが、近年それが顕著に表れるようになっています。

 

東京では全く売れないのに、地方では爆発的に売れているものがあります。浜崎あゆみ・EXILEなどに代表される歌手やアイドルのヒット曲、数年前にベストセラーになった『ケータイ小説(註・携帯電話で読める小説を書籍化したもの。若い女性に人気を博したが、内容が批判の的にもなった)』などは、東京では誰も興味がないのに、地方ではみんなが買っている。

 

いま日本で売れるのは、好みが多様化している東京の住民ではなく、地方で一枚岩を形作っているヤンキーに受ける商品なのです

 

ほぼすべての日本人がヤンキー化(程度の差は大きいだろうが)し、わかりやすい価値観を持っている。

 

そしてお互いにその価値観に共感しあえてることが多い。

 

生き方が多様化してるようで、多様性をあまり認めない日本では、共感するポイントは結構共通している。

 

しかし、冒頭の中学生のように従来と共感のポイントが違ってきている。

 

共感の世代間分裂が起きているかもしれない。

 

子供たちの「大人には騙されないぞ!」という気持ちの現れかもしれない。

 

同じく、共感のポイントが違ってきてることを、ドラマ「あなたのことはそれほど」の評判から感じることが出来る。

 

このドラマ小学5年の姪が好きで、一緒に見たことが何度かあるが、姪は面白そうに見てるが、私は見てて気持ち悪いことがほとんどだった。

 

これがおもしろいとなると先が思いやられるなと少し心配に思ってると、こんな記事を見つけた。

 

「あなたのことはそれほど」 共感できないヒロインに興味 

このドラマが異色なのは、主な登場人物である4人の誰にも「共感」できない、もしくはしづらいことだ。

 

大学の二つの授業で、学生たちに「見ている人は?」と聞いてみて驚いた。ある授業では、なんと約60%の学生が、そして別の授業でも約50%の学生が手を挙げたのだ。過去20年、同様の“教室内視聴率調査”を行ってきたが、この数字はとびぬけて高い。同じ枠の「逃げるは恥だが役に立つ」や「カルテット」も遠く及ばない

 

視聴理由については、「縛られないヒロインの行く末」「正常な人がいないドラマ」「罪悪感のない妻とサイコパスな夫」「普通に見えた人が徐々に変わっていく怖さ」などが並んだ。

 

 

 

たまたまなのかもしれないが、もしかしたら若い世代の間で、従来型の日本的な、あるいはヤンキー的な、好きになれない大人が作り上げた価値観に抵抗しようとし始めているのかもしれないとも思えた。

 

 

だとしたら原作者は何を表現しようとしたのだろうか?

 

原作者の漫画家いくえみ綾のインタビュー記事を見ると、

 

いくえみ綾『あなたのことはそれほど』インタビュー  私ハマるとしつこいよ――ズルい女とわるい男のリアルでドロドロなW不倫劇

――『あなたのことは~』がおもしろいのは、ネットのクチコミを見ると「登場人物のだれも好きになれない!」という意見も少なくなくて。じゃあ、つまんなくて読みたくないのかといえば、そうではまったくなく、むしろおもしろくて続きが気になってしょうがないと。登場人物もたいてい屈折してますが、読者もものすごく屈折したことになっています(笑)。

 

いくえみ 基本的にキャラにはいつも感情移入せずに俯瞰で描いてるので、だれにも自己投影しないし、私自身、ものすごくさめてるので、私も登場人物みんな読者に嫌われて当然だなあと思ってます。まあ、不倫話で「愛されキャラ」みたいなのがいるほうが、難しいとも思うんですが。イヤでダメな人間を描いているのは昔からのようです、読者の方によると。私は普通に描いているのですけど、なぜでしょうね……?

 

 

――一方で、「どの人物の気持ちもわかる」という声もたくさんあって。好きではないけど共感せずにいられないという、同族嫌悪的なものかもしれません。

いくえみそういう部分で共感をしてもらえるのなら幸いですね。

 

 

人生には模範解答という予定調和路線があると教わったのが、昭和の教育だったが、人生はもっとわけのわからない手探りなものなのかもしれない。

 

いくえみ恋愛はこうだよねとか、自分の価値観はこうですみたいなことは、話を作る時にいっさい考えてませんね。ひたすら作ったキャラを動かしていくのみです。私はこんな時こうしないけど、この人はこうするよね。こうすればいいのに、この人はしないからこうなるよね、あーあ……みたいな。その積み重なってしまった問題を片づけていくのが、ストーリーを終わらせるための私のお仕事なので、それに向かって進んでゆくだけなのです。私の考えは関係ない。あくまで客観視なんです。

 

若者の一部が、知らず知らずのうちに、脱予定調和な生き方を模索してるのかもしれない。

やっぱり変だよ、日本人!

