違う見方

見方を変えると目からウロコが落ちるかもという独断と偏見による雑記、備忘録

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昨年末に降って湧いた下記の話題。

 

iPhoneに「計画的陳腐化」の疑い 仏検察が調査開始 2018年1月9日

仏パリの検察当局は、米IT大手アップル(Apple)のスマートフォン「iPhone(アイフォーン)」の一部機種で「計画的陳腐化」が行われた疑いについての調査を開始した。司法筋が8日、AFPの取材に明らかにした。

「計画的陳腐化」とは、消費者に新製品を購入させるため、すぐ旧式になる製品を意図的に製造する行為のことで、この慣習は広く批判を呼んでいる。パリ検察の調査は今月5日に開始され、独占禁止(反トラスト)と消費者保護を専門とする仏経済省の職員らの主導の下で進められている。

 

旧いiphoneの動作が不安定になる原因が、意図的なAppleの戦略に拠るものだと取り上げられたことでAppleへの非難が集中した。

 

Appleは魅力ある新製品を出すことで、結果的に旧モデルを陳腐化させることが得意なメーカーだった。

 

陳腐化させられた旧モデルは、決して使えないわけではなく、ただ魅力が薄れてしまうだけだ。

 

そんなAppleが魅力ある新製品をリリースできなくなり、新製品を売るためには旧モデルの魅力を減じる必要が出てきたと思わせるような記事が上記だ。

 

陳腐化とは、価値が減ることだが、重要なことはどれだけの時間を掛けて価値が減るのかという事だ。

 

陳腐化とはもともとはビジネス用語で減価償却と結びつくことばだが、今では日常用語にも使われることが多い。

 

車は高価な財産だと思われていたバブル景気の頃だと思うが、次のような話をよく聞くようになった。

 

新車とはナンバーを取得する前の状態を意味し、ナンバーを取得した時点で中古車になるので、新車を買った人に納車される時は既に中古車になっている、つまりお客は永遠に新車に乗ることはできない。

 

現在は、情報が陳腐化の波にさらされていて、タイムラインを流れながら、出た瞬間に陳腐化し始め、多くが通過(消費)し消えていく。

 

この陳腐化という言葉を聞くたびに思い出すことがある。

 

中学生の頃、松本清張の本をよく読んでいたが、福岡出身の松本清張の話には福岡と東京が舞台になる話がある。

 

何度もドラマ化された『点と線』では警視庁の三原刑事と福岡県警の鳥飼刑事のコンビで事件を解決する、そして『時間の習俗』でも同じ組み合わせで事件を解決するが、この話の中に、中学生当時読みながら不思議に感じる記述があった、そしてその話が陳腐化と結びつくのだ。

 

『時間の習俗』は1962年(昭和37年)に初版が出てるので、その頃の日本が描かれている。

 

この話の中では、三原刑事と鳥飼刑事が事件に関して捜査の依頼とその報告を複数回手紙でやり取りするということが描かれている。

 

こんななことも書いてあった。

 

 

近頃の郵便物は遅れる。東京の三原警部補から鳥飼あてに返事が来たのは、彼が手紙を送って6日目であった。つまり、この6日間は、こちらの捜査も全然進展してない期間であった。

 

 

50年前の日本の情報の陳腐化はすごくゆっくりだったことがよく分かるし、今となってはおとぎ話の世界観を感じるくらいだ。

 

通信技術や交通機関の発達が短期間のうちに時間の短縮化を可能にしたことが実感できる。

 

 

今が旬の業種や業界は、遅かれ早かれ陳腐化の波に晒される。

 

陳腐化の波に晒されてない分野は、陳腐化が一段落し需要がなくなった世界か、まだ注目されてないかのどちらかだ。

 

 

 

太陽光発電ビジネスが収益が上がらず撤退したりネガティブな話題が多い新電力ビジネスは、陳腐化が一段落したように見えるが、実は旬を迎えるのはこれからなのかもしれない。

 

ついに大手電力が「再エネは怖い」と知った
2018年は日本の電力市場の転換点になる

「大手電力会社の経営陣から社員までが、初めて再生可能エネルギーを怖いと思った年」。ある大手電力幹部は、2017年をこう表現します。

 

電力需要が高まる夏になっても大手電力各社の火力発電所がフル稼働しない状況は、相当な衝撃だったと言います。急速に広がった太陽光発電によって、昼間の電力需要が賄われたためです。

 

太陽光発電が最も早く、大量に導入された九州電力エリアでは2016年から、既にこうした状況にありました。ただ、「たまたまかもしれないという思いが、九電以外の大手電力にはあった」そうです。ですが、2017年の夏を経験して、淡い期待は打ち砕かれたのです。

 

 

世の中は完全なデジタル社会になったように見え、アナログは一部の趣味人のためのものになったように感じられるが、最先端分野でもまだアナログがイノベーションに一役買うかもしれない。

 

 

 

アナログ技術を復活させれば、AIがもっと進化する──米企業が開発した「古くも新しい」チップの秘密

 

忘れ去られていたと考えられていたアナログ技術が、人工知能(AI)の分野で復活を遂げようとしている。

 

もっとも、こうしたアナログ的アプローチは、あらゆる目的に適しているわけではない。その大きな理由は、数値の精度に影響するノイズの制御が難しくなるからだ。

 

 

技術が関係する分野では温故知新は成り立つ可能性が高そうだが、それは旧い仕組みの中に新しさを見出す人間の感受性や見識が可能にしたからだ。

 

陳腐化するのは技術やものではなく、人間の考え方や感じ方なのかもしれない。

 

