違う見方

見方を変えると目からウロコが落ちるかもという独断と偏見による雑記、備忘録

”充実症候群”に毒されてる現代人

解決困難な悩みや問題に直面した時、多くの人はきっとため息をツキながらこう言うだろう。

 

「ああ、人生とはなんだろうか?」

 

シンプルな問いだが、禅問答のように無限の答えがあるのだろう。

 

こんな時、わたしは反対語を考える。

 

”人生=生きること”とした場合の反対語は、”死”だろう。

 

"生きる"の反対語は?

回答ありがとうございます。

いろんな人の回答を読むまでは、死ぬ=生命がなくなることだと考えていました。つまり死ぬとはこの世からあの世(仮に)に渡ることだと考えていたため、死ぬの反対は生まれるだと考えていました。しかし死ぬという言葉が死んでいる状態も含むならば生きるの反対語となりますね。

 

 

 

生きてる人間は、遅かれ早かれ絶対に死ぬのだが、意外と死は身近なものに感じられなくなってきてる。

 

”人生とはなにか”を考える時、”生きる”の反対が”死”と思える時には許容できていたことが、最近許容されなくなっているような気がする。

 

つまり、”生きる”の反対語が”死”ではなくなっているのだ。

 

おそらく、”生きる”の反対語は”充実してない”になっている。

 

かなり前からそうなっていた気がするが、表現する言葉がなかったのだが、”リア充”という表現が出た頃から、”生きる=充実”が公式化したのだと感じる。

 

改めてそう思ったのは、最近やたらと騒ぎになっていたこの件だ。

 

話題の牛乳石鹸のCMを、男性学の研究者に見てもらったら......

それでいうと、このCMについて男性は、個人的な感情を表に出さず、一般論として分析するスタンスに回っている人が多い印象です。一連のジェンダーがらみのCMでも、リアクションするのは女性に偏っているようです。

 

放送作家の鈴木おさむさんのブログは、子育てについて男性が発信しているにもかかわらず、コメント欄の書き込みは女性とみられる人ばかりです。男性たちがジェンダーに関心が薄いという点は、認識しておいたほうがよさそうです。

 

 

 

このCMが話題になってから数日経って、どんだけひどいのかなと思いながらCMを見たが、そんなにひどいとは思わなかった、強いて言うなら全編を通じて昭和の男が作ったCMだなという感じだった。

 

昭和の頃は、まだ”生きる”の反対語が”死”として通用していたので、家族は最小の運命共同体として機能していたので、生活ができるならば少々のことは許容されていた、許容を強いられていたのは父親以外の家族だろうが。

 

家庭の中では、家族に犠牲を強いる父親も、社会や会社では犠牲を強いられていた。

 

しかし、世の中そんなものだとすべてが許容されていたのが日本社会だったが、時間の経過は緩やかに世間の空気を変えていった。

 

 

 

そして、現在では家族は充実追求共同体になり、家族全員が自分の充実を最優先するようになっているのかもしれない。

 

これってなんだか、チルチルミチルの幸せの青い鳥の話に似てるのでは?

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/青い鳥

2人兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にあったという物語。

 

もう少し具体的に捉えると、

 

幸せの象徴「青い鳥」を意識することで心が豊かになる方法

「幸せの青い鳥ってどこにいるの!?」と女性がよく口にする言葉。

 

1.小さい頃やっていた事をやってみる

2.自分が欲しい幸せがなくてもいいと思ってみる。

3.お友達に聞いてみる

4.やりたくないことを辞めてやりたいことをやってみる

5.毎日青い鳥の存在を感じる

 

 

 

充実を巡る問題のキーパーソンは女性だ。

 

日本社会はまだ昭和の理屈で動いているところが多い、昭和の理屈は犠牲になることを強要してくる。

 

その昭和の理屈に対抗する勢力が、充実という盾を構えている。

 

昭和的な支配は、いづれ時間の問題で消える(昭和脳が死ぬから)。

 

忘れてはいけない、求める充実は、遠くにあるのではなく、身近に存在してるということを。

”普通”に宿る自分らしさ

有名人でこれほどイメージが変わった人も珍しいだろう。

 