「人間は社会的な動物だ」とアリストテレスが言ったとされるが、ウィキペディアによると少し違うらしい。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/社会的動物

人間というのは、自己の自然本性の完成をめざして努力しつつ、ポリス的共同体(つまり《善く生きること》を目指す人同士の共同体)をつくることで完成に至る、という(他の動物には見られない)独特の自然本性を有する動物である、ということを述べた。

 

だが、原典を読み前後の表現を自分で確認しようともしない人々の間に誤解が生じた。生物学者や生物学を学ぶ学生などのなかには、アリストテレスが「人間は社会的動物だ」と言ったと信じていて、しかも独特の解釈をする人が多い。

 

人間が大勢で集団を形成したら、コミュニケーションが重要になる。

 

コミュニケーションの多くは、言葉によって為される。

 

コミュニケーションの中で、短時間でやり取りが成立するものを「情報」と呼び、時間がかかるものを「教育」と呼ぶ。

 

しかし、コミュニケーションは、情報や教育だけによってもたらされるわけではない。

 

今風に言えば、「空気」が伝えるものもある。

 

空気が伝えるのは、伝えるつもりのない情報だったりする。

 

だが、伝わってしまう。

 

いまの若者たちにとって「個性的」とは否定の言葉である

2〜3年前、毎日新聞記者の小国綾子さんからこんなエピソードをうかがったことがある。LINE株式会社の出前授業に付き添い、中学校を訪問した時のことだそうだ。

「友だちから言われて最もイヤな言葉は? (1)まじめだね  (2)おとなしいね  (3)天然だね  (4)個性的だね  (5)マイペースだね」との問いかけに対し、一番多かった回答は「(4)個性的だね」だったという。

 

 

「まさか!」と耳を疑った彼女に向かって、生徒たちは口々にこう語ったそうだ。

「個性的と言われると、自分を否定された気がする」「周囲と違うってことでしょ? どう考えてもマイナスの言葉」「他の言葉は良い意味にも取れるけど、個性的だけは良い意味に取れない」「差別的に受け取られるかも」等々――。

驚かれるかもしれないが、どうやらこの中学生たちだけが特殊というわけでもないらしい。

 

 

日本とはどんな国か?と問われれた場合の答えは日本人でも世代によってずいぶん違いが出るのだろう。

 

 

 

終戦後を基準に語ると、すごく成長した国に見えるので、大したもんだと感じるが、1980年台を基準にすると、豊かな国だけど一時はジャパン・アズ・ナンバーワンとまで言われたが世界のリーダーにはなれなかったと見える。

 

21世紀に入ってからは、悪くは無いけど良くもない。

 

というのが私の日本観だが、今私が学生だとしたらどう見えるのだろうか。

 

大学生になると社会との接点も増えるだろうが、大人として見えているのは親や教師が

中心になるだろう。

 

大学生未満になると、親と教師だけという場合が多いだろう。

 

メディアを通じての大人にどこまでリアリティを感じているだろうか。

 

情報や教育とは別の、その時代の空気がつくりだす文化がある。

 

アパレル企業を悩ませる“量産系女子”
「たくさんある服の中から、誰かに選んでもらいたい」

洋服の“賞味期限”が短いのも特徴かもしれません。食べ切れないものは買わないし、所有しておくことの気持ちよさは特段ない。タンスの中で腐らせず、買ったらすぐに着て、次の年には持ち越さない。生鮮食品のようです。

 

服を買うだけならば、ネットで済む。夜中でも買い物できて、うるさい販売員もいません。返品もすぐ対応してもらえる。それを乗り越えるメリットは、「自分に合っているかどうか」という価値観や指針をもらえることではないでしょうか。

 

スマホが普及したからのようでもあるが、スマホが無くてもこの傾向は生まれただろう。

 

空気のせいだと書いたが、10代の人間、年上でもせいぜい二十歳の人間が、何の影響を受けてこのような価値観を身につけたのだろうか?

 

おそらくこの21世紀に入ってからの何かが原因かもしれないと思っていたら定期購読してる宋文洲さんのメルマガの最新号にこんなことが書いてあった。

 

今でも鮮明に覚えていますが、年を取った保守派の重鎮たちが「やっぱり我々じゃないと日本がダメになる」のような態度で全面的に復活を成し遂げ、戦後最大のベンチャーブームに水を差し続けました。その悲しい状況をみて私は10年以内に日本が面白くなくなると思って43歳で日本の経済界から抜けました。

 

宋メール2017.6.23(第329号)

  最低の起業意欲が何を示唆するか(論長論短 No.297)より引用

 

 

これは、2006年の村上ファンド事件をキッカケにベンチャー企業潰しが一気に進んだ時のことだ。

 

当時の悪者の代表が、村上世彰と堀江貴文だった。

 

確かに当時のこの二人は、嫌われキャラだったが、法律を犯してもいないし、誰かを騙したわけでもない。

 

おそらく子供たちは、そんな日本が醸し出す臭いを感じ取って、それに適応する術を身に付けただけかもしれない。

 

しかし、この適応は進化ではなくむしろ退化かもしれない。

 

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出典:「社長になりたい」新入社員が減っている 2016年7月

 

今日本を覆ってる閉塞感という空気は、2006年につくられ、時代を逆行させる力となっている。

 

そういう力は十把一絡げに「保守」と言われてる。

 

そんな「保守」に対する不満がすごく高まっている。

 

かって保守は、台頭するベンチャー企業を全力で嫌った。

 

今多くの日本人が、かってのベンチャー企業を見る「保守」のように、「保守」を嫌っている。

 

今は、日本が変われるかどうかの瀬戸際にいる。

 

日本が変われた場合、「個性的」を否定的に捉える人にはツライ時代の始まりになるかもしれない。

「欲から入って、いかに欲から離れるか」

名将と言われた鶴岡一人は、「グラウンドには銭が落ちている」という名言を残してる。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/鶴岡一人

愛称は鶴岡親分ツルさん。初代「ミスターホークス」「ドン鶴岡」とも呼ばれた。南海ホークスの黄金時代を築いた名監督で、日本プロ野球史を代表する指導者の一人。

 

そんな鶴岡監督にブルペン捕手として採用されたことでプロ野球生活を底辺からスタートさせたのが、野村克也だ。

 