 「ずっと同じ会社で安定した人生」の深刻な副作用

私たちはずっと同じ会社に勤めながらも、たとえば生活の10%は、他人の評価や基準ではなく自然な好奇心や本能的な刺激に従って、「自分がいちばん重要で面白いと思うものを、好きなだけ追求できる」機会にあてられるとよいのかもしれません。

 

陳腐化が価値を減じるのは、数が増え存在感を差別化できないことで起こる。

 

最近50年で、数が増えるのに要する時間がどんどん短くなり、陳腐化の速度は瞬間に近づきつつある。

 

陳腐化が高速化したのは、すべてが情報化されるからで判断に要する時間が短くて済むことで起こる。

 

判断には2種類しかない。

 

合理的な判断とバクチ的判断だ。

 

バクチ的判断にはセンスと才能が必要で、自分の過去を振り返ればわかる、努力や根性とは無縁の存在だから、センスや才能が無い人は手を出してはいけない。

 

そうすると、多くの人にとって陳腐化は合理的な判断が招いていると言える。

 

陳腐化から逃れたければ、合理的な判断を避けることが必要になる。

 

合理的に考え行動することに慣れてる現代人にとって、合理的に考えないことはとても大変な作業になる、なぜなら無意識のうちに合理的に考えようとするからだ。

 

合理的な考えを敢えて捨てるという作業は、自転車に乗れる人がわざと転ぶようなことだから、とても不自然な行動になる。

 

合理的でないものには2種類ある。

 

非合理と不合理の2つがあるが、この2つは全く違うので区別する必要がある。

 

非合理は道理的には理解できない論理を超えたというニュアンスを持つのに対し、不合理は論理的に成立しないというニュアンスを持つ。

 

ここで私が用いてる”合理的ではない”とは『非合理』の方だ。

 

『非合理』であることが何を指すのかの判断に迷った時には、思ったことの反対をするという逆張りが面白くなるかもしれない。

 

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時代は『進化』してるのか?

少し禅問答のような話から始まるが、『進化』について考えていて、反対語はなんだろうかと思った時『劣化』ということばが頭に浮かんだ。

 

しかし、調べてみると進化の反対語は『退化』と出てくる。

 

では、『劣化』の反対語はなんだろうかと思い調べてみると、なんと反対語が存在しないことばだということがわかった。

 

そのことをうまく説明してるものが見つかったので引用すると、

 

厳密な意味で「対義語」と言えるものはないと思います。

 

「劣化」というのは、製品や素材の質が、「自然と」低下することを言います。

(例・保存状態が悪いとワインは劣化する。古いマンションではコンクリートも劣化している。)

その対義というと、製品や素材の質が「自然と」向上すること、を表わさなければなりませんが

現実には、そのような現象は通常起こることではないので、対義語も存在し得ません。

(ワインのような食品なら、時を経て自然と「おいしく」変化することがありますが、その場合は

質がよくなった、というより「熟成」のような語があてはまります)

 

「進化」は質の向上を意味するものではありませんし、「強化」は人為的に強くすることです。

上記の例文にあてはめてみると、対義語でないことは明らかです。

 

「劣化」が使える文脈で、反対のことを敢えて短い熟語で表わそうとするなら

もっとも近い語は「向上」だろうと思います。

 

(1年置いたらワインの味が向上した・・・ワインが向上した、とはいえませんので、そこが「劣化」と対応しない点です。

この革は、使い込むほどに質感が向上する ・・・革が向上した、とはいえない点に関しては、上の例と同じです)

引用はここから

 

 

ちょっと長いが、ここまでは前置きで、今起きている世の中の変化は『進化』なのかそうではないのかを自分なりに確認してみようかなと思い考え始めた矢先の出来事が意外とおもしろかったので前置きとして書いてみた。

 

今の日本を取り巻く環境は、明るい未来の訪れをあまり伝えてこない。

 

 

個人や世帯の収入、企業の業績、政府や自治体の財政不足というお金に対する不安の問題の顕在化が、明るい未来を伝えない。

 

多くが、最終的にはお金の問題として認識されているが、中身に目を向けると、その大きな問題は3つに分けられる。

 

  • システムの問題

 

  • 情報の問題

 

  • 体の問題

 

ウィキペディアではシステムを下記のように説明している。

 

システム(system)は、相互に影響を及ぼしあう要素から構成される、まとまりや仕組みの全体。一般性の高い概念であるため、文脈に応じて体系制度方式機構組織といった多種の言葉に該当する。

 

人間以外の生き物にとってシステムは大自然のみなのだが、人間だけが大自然以外のシステムを作ることが出来る。

 

これは脳が高度に発達してるからで、システムは脳のように機能する。

 

人間が作ったシステムが果たしている役割は何かというと、”価値の交換”で、その中心的な役割が現代ではお金になっているということで、お金にまつわる問題はシステムの問題と言える。

 

原始的には物々交換だったが、やがて貨幣を仲立ちとした等価交換に移行し現在に至ってるが、貨幣以外に貴金属も同じ役割を果たしているが、貴金属は流通させるためには絶対量に限界があり不都合が多い。

 

お金は所詮紙切れと言う意味では、概念上の存在という仮想性を秘めている。

 

最近ビットコインに代表される仮想通貨が話題だが、もともとお金というものが概念上の産物に近く仮想性があり、同じ構造のものに保険や証券があり、金融という世界に実体感が薄いことに気付くし、だから虚業と呼ばれる。

 

概念を媒介として価値を交換できるのは人間だけで、これも高度な脳機能がなせる業だ。

 

このように考えると、お金の問題を多くの人が立ちはだかる巨大な壁のように感じてるがシステムの問題なので、所詮概念上の問題と割り切れるのでいくらでも解決方法はあるだろう。