コメディアンでデビューし、その後俳優になり、芸術家になり、今ではヨガの伝道師になり、その途中ではボクシングにも夢中になっていた。

 

それが片岡鶴太郎で、最近の記事がこれだ。

 

鶴太郎 3月に“ヨガ離婚”していた 1日4時間ストイックすぎる生活の末に…

1日にヨガを4時間行うなど、ヨガを極めた生活ぶりを明かすと、坂上は「ストイック過ぎる生活に家族はついてこられるの?」と驚き。この質問に鶴太郎の口から、「実は3月に離婚していまして…」と離婚告白が飛び出した。

 

この話を知って、何故か思い出したのがこの話。

 

超側近が明かす9年目の決断 爆笑・田中 離婚の真相

「直接の原因は夏美夫人にある。夫人は約5年前からランニングにハマり、趣味の域を超えるほどのめりこんでいる。フルマラソンは3時間30~40分で走り、月間走行距離は400キロを優に超える。ライフワーク…というよりはライスワークになってしまった。つまり病的なんです」

 

その他として夫人の不倫も挙げられてるが、心に生じた隙間を埋めようと体を動かしていたら、思った以上に夢中になりハマってしまった様が浮かぶ。

 

鶴太郎にも似たものを感じる。

 

俳優としての鶴太郎は、いい味を出していてどのドラマも好印象だが、視聴者だけでなく本人も思い入れたっぷりだったのが『季節はずれの海岸物語』だろう。

 

渥美清の死後、現代版寅さんを目指し、ライフワークにするつもりだったらしいが、レギュラーメンバーだった”可愛かずみ”と”古尾谷雅人”が自殺し、同じくレギュラーメンバーだった”田代まさし”も盗撮や覚醒剤でおかしくなった。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/季節はずれの海岸物語

番組完結から20年以上経過した現在も、あちこちのサイト(主に掲示板など)で「DVD化してほしい」といった書き込みが後を絶たず、このドラマの人気をうかがい知ることが出来る。しかし、劇中で使われるサザンオールスターズや松任谷由実などの楽曲の著作権問題をクリアするのは容易ではない。また、ドラマの中で中心的な役割を担っていた田代まさしが盗撮や覚醒剤などの様々な犯罪を犯した事や、可愛かずみや古尾谷雅人が自殺したということもあり、今後ソフト化するのは困難であろう。

 

鶴太郎の心に大きな隙間ができてるであろうことが想像できる。

 

その隙間を埋めようと自分自身に向き合ってるうちに、ハマり過ぎてしまったように見える。

 

 

現代における大きなテーマの1つが「美」だ。

 

男も女も美しくあろうとする人が増えている。

 

そのうちの一部が、元から美しくなければいけないと考え、ストイックに体を鍛えている。

 

筋トレ女子が今熱い!

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この筋トレ女子の行動や、鶴太郎や、爆笑問題田中の元妻の、一見ストイックに見える行動は、上昇志向にも見えるし、自分らしさという独自性の追求にも見えるが、そうすると排他性が生まれたり、息苦しさが生まれたりする。

 

しかし、今夢中になってる人達は”好きだから・楽しいから”続いているのだ。

 

ここに時代の変化が出てきてる。

 

他人から見ればストイックなのだが、本人は”普通”のことをしてるだけなのだ。

 

そういう変化が起きてることを佐々木俊尚は著書『そして、暮らしは共同体になる』に書いている。

 

『そして、暮らしは共同体になる。』「ゆるゆる」という新スタンダード

言われて見れば、いつの頃からか「普通に美味しいよ」とか「普通にオシャレだよ」などと、「普通」という枕詞の中に褒め要素が含まれるようになってきた。この「普通」の意味をさらに深く掘り下げ、今まさに新しいスタンダードが登場しつつあることを全編を通して明らかにしている。

 

佐々木俊尚の生い立ちは、なかなか過酷で、自身は「愛を知らずに育った」と語ってる、だから自分の周りで起こる変化に敏感になるのかもしれない。

 