確執の多い二人だが、野村は「最も影響を受けたのは鶴岡さんであり、自分の采配に鶴岡さん的なところがある」と認めている。

 

そんな野村の監督としての持論が、

 

勝負の要諦は、「欲から入って、いかに欲から離れるか」だ。

 

 

野村が、お金に拘ることで選手として成功したのは、スタートが底辺だったことが大いに関係してるだろう。

 

しかし、監督になり選手の育成や采配そして勝負にこだわった結果の持論が、「欲から入って、いかに欲から離れるか」というのはおもしろい。

 

実力とやる気を持っているのに成功しない多数のプロ野球選手を見て、接して、気付いたことなのだろう。

 

 

 

ビンボーでも幸せな人は、なぜ幸せなのか

重要なのは、地位財による幸福は長続きしないのに対し、非地位財による幸福は長続きする、という点です。

 

 

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正反対の価値観が同時に存在することがある。

 

例えば、大食いや美食を礼賛し勧める(というより煽るという方が当てはまるかも)一方で、健康のために粗食や少食を勧めたり。

 

人生には、禅問答のように答えが複数存在したり、答えが新たな問題を生み出すことがしばしば起きる。

 

何か行動を起こす時、どこまで自覚できてるかは不明だが、そこには動機が存在する。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/動機

人が心を決めたり、行動を起こしたりする直接の心的原因のこと。目的とは異なる。

 

 

動機は、目的とは異なるとあるが、動機と目的の関係はどうなってるのだろうか?

 

  • 目的があるから動機が形成される

 

  • 取ろうとする行動に応じて目的を設定する

 

 

どちらもありな気がする。

 

しかし両者の目的には大きな違いがありそうだ。

 

動機の前にある目的は、具体的で絶対性が高いように感じる。

 

例えば、勉強するという行動に対し、”◯◯大学に受かるため”や”☓☓の研究をするため”のように。

 

それに対し、行動に応じて目的を設定する場合は、絶対性が弱くなるように感じる。

 

同じ勉強するでも、”順位を上げたい”や”しないと落第するから”のように。

 

 

絶対性が弱まると、相対性が強くなってくる。

 

人が切磋琢磨しあう事を競争と言うが、この競争が順位争いばかりになると、相対的な位置関係が過度に意味を持つようになる。

 

20世紀は、相対的な順位争いに価値を持たせていた時代だった。人もモノも上に位置する方がより評価された。

 

21世紀に入っても、相対的な位置関係にこだわってる人や企業はまだ多いが、社会インフラを始めとしてバックグラウンドで高度な技術が普及すると、順位が高くても一定水準を満たさないものは全く相手にされなくなリ始めているような気がする。

 

相対的な位置に拘る最後のあがきが”ブラック”かもしれない。

 

 

つまり、相対的に有利な立場を得ることが20世紀型競争だったのに対し、具体的になにができるのかという絶対性を競うのが21世紀型になるのではないだろうか。

 

相対的に上に位置することに価値があったのは、ビジネスの場で「先行者利益」があったから。

 

後ろから追いかける人や企業も、やがて追いついてくるのだが、そこには時間差があったので先行者が大きな利益を得ていた。この先行者利益は、どのテクノロジーを活用するかでも違いが発生していた。そのテクノロジーを後発参入者が使いこなせるまでは差をつけることが出来ていた。

 

しかし今は、すべての人が情報をほぼ同時に入手でき、最新テクノロジーは使いこなすのに時間や技を昔ほど必要としないので、先行者利益は当てにできない。あっても持続期間があまりにも短くなるのでメリットと言えるほどではなくなる。

 

テクノロジーがコンテンツだった時代は終わった──真鍋大度

──参入障壁が下がった結果、表現が均質化したとも言えますよね。

新しいテクノロジーを用いて、それを色々試してみても、可能な表現は本当に限られています。だから、最後はみんな同じようなものになるんです。早い者勝ち、もしくはスケールアップさせて、いち早く大衆化させたほうが勝つ。これらはぼくらにも常に付きまとう問題ですね。

 

 

こういう事を考えてると、時代は”相対性”から”絶対性”に移ってるようにも見えるが、人間はそもそも相対性に反応する生き物とも言われてる。

 

1929年世界恐慌の発生する2ヶ月前に、恐慌の発生を予見しながら亡くなったソースティン・ヴェブレンは、こう言っている。

 

「人間はほかの人との相対的比較において、自分が上回っていると幸福だと思う動物で、絶対的レベルで幸せだとは思わない。だからもっと豊かに、とばかり考えていると、バブルになり、それがはじけて大変なことが起こる」と。

 

他人と自分を比べることで自分の位置を確認する事に慣れると、自分が何をしたいのかを見失う。

 

”赤信号皆で渡れば怖くない”ということばもあるが、他人と自分を比べてばかりの生き方に赤信号が点り始めた。

 

勝ち組負け組ということばがいつの頃からか社会に定着している。

 

相対性に振り回される生き方を止め、絶対性を追求しようと考えても、何をどうすれば良いかは、禅問答のように同じ言葉が繰り返されるだけかもしれない。

 

そんな時は、野村監督の持論がヒントになりそうだ。

 

「欲から入って、いかに欲から離れるか」

市場があるから商品が活きる

営業を経験したことがある人だったら「弊社の商品は・・・。」などと喋ったり、逆の立場で他者の営業を受けたりしたことがあるだろう。

 

わたしもあるが、この「弊社の商品」という呼び方、弊社の部分は我が社でも当社でも同様だが、何度使っても聞いても違和感を感じる。

 