 

ただ日本発でシステムが変わる可能性は低いような気がするが、欧米が変わればあっという間に変わるだろう。

 

 

情報の問題

 

情報の問題という言い方をすると抽象的すぎるが、ここではシステムとセットで情報を捉えるとわかりやすいだろう。

 

人間に例えるならば、情報は知的活動でやり取りするような一般的に使う情報ではなく、遺伝子のようなあらかじめ組み込まれてるような絶対性を秘めた情報を意味する。

 

この遺伝子情報には正常に機能すれば幸せになるような情報が組み込まれているはずだ。

 

遺伝子情報がきちんと伝わらないことを広義に突然変異と言うが、突然変異は腫瘍を作りガンや奇形の原因になる一方で、新しい機能を身につけることもあり進化と呼ばれることが起こることがある。

 

最近の世間の動きを見ていると、幸不幸に関する遺伝子情報が変化し始めたように感じることが増えた。

 

貨幣が生まれたのは紀元前で大昔だが、現在のブロック経済になったのは金本位制が停止になった1929年の世界恐慌以降。

 

そろそろ、お金にまつわる遺伝子情報にも突然変異が起きて、進化がもたらされても不思議は無いような気がする。

 

 

体の問題

 

多くの人が、自分自身の外側にあるものを追いかけているように見える。

 

これは地球人が宇宙を目指すことに似てる気がする。

 

宇宙に行った人が地球に戻って痛感することは空気の存在だ。

 

空気の存在とは、呼吸における酸素であり、体に掛かる負荷としての大気圧であり重力だ。

 

楽や便利や快適を求めることが、無重力空間で体に負荷がかからないことと似てるような気がする。

 

そんなトバッチリが、体の問題として顕在化してるように見える。

 

これも、遺伝子情報の変化がもたらしてるのかもしれない。

 

 

 

合理的に正しく判断してるつもりで取ってる行動が、幸せに繋がってないならば、前提にしてる考え方を疑ったほうが良いかもしれない。

 

とかく生きづらいと言われる現代だが、こういう話もある。

 

 

「信じて。世界は良い方向へ向かっている」 —— ビル・ゲイツ氏が主張 Jan. 10, 2018

ゲイツ氏が指摘する変化は、以下のとおりだ。

  • 5歳未満の乳幼児死亡率の大幅な低下。1990年から半減しており、1億2200万人の子どもの命が救われた。
  • 極度の貧困の中で生活する人々の割合の劇的な低下。1990年には世界の人口の3分の1以上を占めていたが、今日では約10分の1まで減っている。
  • 世界で、初等教育を受ける子どもの数が大幅に増加。今では全体の90%以上が小学校に通っている。
  • 同性愛者の権利を守る法律が、現在100カ国で発効している。
  • 世界各地で公職に選出される女性の数が増加している。

 

 

 

時代は進化してると思いたいものだ。

 

『フローとストック』という視点

2018年、「権力の時代は終わった」と認識することから始めたい 

この大きな政府や大企業という仕組みが、戦争が終わってからも高度経済成長を成し遂げるために有利に働いたというのは、経済学者の野口悠紀雄さんが「1940年体制 ―さらば戦時経済」という名著で書いている。でも高度成長はとっくに終わり、総力戦が起きないかぎりはもはや強大なパワーの集中は必要なくなった。そして実際、「権力の終焉」に書かれているようにパワーは分散する方向に進んでいるし、米NICが指摘しているように、未来はますますパワーが分散する世界になる。

 

ここに書かれてるような大きな政府や大企業が有利に振る舞える時代には、多くの人が参加し関わるイベントや儀式が支持される。

 

共通の体験が連帯や共感を呼びやすくなり、付加価値が共有されなすくなり、高付加価値化を促す。

 

その付加価値が、ブランドのレベルまで高まるとブランド価値を担保する仕組みや世間の目が出来上がる。

 

その一方で、充分にブランド化できてないのにブランドであるかのように振る舞うために『伝統』というスパイスをまぶしたイベントや儀式が仕掛けられる事が多い。

 

日本の成人式は、奈良時代の元服に由来すると言われることもあるが、ウィキペディアでは成人式を下記のように説明してる。

 

日本における今日の形態の成人式は、第二次世界大戦の敗戦間もない1946年昭和21年)11月22日埼玉県北足立郡蕨町(現:蕨市)において実施された「青年祭」がルーツとなっている。敗戦により虚脱の状態にあった当時、次代を担う青年達に明るい希望を持たせ励ますため、当時の埼玉県蕨町青年団長高橋庄次郎(のち蕨市長)が主唱者となり青年祭を企画、会場となった蕨第一国民学校(現:蕨市立蕨北小学校)の校庭にテントを張り、青年祭のプログラムとして行われた。この「成年式」が全国に広まり現在の成人式となった。

 

伝統と呼ぶには?が付くし、そもそも元はローカルイベントだったのだ。

 

 

「はれのひ」事件は起こるべくして起きた、着物ビジネスの闇

要するに、「成人式の晴れ着」は、バレンタインデーやクリスマスケーキが、菓子屋のマーケティングであるのとまったく同じ構造ということだ。

 

「とくダネ!」のキャスター・小倉智昭氏が今回の騒動を受けて、「これを機に成人式で着飾ったりするのをやめたほうがいい」と提案したら、飛躍しすぎだとネットで叩かれた。

 

だが、実はこれは着物文化を守るという意味では、悪くない提案だ。先ほども申し上げたように、「着物」が衰退している最大の理由は、「ボッタクリ」ともいうべき高付加価値路線が行き着くところまで行ってしまい、葬式と同じように「セレモニー化」していることが大きい。

 

 

伝統や儀式がセレモニー化すると、深く考えず、流されるように行動するようになる。

 

オリンピックが平和の祭典と言われる所以を考えたことがあるだろうか?