佐々木俊尚(後編)「『無償の愛の交換ができない』からこそ、居心地の良さを希求して、適応する」

愛とはなんだろう。佐々木にとって愛とは「幻想かもしれないけれど、意識的に構築可能なもの」だ。

 

「サッカーでボールを追いかけるのではなくて、黙々と歩く。八ヶ岳を登るように、四国八十八ヶ所を歩いたように。時々、衝動的に動いてしまうことも有るから、その感情じたいを否定するわけではないけれど、できれば、これからも“組み立て的”に生きていきたい。それが自分の獲得した生き方なんだ、って」

 

 

何かを手に入れようとするが、手に入らない時、心に隙間が生じるような気がする。

 

そんな隙間を埋められるのは、”普通”に夢中になれることかもしれない。

 

他人から見ると変でも、自分らしさがあればきっと”普通”になるだろう。

 

 

PS

しかし鶴太郎は、昔ひょうきん族で近藤真彦のモノマネをしてた頃が一番好きで、久々に見たくなりYou Tubeを検索したが全部削除されてるみたいだった。

最後はコミュニケーションだけが頼り

自分の価値とは何だろうか?

 

心が関係するような意味での話ではなく、客観性のある価値として。

 

どんな能力があり、どんな経験を積み上げたのかに価値が宿るような気もするが、時代が大きく変化する場合、積み上げたものが大きいほど過去に縛られ、新しい価値観に対応できないような気もする。

 

歴史上の偉人と言われた人々や最近でもイノベーションを起こしたと言われる人物に共通してることは、無いものを作った人々だとわかる。

 

時代の進歩は、何も無い分野を減らし、新しいと称するもののほとんどが、どこかで見たり聞いたりしたものに感じさせる。

 

情報という名の知識はドンドン増えるのに、反比例するように知恵が減っている、というより知恵を活かす場面が減っている。

 

増える便利が、知恵や工夫の出番を減らしている。

 

知恵を身に付けていた世代は老化に晒されていて、知恵を持ってないのと似た状態になっている。

 

このようなことを考えていると、はっきりとは線引できないが、ある時期を境にして伝わらなくなったものとか文化があるような気がする。

 

最初に社会で起こり始め、徐々に家庭と教育の場に波及したのだと感じる。

 

即戦力を過剰に求めだす文化が、「育った」人やものだけを求め、「育てない」文化を作り出している。

 

教育の場が、育てる場になっていないから下記のようなことが起きる。

 

 

「教育困難大学」のあまりにもひどい授業風景
小学生レベルの知識が欠落している学生たち

急速に大学進学者が増加する中で、大学生の学力低下が話題になり始めたのは、2000年ごろのことだった。

 

「就職試験をやると、高卒生と大卒生の得点がほとんど変わらない。場合によると、高卒生のほうが高得点のこともある。大学生は4年間かけて何を勉強しているのですか?」

 

 

若い世代が、知識は身に付けるが知恵は身に付けない習慣が定着する一方で、知恵を身に付けてるはずの老人もおかしくなっている。

 

 

「横暴すぎる老人」のなんとも呆れ果てる実態

豊富な知識と経験を持ち、みんなから敬われる存在だった高齢者。ところが最近は「突然怒り出す」「暴力を振るう」「理不尽な要求をする」――といった迷惑な老人が跋扈している。高齢化が進む中、暴走する高齢者は社会の重荷となりかねない。

 

老人がおかしな行動を取る場合は、ほぼ「脳機能の低下」で片付けられている。

 

 

 

「高度プロフェッショナル制度」をめぐる議論で見えた
日本社会を「破壊」し腐らせていくひとたち

差別の定義とは、「本人の意思ではどうしようもないこと」でひとを評価することです。日本的雇用は「身分差別」「性差別」「国籍差別」「年齢差別」の重層化した差別制度で、セクハラ、パワハラや過労死・過労自殺、ブラック企業や追い出し部屋などのさまざまな悲惨な出来事はすべてここから生まれてきます。「働き方」を変えなければ、日本人が幸福になることはできないのです。

ところが現実には、既得権にしがみつきあらゆる改革を「雇用破壊」と全否定するひとたちが(ものすごく)たくさんいます。しかも奇妙なことに、彼らは自分たちを「リベラル」と名乗っています。