これまでで最も違和感を感じたのは、銀行マンが「弊社の商品は・・・」と言いながら、バッグから資料を取り出し、金利が表示されてるパンフレットを取り出したりする時だ。

 

しかし、営業先のお客とざっくばらんな関係が築けてる場合に、つい口から出る「うちの商品は・・・」と言うような場合は、違和感は感じない。

 

こんなことに違和感を感じたりするのは、自分だけなのだろうかなどと”商品”ということばを考えていて思ったことを書いてみたい。

 

モノやサービスだけでなく「人」も商品になる。(犯罪は意味するもではない)

 

この場合、商品は人材とも言い換え可能になるが、モノやサービスとの違いはその人でなくてはいけないという”代替不可”感がありそうな気がする。

 

だから指名という制度があったりする。

 

買う客の側では商品とは全く思ってないが、売る側では商品以外の何者でもないのが芸能人だ。

 

特に大手事務所に所属してる芸能人ほど商品色が強いだろう。

 

普通、商品が問題を起こす場合のほとんどが客からのクレームだろうが、人が商品の場合、商品も自らクレームを発する。

 

昨年以来のsmapの解散騒動は、商品が起こしたクレームだ。

 

また芸能界では、タレントを管理するマネージャーとタレントの恋愛関係の発覚がしばしば話題になるが、このような場合「商品に手を付けた」ということでマネージャーに非難が集まるし、最終的には事務所のマネージメントが問われる。

 

芸能界では、恋愛はスキャンダルと扱われる、それ自体は悪いことではないのに。

 

それは芸能界のビジネス的儲けが、ごく一部を除くと、客であるファンとの疑似恋愛の上に成立してるからだろう。

 

 

smapの解散の問題は、今回一応の決着を見せた。

 

SMAPメンバー3人の退社が正式決定。中居正広が残留を選択した意図とは

ついにSMAPメンバー3人、稲垣吾郎・草なぎ剛・香取慎吾のジャニーズ事務所の退社が正式に発表された。昨年は退社が濃厚と報道されていた中居正広は残留を選択している。

 

 

中居が残留する理由について、ジャニーズ事務所と交渉し「自分は残るから3人を好きにさせてほしい」と懇願したと言われている。ジャニーズ事務所の中でも稼ぎ頭の中居の利益を提供し続ける代わりに芸能界において圧力をかけないようにしてもらうための取引だったのだろうか。

3人が独立して芸能活動を再開した場合、中居がジャニーズ事務所にいるからこそ、その圧力をやめさせることができる。「3人を守る盾」になることを決意したものと見られている。

 

 

日本の商品は、自動車を始め電化製品も故障しないことで定評があるが、これは過度にクレーム対策をした結果であると言われる。

 

そうなった理由は、日本人が世界で最もクレームを発するからだろう。

 

日本の商品は、日本人が鍛えたのだ。

 

しかし、日本人のクレームは少し特徴があるようだ。

 

欧米のクレームと日本のクレームの違いwww日本人どんだけ民度低いんだwwww

クレームの話は実に興味深かった。欧米のクレームは主義主張や原理原則など、「論理」に基づいているが、日本のクレームは「不快」であることが基準になっていると。それを簡単に受け入れるのが問題だと思う。

 

 

不快であることがクレームとして通用する日本を基準にすると、海外メーカーはどう映るのだろうか。

 

こんな海外メーカーは避けた方が無難と言う10のポイント

すぐに問題無いと言う海外メーカー

クレームが0の海外メーカー

やたらと見せてくれない海外メーカー

取引先と長続きしていない海外メーカー

財務体質が悪い海外メーカー

マーケット情報をあまり知らない海外メーカー

現地での評判が悪い海外メーカー

上司が出て来ない海外メーカー

日本語だけが上手い海外メーカー

すぐに「友達だから・・・」と言う海外メーカー

 

 

 

人が商品の世界では、事務所がメーカーになるのだろうか。

 

だとすれば、クレームは事務所に入り、事務所が対応することになる。

 

人の問題は、本人に帰属するとつい思ってしまうから、芸能人にクレームが発生した場合、その芸能人個人の問題だと感じがちだが、芸能ビジネスの現場では全て事務所が対応することになるはずだ。

 

だから事務所が力を持つのは当然だし、人が商品の現場では、その人も力を持つのでコントロールが効かないことも起きるだろう。

 

 

小出恵介の所属事務所「アミューズ」株価が急落

同事務所から小出の処分について発表された午後2時すぎから、株価が下がるという現象がみられた。

 

 

上記のように芸能事務所が逃げずに全てを受け入れるから、芸能市場はうまく機能する、そのことを関係者が皆理解してるから成立する世界だろう。

 

これまでただ胡散臭いだけに思えていた芸能事務所だが、一般企業と同じだし、むしろ一般企業より厳しいルールが適用されてるかもしれないと感じるようになった。

 

ところで、中居正広がジャニーズ事務所に残留してまで守ろうとしている3人はどうなるのだろうか。

 

芸能人が、事務所を離れるということは、市場を失くすということだ。

 

次は中身は同じでも、名前はいっしょでも、別ブランドの商品となる。

 

商品の魅力で売れてたのか、事務所(メーカー)のフォローで売れていたのかがはっきりするだろう。

 

 

元シブがき隊の布川吐露、今も3人そろうことはない

布川は「大きな事務所にいればタレントとしては安心感はありますよね。(退所すると)自分の責任が必要になったり、マネジャーさんと相談してセルフプロデュースみたいなこともしなきゃいけないし、その辺は大変といえば大変ですし、気楽といえば気楽」と語った。

 

 