 

オリンピックはなぜ始まったのかと言う問いに、ヨーロッパの人は「不毛な戦争を避けるための休戦のイベント」と答えるらしい。

 

そう考えると、今では平和ボケの象徴のように取り上げられる聖徳太子が言ったとされる「和をもって尊しとなす」は、実はすごく奥が深いのかもしれない。

 

 

 

 

 

多様化の時代と言われる一方で、多様化に反する動きも顕著で、大きなレベルでは宗教や民族に関して起き、小さなレベルでは個人の行動や発言の背景にあるリテラシーを巡ってもめ事が起きる。

 

日本人は宗教や民族の問題にあまり強くないのは、伝統的に多神教であることと、海に囲まれた島国に単一民族で生活してるからで、世界的に見ると珍しい国になるだろう。

 

一神教と多神教(八百万の神)の違いがもたらす多様性への寛容度は、日本にはあるだろうが、日本の場合、支持する宗教を持ってない層が最も多い。

 

 

単一民族と多民族の違いがもたらす多様性への寛容度に関しては、最近問題になってるヘイトスピーチはどちらにも見られる現象で、改めて考えると日本は比率の違いは大きくても多民族国家と言えるのかもしれない。

 

色んなことがガラパゴス化する背景にはこんな事情も関係してるかもしれない。

 

 

 

一神教は、単一の宗教を意味するだけでなく、似たようなものとして法治国家の法律を意味することもできるだろう。

 

法律を神と捉えるならば、多神教の場合は、法律以外に優先される別のルールや”しきたり”が存在することになり、まさに日本は多神教の国であることを感じる。

 

法治国家という概念が生まれたのは19世紀のドイツだが、世界的に定着したのは第二次世界大戦後として良いだろう。

 

宗教や民族という枠のもとに形成されるルールは1000年単位で人間の思考や行動に影響を与えたような気がするが、その拠り所が法律になり持続時間がどんどん短くなってるような印象がある。

 

法律の条文は変わらなくても、その解釈が時間の経過で変化することは合理的だと考えられてる。

 

また法律は行動を規定するが、心にはタッチしないので、想定外が発生する。

 

想定外の発生は、法律の”フロー化”を加速させる。

 

元々は簿記で用いる経済用語であったフローとストックは、お金やものの動きを示す指標だった。

 

フローFlow)とは、一定期間内に流れた量をいい、ストックStock)とは、ある一時点において貯蔵されている量をいう。

 

この「フローとストック」という考えが法律にも当てはまるようになってきた。

 

世間の実情に照らし合わせると、短い期間しか当てはまらない法律はフロー化し、世の中が変化しても当てはまる法律はストック化する。

 

「フローとストック」という区別が当てはまるということは、同一分野の中で極端に陳腐化が速くなるものと長く通用するものが混在するようになっているということを意味する。

 

現在では、人の心や情報が「フローとストック」の対象になっている。

 

心や情報の多くがタイムラインを流れるフローとして消費され陳腐化している、そしてごく一部がストック化し、時の流れに負けずに生き残る。

 

時の流れに負けず生き残るものとは、極めてパーソナルな心の有り様が関係する。

 

だから、ストックが共有できる人には強い親しみと共感が感じられるし、それは信頼感にも似てくるだろう。

 

フローの一致や共有は、敵ではなく味方に近い存在だという程度の確認に留まるだろう。

 

フェイクニュースのような嘘や詐欺に騙されないことも大事だが、同じ真実でも「フローとストック」という視点が大事になる。

 

大元の1次情報を引用加工する2次情報が生まれ、その2次情報を加工した3次情報と言うように、いじられるたびに情報としての純度を落とし、曲解されるような情報がある一方で、わかりづらい1次情報をわかりやすくする2次情報があり、その2次情報の活用法を教える3次情報と言うように捉えたら必ずしも悪いことではないことが分かる。

 

大事なことは、その情報がフローなのか、ストックなのかを見分けることだ。

 

タイムラインを流れるだけのフローに振り回されるよりも、自分にとってのストックが重要になる。

 

人間の本質は、フローではなくストックに表れる。

 

ストックは、非常に重要だが、極めてパーソナルなので、共有することが思った以上に難しいかもしれないが、生き方や考え方が多様化するとは、そういうことを受け入れるということかもしれない。

 

 

山下達郎は自身のラジオ番組で選曲の際しばしば「OLDIES BUT GOODIES」と言う、それがストックをうまく表していると思う。

 

そんな山下達郎のことばを文字起こししてる方がいたので引用して終わる。

 

オールディーズというのは、要するに古い曲がオールディーズです。

 

オールディーズ・バット・グッディーズ(OLDIES BUT GOODIES)、オールディーズ・バット・ゴールディーズ(Oldies But Goldies)と、古いけれどもいい曲。

そういう意味です。

 

60年代にそういう言葉が生まれて、昔の曲がかかるようになったという。

そういう事ですので、何年前だったらオールディーズなんていう事はありません。

 

萩原健太の名言で「発売されて翌日から、もうそれはオールディーズなんだ」っていうですね。

そういう萩原健太の定義がありますが。

 

決して大げさでは、ありません。

 

ただ私の場合は、一番多感な時期が1960年代でしたので。

その時に音楽を聴き始めて、私は特に古い音楽が好きでしたので。

 

ドゥーワップ代表とするロックンロールの世代ですね。

1950年代のロックンロールソング。

こっから始めましたので、だいたい専門は50年代、60年代、70年代の中期くらいまで、亘っております。

 

その前の40年代のジャズ、それから90年代以降のヒップホップ系、そういうものは専門ではございませんので、あまりかけません。

 

サンデーソングブック、私の番組は、基本的には5、6,7初めの、それくらいの三十数年分を網羅してやっております。

 

ので、古今東西、いろんな曲がかかります。

でもロックンロールが好きなのでアメリカン・ロックンロール、それからイギリスのロックンロール、日本のロックンロールを中心にやっております。

 

http://yamashitatatsuro.blog78.fc2.com/blog-entry-412.html?sp

 

 

自分のことを定義できるか?