 

大学に行くようになって、それまでの小中高とは違う試験を経験した。

 

”資料の持ち込み可”という試験だ。

 

小中高の試験は、何も見ないで覚えてることをベースに回答する試験だったのに対し”資料の持ち込み可”だと、大学は甘くて楽だなと感じていた。

 

当時は気付かなかったが今なら気付くのは、覚えることが中心になるのはそれが基礎的なことを扱ってるからで、基礎から一歩進んで応用に入りだすと考えることが中心になるということだ。

 

そして考える事には、思いつきレベルからじっくり考えるまで幅広さがある。

 

考えにレベルの高さを求める試験が”資料の持ち込み可”になっていたのだが、当時の私は「絶対に0点を取らない試験」と捉え、友人のノートのコピーを持ち込んだり、カンニングをしていた。

 

 

上記の記事の既得権にしがみつく人達というのが、覚えたことだけで人生を送ってきた人に見える。

 

覚えて終わりで、その先を考えない。

 

課される試験は、常に”資料の持ち込み不可”で生きてきた人たちがいる。

 

そういう人達が過半数を占めてるのが今の日本だ。

 

 

 

高校の同級生に算盤10段という人物がいた。(仲が良かったわけではない)

 

新聞社の取材を受けたりしていて「得意科目は数学です」と語っていたが、大して数学ができるわけではなかった。

 

計算問題だけが得意で、式を導くのが難しい問題はさっぱりだったからだ。

 

試験の場でも、実生活の場でも、計算が必要な時は、算盤か暗算しかない時代というのがあったので、算盤は長いこと小学生の必修だったし、商売やビジネスにも欠かせない能力だったが、電卓が登場してその流れが変わった。

 

どんなに優秀でも人間が行う限り間違いは起こりうる。

 

しかし電卓の登場は、算盤も暗算もできない人でも、計算を可能にした。

 

誰でも計算できる時代になったのだ。

 

 

 

上記で引用した記事は、若者も老人も劣化してるという記事であり、日本国内には様々な差別対立が残っているという変化を伝えているが、今は電卓登場の前後で大きな変化が起きたことに似たような変化が起きつつあるのかもしれないと感じている。

 

昔、算盤や暗算ができない人は社会の中枢部には参入できなかった。

 

そういう意味では、算盤や暗算ができるということは既得権益だった。

 

その既得権益者が老化で劣化し始めた一方で、若い世代は電卓の普及がもたらした暗算による計算能力の劣化だけが目立っているように見える。

 

 

算盤や暗算という既得権益を破壊したのが電卓だったが、その電卓が既に既得権益になっているかもしれない。

 

そして今話題のAIが電卓に替わるものになるのかもしれない。

 

電卓は計算業務の”誰でもできる化”を加速させたが、AIは更に加速させそうだ。

 

 

”誰でも出来る化”は、既得権益者の排除も促しただろうが、経済成長がそれを上回る受け皿ももたらした。

 

従来のように受け皿が増えることが期待できないこれからは、AIがもたらす”誰でも出来る化”の更なる加速によって排除される人々は、新たな場を求めなければならない。

 

 

「縁故採用」で優秀なスタッフ確保 メルカリも「全社員がヘッドハンター」で採用会食を奨励

かつてはコネ入社というと、かつては親せきの子どもを能力も不明なまま採用というイメージがあった。ネットにも「能力のない人を縁故採用することは問題」と釘を刺す指摘もある。 しかし、番組で取り上げられていたのは、むしろ優秀な人材の引き抜き合戦だ。

 

既に効率を重視する世界のコミュニケーションに変化が起きている。

 

どんな人間も、コミュニケーションから逃げることはできない。

 

20世紀と21世紀を比較すると、インターネットの普及とSNSの登場が、コミュニケーションに革命を起こしたことだけは理解できる。

 

かつて電卓を使うとバカになると言われていた時代があった。

 

今、ネットやSNSをやってるとバカになると言われている。

 

なんだか分からないが共通点を感じる、今が過渡期であることは間違いないだろう。

 

 

 

コミュニケーションの本質は、何気ない日常生活にある。

 