売れてる時には、もっと高く売って欲しいと望む。

 

高くするためには、付加価値という飾りが必要になる。

 

 

一方、安いものには理由(ワケ)がある、だから理由(reason)があるものはお買い得なもので、リーズナブル(reasonableと言われる。

 

「お買い得」のメカニズム

 

モノの価値は相対的にしか認識できない

何が言いたいのかというと、ようするに人間はほとんどの場合、モノやサービスの価値を相対的に認識しているということだ。あるものに価値を認識し、その代価として何がしかのおカネを払う。購買とはそういうことだ。

 

この購買の意思決定プロセスで、顧客が対象について「絶対的な価値」を把握するということはほとんどない。必ず何らかの比較対象、すなわち「準拠点」を(半ば無意識のうちに)設定し、それと比べて高いとか安いとか得だとか損だとか判断し、選択し、購買の意思決定をしているのである。

 

 

 

真偽の程はともかくこんな話が出てきた。

 

 

ジャニーズ退所の稲垣、草なぎ、香取が中国進出へ

 

 

 

市場があるから商品が活きる。

俺の人生に刺し身は必要ない!

木曜日(6月15日)の夜、アジの刺身を食べた。

 

海の生物(なまもの)は苦手なので嫌な予感がしたが、良かれと思って出されたものなので、義理を果たす意味で食べた。

 

他人の2倍も3倍も薬味を使うことで生っぽさを打ち消しながら食べると、出された分を全部食べることができた。

 

「よしよし、うまく乗り切れた」つもりであったが・・・。

 

 

 

それから約3時間後、そろそろ寝ようかなと思ってると、お腹の具合がチョット変なことに気付いた。

 

痛みがあるわけではないが、起きているのが辛い感じになるが、寝ても辛い感じが治らない。

 

「ヤバイ」

 

「なったかも」

 

もうアジに当たったとしか思えなかった。

 

だとすると、さほど時間を置かずに嘔吐か下痢が始まると思っていると、お腹がグルグル音を出し始めたので、下痢が始まると思い、いざとなったらすぐに動かねばと心の準備をしていると、突然嘔吐感が押し寄せ、トイレに駆け込む。

 

少し楽になるが、下からも来ることはわかってるので油断できない。

 

ベッドに横になってると、

 

「来た!」

 

すぐにトイレに駆け込むが、この時点で動きはモタモタヨロヨロになっている。

 

案の定、下痢だが普通の下痢ではない。

 

固形物ゼロの完全液状、それもサラサラとした液状で、腸内でとてつもなく悪いことが起きてるのを理解するのに充分だったが、これで一段落だとも思っていた。

 

再度ベッドに戻るが寝てても楽にならないので、寝れない状態で1時間位したところで同時に上と下から攻めてきた。

 

モタモタヨロヨロ必死の思いでトイレに駆け込むと、下痢が出たが、これまた完全液状で先程の倍くらいの量、次に嘔吐が続いた。

 

お腹の中にある悪いものが全部外に出た感覚は得られたが、体調の回復は予感できない。

 

これが金曜の2時頃。

 

洗面所で口をゆすぐと、もう体を動かすことができなくなっていた。

 

洗面所の床で寝ることにしたので、家族に毛布を持ってきてもらう。

 

下痢と嘔吐で、脱水症状になってることは感じていたが、それなのに全身に玉のような汗が出て寒気がしたが、しばらくすると少し楽になってきた。

 

妙に硬い床が心地よく感じたのもつかの間で、床が硬いからなのかそれとも体調のせいなのか寝返りを打ってると、やたらと脚がつる、おかげで寝ることができずに朝5時になった頃、無理すれば起きられる気がしたので、這うようにしてベッドに戻る。

 

普段はなんとも思ってなかったが、ベッドの寝心地のなんと良いことかと痛感した。

 

脱水症状で抜けた水分と、脚がつる原因となったのはミネラル不足だろうから、その補給も考えなければいけないが、食欲がまったくなく何も口にしたくないので、とにかく寝ることにする。

 

 

 

しばらく寝ると回復方向に向かいつつあるのは感じられたが、そして体はフラフラなのに食欲は相変わらず全くない。

 

とにかく水だけは取らなければと思い、余ってるペットボトルに水を入れ枕元に置き、塩分補給のお菓子があることを思い出しそれを取ることにした。

 

 このスポーツサプリもどきのお菓子。

カバヤ 塩分チャージタブレッツ 90g×6袋

カバヤ 塩分チャージタブレッツ 90g×6袋

 

 

 

この程度のお菓子を口にするのも一苦労だったが、一粒舐めてから一時間位経過するたびに脚がつる感じが軽減するのを感じた。

 

一時間に一粒のペースで計五粒舐めたところで、脚のつりが完全に無くなった。

 

食欲の都合で一時間に一粒しか取れなかったが、一度に五粒取ったらどうだったのかはわからないが、摂取後効果を体感するのに一時間かかったのは、はっきり感じた。

 

ここまで来ると治るのは時間の問題だと感じられ、少し余裕が出てきた。

 

 

 

アジの刺し身で食あたりと言えば腸炎ビブリオ菌かなと思うが、発症が食後3時間というのが合わない気もする。

 

魚介類に注意!腸炎ビブリオによる食中毒の症状と治療法

腸炎ビブリオ菌は、感染後10~20時間ほど体内に潜伏します。発症すると激しい腹痛があり、下痢、嘔吐、発熱をともないます。まれに、しびれやチアノーゼがみられることもあります。

 

 

もう少し検索すると詳しいサイトがあった。

 

発症時間から考えると、黄色ブドウ球菌だったのだろう。

 

【閲覧注意】刺身の食中毒はヤバい!その症状とは!?