3つの捉え方ができる『健康』。

 

1つ目は、行政的な目線で医療費を抑制するためには、国民に病院に行かない生活をして欲しいという目線で、そのために健康であって欲しいという捉え方で、コスト削減が目的で、健康とは病院に行かない生活だが、病気ではないということを検査で確認して欲しいと望み、大きなコストを抑えるためには小さなコストはしょうがないという考え方だ。

 

2つ目は、行政的な目線と似てるが家計の目線で健康を捉えると、医療費の抑制も然ることながら、その延長線上にある介護による更なる出費を抑えることに繋がり、そして出費だけに留まらず精神的、肉体的な苦痛からも解放されるだろうという考え方で、現場の苦労を最小限化したいと願う気持ちで、”健康=病気ではない(病院には行ってない)”で良しと考える。

 

3つ目は、『健康』を自分なりに積極的に定義するという、自分らしい生き方という捉え方だ、ここで言う『健康』は生き方の美学になるので、もっともっとを求めるようになるが、他人との競争をしながらも実質的には自分との競争になる。

 

極めてパーソナルな問題のはずだが、自分の中できちんと定義できてないものの1つが、健康とはなんだろうかということだ。

 

自分のことを自分のことばで定義できるということが非常に重要になる。

 

 

似たようなことに、仕事の選び方がある。

 

メガバンク若手の転職希望者急増、現実は嫁・親ブロックで内定辞退も

「勤務先、妻、自分の親という3つの反対に遇いました。メガバンクのことは好きだったので自分自身が悩んだこともあって、結局転職までに2年かかりましたね」

 

「年収は半分ぐらいになりました。それでも、最低限家族を養っていけるし、いずれダブルインカムにすれば何も困らない。これが私にとっての家族の守り方でした」と、屈託がない。

 

 

 

過去や現在に囚われて未来を過剰に心配する考え方や生き方と、過去や現在を踏まえ未来に目標を設定する生き方の違いに分かれている。

 

AIが代替する仕事が増えるという論調が増えてるが、AIの出番を待つまでもなく仕事は変化している。

 

その昔、仕事の募集は事務職か営業職かという分けられ方をしていたが、最近ではスペシャリストかゼネラリストかという分けられ方をしている。

 

世間一般では、スペシャリストの方が評価は高い。

 

では、どうやったらスペシャリストになれるのか?

 

仕事なんてどれも同じという言葉がある。

 

このことばを口にする人は両極端に別れる。

 

すごく優秀で出来る人(多くは経営者になる)と仕事が全くできない人だ。

 

スペシャリストとは一言で言うと、経験と経験に裏付けられた知識を豊富に持つ人だ。

 

優秀なスペシャリストは、自分のビジネス(やってること)を自分の言葉で定義することが出来る。

 

逆に言うと、定義できるだけの経験をいかに積めるかが問われる。

 

その入口は、なんでも良いからやってみるということだ。

 

興味や関心があるならば、やらなければ損だ。

 

やれば経験になるし、スペシャリストのヒントは一見無関係なところにあったりする。

 

 

 

現代版の天職とは、こういうことを言うのだろう。

 

日本ではスペシャリストは優秀だが一匹狼のように捉えられることもあるが、真のスペシャリストは実はゼネラリストでもある、だからスペシャリストとしての一歩をゼネラリストとして踏み出すこともありだろう。

 

会社に必要なのは「やる気のある人」より「機嫌の良い人」

上機嫌に振る舞うことは社会人としてのマナーともいえる。イギリス人の作家サッカレーは、「上機嫌は人が着ることができる最上の衣裳である」と言っている。アランも『幸福論』の中で、「私は義務の第一位に上機嫌をもってくるにちがいない」、「不機嫌というものは、結果でもあるが、それに劣らず原因でもある」と述べている。不機嫌は不機嫌を誘発し、全体を不機嫌にしてしまうからだ。

 

人間は、結局配られたカードで勝負するしか無いが、ゲームを続けていれば、不思議な事にゲームのルールを自分で定義できるようになることがある。

 

そのためには上機嫌で振る舞うことが大事になるし、そもそも健康じゃないと上機嫌に振舞えない。

『違いが分かることが武器になる』

正反対の価値観が脚光を浴びることがある。

 

その昔、気の利いたビジネスマンがマイノートPC を使い始めた頃、そのビジネススタイルはカッコよく多くの人が徐々に真似し始めていったのが90年台半ばだった。

 

そしてビジネスの場でマイPCでプレゼンを行うことが珍しくなくなると、如何にビジュアルに拘ったプレゼンができるかを競い合うようになって行った。

 

このプロセスは、そんなつもりがあるわけではないが、どうすれば相手にわかりやすく伝わるかという視点を欠落させていき、独りよがりなプレゼンになることもあった。

 