ここ一番で強くアピールするよりも、普段どうしてるかの方が雄弁に実力を語る。

 

人間の価値は、何気なく過ごす日常生活の中に宿っているだろう。

 

大事なことは、話が通じる相手を持っておくことだ。

下関の海響館

小学5年の姪にねだられ、下関の海響館に行ってきた。

 

行ったのは8月12日の土曜日、13日の日曜日だと関門海峡花火大会もあるので人手が多くなるのが予想されたので土曜日に行ってみた。

 

水族館や動物園は子供のための施設だと思われるが、案外大人の方が楽しめるということにゴールデンウイークに動物園に行った時に気付いた。

 

海響館のホームページで下調べをすると、個人的には今回の目玉はシーラカンス展と目標を決めた。

 

その他に、日本では海響館だけで見れるというのが、シロナガスクジラの全身骨格標本らしい。

 

それ以外に目玉動物としてペンギンが有名らしいが、あまり期待はしてなかった。

 

ペンギンはテレビその他ではよく見るので今更新しい知識が増えるとは思ってなかったが期待を裏切られた。

 

面白かった。

 

最初にペンギンのコーナーに入った瞬間にペンギンの人形が置いてあるのかと思ったが

そうではなく、じっとして動かないペンギンが結構いるのだ。

 

これがパントマイムを見てるようで面白い。

 

種類としてはキングペンギンだが、地上や水面ではゆっくりとしか動かないが、水中では飛ぶように素早く泳ぐ。

 

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ペンギンは寒い地域の生き物だと思っていたが、屋外で飼育され、真夏の太陽と気温に晒されても平気なペンギンもいる。

 

フンボルトペンギンで、年に1度の羽毛の生え変わりの時期らしい。

 

茶色の毛でボサボサの毛が古い羽毛らしい。

 

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シーラカンスの標本が展示してあった、これは日本初らしいが、今どきの小学生は全く興味がないらしくあまり反応しない、シーラカンスに反応してたのは皆大人だった。

 

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シロナガスクジラの骨格標本

 

この骨格は全長26mのメスらしい。

 

1Fから3Fにかけて展示されている。(順路は3Fから1Fに降りていく)

 

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大きくて、軽そうに見えても重いだろうから、支えるための補強が随所に施されてる。

 

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この骨格標本の骨を見ながら「これ木で出来てるんじゃない?」と言ってる人が何人もいたが、そういう声が多いからだろうか、ちゃんと本物の骨ですという断り書きも入っていた。

 

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海響館の前は、関門海峡で写真の右が九州で、関門橋のすぐ先が源平が合戦をした壇ノ浦になる。

 

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ずっと以前に、友人とバイク2台で関門橋を渡ったことがある。

 

友人が記念撮影したいと関門橋の真ん中でバイクを停め写真撮影したことがある、もちろん1番左端に停めるのだが当然停まっていい場所ではない。

 

関門橋は手すりが申し訳程度のワイヤーなので、停車すると眼下に海が見え、それだけでクラクラして海に引きずり込まれそうな気がしたことを思い出した。

 

橋桁と海面の距離は大型船舶が航行できるようにするため61mが確保されている。

 

下から見るのと上から見るのでは大違いな景色だ。

「読モ化する時代」をどう生きるか

ライターが“読モ”化している件について

Web上で活躍するライターや編集者、ディレクターなどといった人たちの区別がつきにくい問題も、これで解決できる。ようは、みんな自分自身を商品として売る「読モ」なのである。

 

半年前の2月上旬に出た記事でなんとなく面白いと思って保存していたが、今日何気なく読んで改めて面白いと思った。

 

この当時は、コピペで記事を粗製乱造するライターやそんなライターをつくりだす業界体質が非難されていた時期で、PV(ページビュー)を稼ぐことに躍起になる姿を改めなければと議論がされていた。

 

2月当時面白いと感じた理由は、末端の動きをシンプルに表現できてるのではと感じたからだ。

 

しかし、それ以上のものではないと感じてもいたので保存する時にリンク先を残してなかった。

 

だから今回改めて”ライターが読モ化してる件”で検索してみた。

 