黄色ブドウ球菌

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主な症状は、激しい吐き気と嘔吐下痢、発熱などです。

 

食後3時間ほどで、急に症状が出るのが特徴です。

 

調理した人の手に傷や湿疹があると、そこに菌がたくさんいます。

その菌が食べ物に移動して、人の口に入り感染します。

 

熱に弱い性質を持っていますが、加熱していない刺身では菌の働きは消えません!

 

 

治療は水分補給が中心です。

並の体力の人なら1日~2日で回復します。

 

ただし、症状がひどいと入院が必要になります。

 

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/黄色ブドウ球菌

黄色ブドウ球菌による食中毒は、食品中で増殖してそこで黄色ブドウ球菌エンテロトキシン素を産生するために起きるものである。この毒素は耐熱性で、食品を加熱することによってブドウ球菌そのものが死滅しても、毒素は耐熱性のためそのまま残る。それを食べた場合に激しい嘔吐を伴う食中毒を引き起こす。このような食中毒を毒素型食中毒と呼ぶ。

 

 

今回食べたアジは、新鮮さを売りにするところで調理されたものだったし、見た目も新鮮だった。

 

ということは、調理した人間に問題があったのだろうか。

 

どうにかブログを書きたくなる程度まで回復できたことはなによりだ。

 

もともと生物(なまもの)は苦手なので、今回の件で”あつものに懲りてなますを吹く”ようになりそうだ。

 

もう俺の人生に刺し身は必要ない!

ホトトギスを無理やり鳴かせようとするビジネスが旬を迎えている

インターネットが普及した初期の頃、ネットの世界は無限感にあふれていた。

 

ブログやSNSは、オープンさの度合いに若干違いはあるが、向こう側に広い世界があることを感じさせるのに充分だった。

 

感じさせられる広大さは、夢や希望を感じさせるとともに、広すぎることで感覚が麻痺するようなところもあった。

 

感覚の麻痺は、悪い形で現れやすい。

 

プールでおしっこをするのは良くないと誰でも理解してるが、海でするのはあまり抵抗ないだろう、ましてや宇宙だったらというのがネット界のマナーに影響を与えているだろう。

 

良くも悪くもオープンであるがゆえというのがネットの世界だった。

 

 

 

それから10年。

 

 

 

ネットは世界に開かれてるが、日本語で発信してる限り、日本語が出来る人にしか届かないし、時事ネタや芸能ネタを絡めたら、日本に住んでる日本語が出来る人が対象となる。

 

広い世界ではあるが、無限ではないし、よく考えるとネットが普及する前と広さは同じだということに気付く。

 

ネットの普及が変えた最大の違いは、リアル社会で知り合うことができなかった人同士が、コミュニケーションを取り合えるようになったことだ。

 

 

ネットが普及し出した初期の頃からマナーの問題はあったが、その中の1つにノイジーマイノリティと言われる存在があった。

 

最近評判が悪い長谷川豊さんが「ノイジーマイノリティ」を上手に説明してくれてます。

しかし、「正論」を唱える人間には「それにまとわりついて、正論を利用するだけのバカ」が必ず湧き出てくるのです。

 

このノイジーマイノリティの反対の存在がサイレントマジョリティと呼ばれる。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/サイレント・マジョリティ

アメリカニクソン大統領が、1969年11月3日の演説で「グレート・サイレント・マジョリティ」とこの言葉を用いた。当時、ベトナム戦争に反対する一部の学生などにより反戦運動が行われており、メディアなどから注目を受けていた。

 

実際に1972年アメリカ合衆国大統領選挙ではニクソンは50州中49州を獲得し、圧勝している。

 

ネットの普及が可能にしたリアル社会で接点がない者同士のコミュニケーションの一部に、ノイジーマイノリティの存在が目立つようになった。

 

当初のノイジーマイノリティは、正論を武器に有名人に絡むという図式だった。

 

絡まれる有名人側も炎上マーケティングと言われる、ノイジーマイノリティを誘うような手法をよく取っていた。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/炎上マーケティング

炎上を意図的に引き起こし、世間に注目させることで売り上げや知名度を伸ばすというマーケティング手法である。

 

 

炎上マーケティングが用いられてのは、炎上したり、ノイジーマイノリティに絡まれるとアクセス数が増えるなど、データとして悪くないものが見えていたからかもしれない。

 

しかし、炎上したり、ノイジーマイノリティに絡まれることはストレスでもあるので許容範囲を越えると受け入れ難くなる。

 

 

だから最近のSNSは、ブロック機能を持っている。

 

SNS 気軽にブロックして友達整理する人が増加

「ブロックするという行為そのものがカジュアル化し、気軽に行われています。ブロック大会の開始と終了を知らせるためのテンプレート画像が広まっているほどです。若い世代の場合、一回会っただけだったりTwitterで意気投合した会ったことがない人とも気軽に登録して友達になるので、友達を把握しきれなくなりやすいという事情もあります。

 

夏休みや年度替わりなどの節目がきっかけになりやすいですが、毎月のように『ブロック大会』を宣言している人もいます。ブロックされる前にブロックする側になりたい、自分への反応を確かめたい、などの気持ちも働いているのでしょう。mixiやFacebookでも、ときどき似たような投稿を見かけます。若い世代に限らず、大人でも同じことをしている人はいますね」

 

 

よく炎上させることで有名で、ノイジーマイノリティのあしらいなんてお手の物に思えていた人達もブロックを多用している。

 

うはっ、津田大介さんにブロックされた!