だからだろうか、営業成績が良い人の中には、資料はすべて手書きという人がいた、印字された資料での営業をPC営業と呼び、手書き資料を使うことを紙芝居営業と呼んだりしていた。

 

手書きの紙芝居プレゼンが支持されたのは、お客にとって手書きの資料は自分だけのために作られたことが伝わるからだという事実があり、PCが普及すると手書きで資料を作るという手間暇が障害になり、簡単に真似することができなかったという背景もあった。

 

このような紙芝居営業を支持したのは年配の経営者が多かった。

 

しかし、21世紀に入るとビジネスの場から手書きが大幅に減少し、手書きを評価することも減っていった。

 

学生は手書き中心だろうが、現代ビジネスの場では手書きが減ってしまった。

 

手書きが減ったことが、思考や学習に見えない変化を及ぼしていたのかもしれないということを示唆する話が最近増えている。

 

講義中の「パソコン」が学習効率を下げるワケ
紙とペンのほうが効率アップという結果も
The New York Times  2017年12月12日

講義の理解度をテストで調べたところ、ノートパソコンを使った学生の成績は紙とペンを使った学生よりかなり悪かったという。

 

手書きでノートを取る学生は授業に置いていかれないように話の内容を処理して要約する必要がある。ノートパソコンを使った学生のノートは、講義の要約というよりは講義録だった。手書きの学生のノートは簡潔だったが、講義で話された重要な事項はちゃんと含まれていた。

 

 

講義中にPCを使うというのは、教師を不愉快にさせるという話はよく聞くが、使ってる生徒にも悪影響を及ぼしてるようだ。

 

同様な話を、記者会見での記者の姿に感じるという話もよく聞く。

 

タイピングに夢中な記者は、話し手の目を見ることがないので、話し手には虚しい時間に感じるらしい、そして多くの場合で取材してる記者自身が、タイピングしたものを読まないと何が語られたか覚えてないだろう。

 

聞いて理解することと手で書くことは連動するが、聞いたことをタイピングしても理解を深めるためには別の学習が必要になるだろう。

 

理解の仕方に差があるということは、考え方の差につながっていく。

 

スピード勝負の時代に京大式「深く考える」が重要な理由
1/8(月)

◆DEEP THINKINGの極意

◇深く考えることは、プロセスをたどる営み

 

◆なぜ「鉛筆で記す人」は「できる人」っぽいのか?

◇物との約束に実感は宿る

 

◆「わかりやすい説明」に数字はいらない

◇数字を使うと説得力が弱まることも?

 

◆プロセスと経験にまつわるDEEP THINKING

◇プロセス自体がユニークさを生み出す秘訣

 

 

 

次の3つの視点を重視するという。

 

1つ目は「現在地」を見ることである。プロセスをセルフチェックする際、今何をしていて、今わからないことは何かを明らかにすることで、思考のステップを冷静に振り返ることができる。

 

2つ目は「プチゴール」を見ることだ。最終目標にたどり着くまでに、「必ず達成しないといけない」という小さな目標がある。それをサクッとクリアできるかどうかで、現在取り組んでいるタスクへの本気度や習熟具合を評価できる。

 

そして3つ目は、自分がやりたくてやっているかという「実感」を見ることである。一生懸命取り組んでいるという感覚があれば、そのプロセスは質が高い場合が多い。「やりたくてやっているか」を自分の心に問うことで、自分の本心がわかるはずだ。

 

 

日本というのは不思議な国で、「本音と建前」のような相反する話がビジネスのような割り切った場でも生じることがある。

 

型や様式を重んじるあまり、”コンセプト”と”体裁”が対立し、事が進まないということが起きる、それもかなり頻繁に。

 

 

個人では超優秀な日本人が、企業体になるとなぜ世界に負けるのか;日本企業の極めて低い生産性の背景に何があるのか 2018年の日本経済を読む

日本人もドイツ人も、考えることはほとんど大差はない。だが、ドイツ人は成果を出すまで最後までやり遂げる、という点が違う。ドイツ人は理論どおりにやれば、理論どおりの成果が出る筈だと「真面目」「愚直」に実行し、そして理論どおりの成果を出している。一方、日本人は、「確かにそれが正論かもしれないが現実には難しい」という意見が「現実をわかっているやつだ」と評価されて会議を通ったり、新しいプロジェクトには熱心だが、一旦プロジェクトが開始すると多くの人が関心を無くしてうやむやになり、やがて次の新しいプロジェクトに熱中するという現象がよく見られる。

 

 

似たようなことが音楽の世界でも起きているという指摘がある。

 

 

紅白の“低視聴率”と、桑田佳祐の隠れたメッセージ

サウンドやアレンジにはそれなりに勉強して手の込んだ雰囲気があるけれども、肝心の素材が著しく劣化している。基本の味付けを知らないのに、エスニック料理に手を出してしまったような不味さ。しかし当人たちに自覚がない様子からして、音楽における味覚障害のようなことが起きているのかもしれません。

 

そこで、桑田佳祐がNHK朝ドラ『ひよっこ』の寸劇で「涙くんさよなら」(作詞・作曲:浜口庫之助、1965年)を歌った意味を改めて考えてみたいと思います。

 

 

浜口庫之助の著書『ハマクラの音楽いろいろ』(1991年朝日新聞社刊 2016年立東舎文庫より復刊)で、27年も前から警鐘が鳴らされていたからなのです。

 

<たとえば、詩を左手、曲を右手として、両手を打ち合わせると「パン」と音がする。その音が歌なのだ。左手でも右手でもない。まして片方だけでは歌にはならない。>(p.76)

 

そして浜口氏はこの「パン」が失われつつあると感じ、こう指摘していたわけです。

 

<いまの若者たちは、リズム感が非常に発達していると、一般にはいわれているが、音楽的見地に立つと、僕は必ずしも、そうは思わない。進歩しているのは楽器ばかりだ。(中略)

 

とくに日本語の音韻とか、音感とかを、正しく把握せず、言葉を無視して作っているから、いい音が出ない。変調をわざと狙っているのだという人もいるが、僕にいわせれば、まだ未熟だということだ。>(p.75)

 

 

今の日本には、型や様式を重視してる人と、コンセプトを重視してる人の2種類に分かれているように感じる。

 

もちろん、どちらかに寄っているのではなく、この2つの要素がグラデーションを描いているのだが、問題はコンセプトが曖昧になってしまうことにある。

 

インターネットの普及は、日本にもコンセプトを掲げたら迷わないで行動できる人種を生み出した。

 

そしてそういう人達は、インフルエンサーとして一定の支持を得ている。

 

 

田端信太郎氏が語る、スマホ全盛期の今、マーケターが持つべきユーザー接点の考え方 田端信太郎さん

マーケティングって、オーケストラみたいなところがあるなと僕は思うんです。

オーケストラの指揮者って、バイオリンを弾かせたらバイオリニストよりうまいわけではない。でも、世界の有名の楽団でも指揮者が「こうじゃないといけない」とか、「もう少しゆっくり弾け」とか楽団のプロの演奏者に指示する。

 

マーケティングとは何かっていうことをビジネス的に考えるのもいいけど、僕はマーケティングってもっと下世話なものだと思っていて。欲望を扱うものだと思うんです

 

 

 

上記を踏まえてのツイートが下記だ。

 

 

 

 

 

産業構造に搾取的な要素は付き物で、グローバル化はそれを拡大させたので、このツイートほど断定的には思わないが、手書きが減ったことが真の理解を妨げるのに似たことが世の中のあちこちで起きているのかもしれない。

 

似ているけど違う、どうでもいい程度にしか違わない、しかしそこには違いがある、そういう違いを求めてる人を相手にしようとする時に、その違いがわからないのは致命的な弱点になる。

 

 

違いが分かるということは大きな武器になるだろう。

 

『思ったとおりにはならないが、やったとおりにはなる』

NHKスペシャル『人体』。

 

昨年9月から始まり、全部で8回放送される。

 

1月7日に4回目の放送があり、そのテーマは『骨』だった。

 

http://www.nhk.or.jp/kenko/jintai/programs

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まだ全ての放送が終わってないのだが、ここまで見てきて、このシリーズの面白さは、これまで人体の機能は役割分担で捉えられていたが実は全部繋がっていて相互に影響し合ってるということをわかりやすく伝えていることにあると感じてる。

 

このことを踏まえると医者の多くが自分の専門分野を持って、そこに特化してる時点で人体に対する見識が不足するのは明らかだ。

 

同様に、最近流行りの”エビデンス“も極めて偏った事実の取りまとめに過ぎないだろうなと思わせられる。

 

人間の体には自律神経系と非自律神経系があり、自律神経系とは自分の意思とは直接連動しない内蔵や血管などのようなものを司り、非自律系とは筋トレすれば反応する筋肉のような意思と連動するもので、この両者は普通は別々の存在だと区別されるが実際は連動する。

 

筋トレして直接筋肉を鍛えれば、結果として内臓の機能も上がり、血液の循環や心肺系も強化され連携してることを感じるレベルであれば、多くの人が体験を通して実感できているであろう。

 

医者の多くが、特定の臓器に特化して、あるいは症状に特化しているが、医者の中には全ての臓器に精通した医者がいる。

 

それは解剖医だ。

 

解剖医は、死者と向き合い死因を特定し、生前の状態を突き止める。

 

そんな解剖医の中でもキャリアを積んで経験が豊富な医者は、『心』の存在に疑問を持つことがあるらしい。

 

臓器の働きに精通すればするほど、『心』を司る臓器がないことに気付くらしい。

 

そして仮説として、『心』は体に宿り、すべての臓器や細胞が関係しているとしか思えないという考えが生まれるらしい。

 

そうすると一人ひとり『心』は違うことも理解できるし、同じ人でも健康状態の違いで『心』が変化することも理解できる。

 

”NHKスペシャル人体”では、『心』についてなど語ってないが、そんな役割があったとは思われてない機能を人体が持っていることをたくさん伝えている。

 

直接繋がってるようには見えない者(物)同士が繋がってるということは、実生活の場では多く、どんな関係があるかわからないが事象は起きるということがある。

 

風が吹けば桶屋が儲かる

ある事象の発生により、一見すると全く関係がないと思われる場所・物事に影響が及ぶことの喩えである。また現代では、その論証に用いられる例が突飛であるゆえに、「可能性の低い因果関係を無理矢理つなげてできたこじつけの理論・言いぐさ」を指すことがある。

 

起きることは良いことばかりではなく、理不尽なことも多い。

 

詐欺や通り魔の被害にあったりも、どこかで生じた繋がりや関係性が巡り巡って起きていることかもしれない。

 

巡り巡って起きることを良いことにしたければどうすれば良いのだろうか?