 

池田信夫、獣医の仕事を軽視した発言に反論されて即ブロック!「器小さすぎ」とネットで非難が集まる!

 

 

【ちきりんブロック】元マッキンゼー伊賀さんが激しく炎上していると聞き火事場見物に行ったところブロックされていたでござるの巻

 

そんな”ちきりん”さんは、池田信夫さんをブロックしているようだ。

 

 

 

 

この二人2011年の「BLOGOS AWARD 2011」で並んで受賞して、その後ブログやツイッター上のやり取りを見てるとお互いをリスペクトする感じが受け取れてた時期があったのだが・・・。

 

アゴラが「BLOGOS AWARD2011」で「ブログメディア賞」を受賞

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少しゴシップ気味に話を展開してるが、本当に書きたいのはここから。

 

オープンな場に思えたネットの世界が、時間の経過で成熟を見せ始めた時に、ブロックという閉鎖性が広まりだした。

 

SNSの中心をなすfacebookやLINEも大勢が参加してるが、内輪の世界を囲い込むという閉鎖性が特徴だ。

 

閉鎖的に囲い込むということが、日本におけるキーワードになるかもしれない。

 

そしてもう1つのというか、真のキーワードは、老若男女問わず「儲かりたい」だろう。

 

ネットの世界が注目を浴び出した当初は、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」というスタンスでファンを増やすためにコンテンツの中身を意識していたのが、時間の経過でPV(ページビュー)が評価軸として確立したことがわかると、スタンスが「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」に変わり、コンテンツよりPVを重視に変化したのが今だ。

 

この流れを改めるべきという世間の認識は共有できてそうだが、すぐに変わりそうには見えない。

 

オープンに見えた場にブロックが持ち込まれたのは、オレの(わたしの)商売(儲け)のジャマをするなという気持ちの現れかもしれない。

 

もうひとつ気になる点がある。

 

少し前まで、PVを増やすために炎上が利用されたが、今は炎上させるとPVが下がるようになってるのではないだろうか?

 

そのことが、データとして見えているのではないだろうか?

 

だから、炎上上等な人達ですらブロックを使いだしたのではないだろうか?

 

 

 

 

スタンスの違いを戦国武将に例えたが、この見方が正しいとするなら、戦国時代とは逆行してる点がおもしろい。

 

ホトトギスの俳句で有名な鳴かぬならの後は?武将の性格は?

信長(1534~1582)「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」

秀吉(1537~1598)「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」

家康(1543~1616)「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」

 

 

 

そうこうしてると、新しい評価軸を求めているが見つからないネット界の迷える子羊を惑わすビジネスがでてきた。

 

 

 

VALUって本当にやばい?はてなブログで「VALUというサービスがやばいんです」が公開されて以降の流れ

 

VALUが単なる「ねずみ講」になるのを防ぐには、上場者が他の上場者のVAを購入することに一定の制限を加える必要がある

VALUは株じゃないし、投資ですらないです。だから「リターンがある」、「利益」、「投資」などの単語を使って投資を促すと、法に抵触する恐れがあります。

 

 

 

イケダハヤトの「ツルハシビジネス」とその危険性

VALUという金山があると煽り、道の途中でツルハシ(ビットコイン)を売るビジネス。

 

 

 

今は、ホトトギスを無理やり鳴かせようとするビジネスが旬を迎えている。

「世界の果てまでイッテQ!」が気付かせてくれたこと

住所や電話番号や生年月日という個人情報が、ほぼ公だった時代があった。

 

学生時代、石原裕次郎の家から車が盗まれるという事件があった。

 

新聞に、詳しく住所が出ていたので、友人と家を探しに行ったことがある。

 

それがきっかけで、高級住宅街を散歩と称し、有名人の家探しを友人としたことがある。

 

今だったら、この行為は非難される行為かもしれない。

 

昔の小説の巻末を見ると、著者の連絡先が明らかに個人の自宅と思しき場所であることは当たり前だった。

 

昔、著名な人に弟子入り志願する人が自宅を訪ねられたのは、住所がオープンに扱われる情報だったからできたことだろう。

 

 

個人情報が秘匿性を有する情報と認識され始めたのは、犯罪やビジネスのターゲット設定に利用され始めたのがキッカケだ。

 

昔の家の表札は、家族全員の名前が書いてあることが珍しくなかった。

 

それがいつの頃からか、名字だけの表札になり、一戸建て以外では表札を出さない家が増えてきた。

 

これは、増え始めたDM(ダイレクトメール)や訪問販売に対し、家族構成や家族情報を知られたくないということがキッカケだろう、1980年頃だ。

 

またこの前後の頃から訪問者に対し、玄関を開けるのは当たり前だったのが、ドア越しの対応になり、インターホンの普及が進みだした。

 

外部と遮断する場合の家側の情報を、個人情報と呼ぶが、その家の内部でもプライバシーと言う個人情報が遮断されている。

 

子供に勉強するために個室を与えることが生み出した、意図しない情報遮断の発生を起こした。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/プライバシー

プライバシーに関する議論の論点は、以下のようにカテゴライズできる

  1. 放っておかれる権利(the right to be let alone)
  2. 他人による個人情報へのアクセスを制限する選択肢(the option to limit the access others have to one's personal information)
  3. 秘匿、すなわち他人からの任意の情報を隠す選択肢(secrecy, or the option to conceal any information from others)
  4. 自分に関する情報を他人が利用する事へのコントロール(control over others' use of information about oneself)
  5. プライバシー状態(states of privacy)
  6. 人間性と自律(personhood and autonomy)
  7. 自己のアイデンティティと人間的成長(self-identity and personal growth)
  8. 親密な関係の保護(protection of Intimate relationships)