 

原因があるから結果が生じるという意味の言葉に因果という言葉がある。

 

こういう場合、昔の言葉にヒントが有ることが多い。

 

昔の言葉の多くは宗教と結びついていて、単純明快な教えとして伝えられてるが、実際にはそう単純ではないのは、因果には時間差があるからだ。

 

仏教において因果は次のように説かれる。

  • 善因善果(ぜんいんぜんか)…善が善をうむ
  • 悪因悪果(あくいんあっか)…悪が悪をうむ
  • 善因楽果(ぜんいんらっか)…善が楽をうむ
  • 悪因苦果(あくいんくか)…悪が苦をうむ

 

 

この話の善を続けることは苦しいかもしれない、悪を続けることは楽かもしれない。

 

そう考えると、因果というのはプラスマイナスゼロの世界観を感じる。

 

 

 

最近の言葉らしいが、宗教には良い言葉がある。

 

It doesn't turn out the way you throught,

but it turns out the way it was done.

 

「思ったとおりにはならないが、やったとおりにはなる。」

 

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1147478011

 

 

今回の話も何もエビデンスはない。

 

体温を上げれば運も良くなるかも

1月7日は七草粥の日。

 

だからだろうか健康と絡めたツイートを発する人が多いように感じる。

 

この人も健康が1番だと思ってるらしい。

 

 

 

 

健康に関連する要素として上げられるのはいつの時代も、

 

  • 食事
  • 運動
  • 睡眠

 

で、これにプラスして現代では「ストレス」も加わる。

 

怪我や事故や先天的な要素を除けば上記の要素に集約されるだろう。

 

しかし、この3つはその時々で常識とされる基準が結構変わるので、世代によって言うことが違うことがある。

 

大事なことは、世間がどう言うかではなく、自分の体にとっての正解が何なのかをはっきり理解することだろう。

 

私の場合、全く融通が効かないのが睡眠時間だ。

 

基本的に徹夜ができない。

 

徹夜などすると、次の日は使い物にならない。

 

中学生からラジオの深夜放送を好んで聞くようになったが、夜更かしすると昼間の何処かで必ず寝ていたし、頭も回らなかった。

 

大人になってもこれはずっと同じだったので、寝れないということに強烈なストレスを感じるということは今も続いてる。

 

寝れない時と言うのは2種類ある。

 

やらなきゃいけない何かがあり寝れない時というのが1つで、これは時間配分の見直しや効率を考える必要がある。

 

もう1つは眠れなくなるということで、この場合は別の不安や心配事があり、寝ても眠れないということが起こる。

 

心配事・不安の96%は起こらないことが判明アメリカの調査

でも、大丈夫。その心配の8割は起こらない(^▽^)/ んだそうです。しかも、残り20パーセントのうち、16パーセントは準備をしていれば避けられるもので、結局のところ起こりうるのは4パーセントのみ。アメリカでの調査なんですが、どちらかといえば心配性の日本人ならもっと「心配事が起らない割合」が高くなるかもしれませんね。

こうやってみると、心配事のほとんどが実は悩み損なものなんですね。

 

 

今風に言うとエビデンスに問題があるかもしれないが、このような状態は、実は生活の悪循環がもたらすことが多い。

 

次もまたエビデンスに関しては突っ込みどころがあるかもしれないが、試す価値120%の話だと思う。

 

生活の悪循環とそれが生み出す様々な不安は、低体温がもたらす。

 

【体温が低くなる7つの原因】あなたの平熱が低い原因は現代人ならではの生活にあった!?

原因① 極度の運動不足

 

原因② 入浴方法が間違っている

 

原因③ 身体を冷やす食べ物を一年通して食べられる環境

 

原因④ 加工食品などを食べる頻度の多さ

 

原因⑤ 冷房機器など外部からの影響

 

原因⑥ ストレスによる自律神経の乱れ

 

原因⑦ 生活スタイルの変化と乱れ

 

 

頭と体をバランス良く疲れさせれば、体温は上がるし、しっかり睡眠が取れるので、どうでも良いことに悩まなくなる、悩むときは本質について解決に向かう悩み方ができるようになる。

 

体温に関しては、武井壮も独自の理論を持っている。

 

エンターテイナーの条件
武井壮(百獣の王)
× 三浦大知(ミュージシャン)

三浦:6年間も!

武井:そう、1日6回部屋の中と外の気温と湿度、身体の挟める部分全部の体温、そして自分が着ている服の素材まで細かくデータを取って、毎回50m走のタイムを計って体調を記録するの。そうすると自分をどの状態に置いたら調子が良くなるのか、悪くなるのかがおもしろいほどわかるから、それをもとに体調をコントロールすると本当にほぼ毎日自分は絶好調(笑)。

 

 

体温は計ってみると気付くが、思ったより低いことが多い。

 

不思議なことに、真夏で暑くてしょうがないときでも低いことがある。

 

知らないうちに変化しているものがある、改めて指摘されると気付くが、そういうことの連続で我々も変化していく。

 

一例を上げると、

 

<調味料>時短需要で消費多様化…変わるしょうゆ、酢  1/7(日)

伝統的な調味料の代表格、しょうゆの消費量は1980年以降、右肩下がりになっている。70年代には1人当たり年間12リットル近く消費していたのが、7リットル台まで落ち込んだ。背景にはメニューの多様化や健康志向に加え、女性の社会進出が進み、「時短」が望まれるようになったことがある。

 

しょうゆの減少を補うように伸びてきているのが「つゆ・たれ」だ。総務省統計局の家計調査報告によると、「つゆ・たれ」の消費量は94年、「しょうゆ」を上回った。

 

生活の変化は何気ないところから起き、合理的な判断で継続されるが、その合理性とトレードオフしたものが何かに気付くには時間がかかる。

 

 

質素な七草粥を想像すると、なぜか体温が上がる予感がするのが不思議な気がするが、七草粥には現代人がトレードオフしたものが残っているからかもしれない。

 

今日は近所の小学校で”どんど焼き”を行っていた。

 

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正月3が日よりも年明け感を感じる1日だ。