 

 

 

 

 

もともとプライバシーや個人情報という概念がない日本人には、ムラ社会という束縛関係があったが、これは悪いことのように捉えられることが多いし、私自身も好きではないが、関係を持ってる人の面倒を見ると言う意味で突き放さない関係性があるのは良い点だ。

 

個人情報やプライバシーが守られない替わりに、ムラ社会という束縛関係で脱落者を出さない仕組みがあった日本で、プライバシーや個人情報を守るようになったらムラ社会は成り立たなくなる。

 

プライバシーや個人情報は、好ましくない利用をされないために保護することが重要だとされたが、保護することで『自由』を加速させたが、同時にあらゆる分野で関係性の遮断を促進した。

 

「ムラ社会という束縛」から「自由」への移行に見えるが、ムラ社会が面倒見ていた人間関係が行き場を無くしただけだとすれば、しわ寄せが出るのは当然だ。

 

自由とセットで進められるべき「流動化」が進まなかったことの不都合が、日本の閉塞感につながっているかもしれない。

 

だからなのか今の人々は、新しいムラを求めてるように見える。

 

ムラの定義は様々できるだろうが一言で言うなら「帰属先」といえるかもしれない。

 

「勝ち組・負け組」と騒ぎ立てる人のイヤらしさ
楠木建の「好き」と「嫌い」――好き:出たとこ勝負 嫌い:勝ち組・負け組

勝負とか勝つとか負けるとかいうのは基本的に自らの能動的な行為でありその結果である。にもかかわらず、話が集団への帰属にすり替わっている。自分はその「組」に入っているだけ。勝負が自分の意思による選択や行為ではなく、どこか受動的というか、他人事になっている。

 

 

まんざらでもない顔をして「俺は勝ち組だから……」とか悦に入っている輩は、その時点ですでに負けている。実際のところ「負け組筆頭若頭補佐代理」のようなものだ。いまは勝ち組にいるにしても、未来永劫安泰であるわけがない。個人の地力がなくては、いずれは負けてしまう。で、負けたら負けたで「どうせ俺たちは負け組だから……」と「組」に責任転嫁する。

 

 

こんなことを考えるキッカケになったのが、キムタクだ。

 

芸能界の圧倒的な勝ち組だったキムタクこと木村拓哉は、圧倒的な人気を誇り、人気者の常としてアンチも多く抱えていた。

 

そんなキムタクがsmap解散を巡り一人悪者扱いを受けることで、日本中を敵に回した。(チョット大げさ)

 

キムタクと言う存在は、ある意味日本人の男が描く理想像かもしれない。

 

常にカッコイイ存在であることを求められ、自分自身もカッコイイことを認識できている。

 

だから演じる役回りは常にヒーロー役。

 

しかし、ヒーロー像は多くの場合ワンパターン化する。

 

長年に渡るワンパターンが、予定調和をつくり、独特なうんざり感が出てくるからアンチも増える。

 

これはキムタクが悪いわけではなく「ヒーロー役」の宿命だろう。

 

とアンチの気持ちを察しているようなことを書いたが、これは私自身の気持ちだ。

 

smap解散を巡りキムタクがバッシングを受けるのに慣れてきた先月こんな記事が出た。

 

キムタク カンヌ国際映画祭「重大マナー違反」で大炎上 :東スポweb

 

キムタクに対してアンチの気持ちが芽生えてしまうと”坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”となり、この記事も字面だけで「キムタクってそういう奴だ」と納得する自分がいた。

 

しかし、6月11日の「世界の果てまでイッテQ!」を見て猛省した。

 

キムタク、カンヌ「空手ポーズ」真相 やっぱり「パパラッチ出川」へのサインだった

すると、名前を呼びながら空手ポーズをする出川さんに気付いた杉咲さんと木村さんは、出川さんに向かって空手ポーズで応答。その直後、木村さんは出川さんのもとへ駆け寄り、左腕を出川さんの肩に回して笑顔で一緒にセルフィーに納まった。

 

 

テレビを見てると、キムタクも杉咲花も三池監督も皆が笑顔だった。

 

その場に、幸福感がある良い時間が流れているのは明らかだった。

 

あの場で取材をしていて、「重大マナー違反」と書けることが不思議だ。

 

今回の反省点は、よく知りもしないのになんとなく身についた先入観に合致する情報が与えられると、勝手に信じ込んでしまったことだ。

 

日頃こういう事がないように気をつけたいと思っていたはずだが、完全に毒されていると気付いた。

 

 

もう一点は、反省点ではなく注意点として、嫌いな人に対して欠点を探そうとしてしまうこと。

 

意識的な悪意をもちろんのこと、注意すべきは無意識の悪意だ。

 

勝ち組を目指す気持ちが「自意識過剰」を生み、負け組を嫌悪する気持ちが「被害妄想」を生む。

 

この二つの異なる意識が心のなかに同居しているのでおかしな行動取ることがあるが、それはムラという帰属先を無くした状態で勝負しようとしてるからかもしれない。

 

 

いずれにせよ、自分で勝負に出ていないことには変わりはない。

「勝ち組・負け組」とか言っている連中に言いたい。

勝ち負けぐらいで「組」になるな。勝負は一人で勝手にやれ!

「勝ち組・負け組」と騒ぎ立てる人のイヤらしさ
楠木建の「好き」と「嫌い」――好き:出たとこ勝負 嫌い:勝ち組・負け組