そうすると当時結構話題になっていたことが見えてきて、この記事に対してブログを書く人もいたし、いろいろな意見が出ていたことがわかる。

 

多くの意見が否定的で小馬鹿にしたような調子が感じられた。

 

下記サイトのコメントにはそんな意見がたくさんある。

 

https://newspicks.com/news/2051292/

 

 

半年経過して改めて読んで面白く感じた点は、末端で起きてる現象だと思っていたが中心部にも波及しているんじゃないかと感じた点だ。

 

ついでに言うと、PV(ページビュー)に替わる価値も見つけられそうになさそうだし。

 

中心に波及してるというのは、既に実績もあり一定の評価が得られてる作家や評論家や学者や研究者や会社経営者(社長が有名人)は、「読モ化」してるのではないだろうか、それもかなり前からという意味だ。

 

ただその現象をうまく表現することばが無かっただけではないだろうか。

 

だとすれば、末端で起きたことが中心に波及したのではなく、中心で起きてたことが末端に及びだしたということではないだろうか。

 

 

まず、「読モ」としてのライターには、なによりもタレント性が求められる。顔出しはもちろんのこと、プライベートな情報も重要な「商品」になる。

 

これってマスコミ的に露出度の高い人はほぼ当てはまる。

 

さらに、「読モ」としてのライターにとっては、交友関係も「商品」になる。それらは主にSNSによって可視化され、お互いがお互いに言及し合うことによって、自分たちの価値を高める。

 

新しい作品や成果の発表を求められる人にとって、未発表期間はツライ時間だろう。

 

SNSはそんな間を保たせるためにはもってこいだ。

 

元気な自分をアピールできる。

 

そして、実際に優秀な読者は、彼らによってフックアップされることもある。彼らの「商品」の一つである交友関係に組み込まれ、また新たな「彼ら」を再生産するシステムの一員に格上げされる。まさに、「読者モデル」である。

 

 

「儲」=「信」+「者」

 

というオーソドックスなビジネスモデルを踏襲できてる。

 

 

 

こう書きながら疑問に思うことがある。

 

この「読モ化」は、仕掛けられたものなのか、自然発生なのかということだ。

 

仕掛けられたとすればコンサルかなと思うが、ピンとくるコンサルが一人だけ浮かぶ。

 

正確にはコンサルではないが、人に刺激を与えるのが好きな人だ。

 

藤原和博氏が教える「100万分の1の人材」になるために今すべきこととは?

www.youtube.com

 

藤原さんが仕掛け人という意味ではなく、藤原さんが主張するエッセンスを現代流にアレンジしたら「読モ化」にたどり着いてもおかしくないなと感じただけ。

 

 

 

「読モ」ということばで括られると、ちょっとかわいい素人というイメージになる。

 

だから、著者も淘汰される存在と見てるようだ。

 

筆者が思うのは、おそらく現在、多くの人が「ライター」としてイメージするのは「読モ」としてのライターなんだけど、彼らが物書きとしての「本流」になることはないということだ。

 

これから先の21世紀を語る識者は誰もが生き抜くためには、「専門性を高め、質を高める必要がある」と言う。

 

もちろんそうだろうなと思うが、入り口がかわいく見えないものが、どんなに専門性を高めても、質を高めても相手にされないような気がする。

 

入り口がかわいいから入ってくれる。

 

入ったら、専門性もあり、質も高かった、こういうものや人しか残れないということかもしれない。

 

専門性を高めて、質を高めると、たいていの場合入り口はかわいく見えない、かわいいから最も遠い存在になるだろう。

 

だから、かわいいだけで中身が無いものに負けてぼやいてる人が多いのだろう。

 

さて、これからどうしようかな。

生きることはギャンブル

一般には保険というのはリスクに対し、リスクが発生した場合の損害を金銭的に補填するものと理解されてる。

 

あまり自覚は無いかもしれないが、我々は権利を持っている。

 

そして権利と引き換えに義務を負っている。

 

保険の場合、”保険料を支払うという義務”に対し、”保険金を受取る権利”と理解してる人が多い。

 

しかし義務の中には「注意義務」というのがある。

 

注意義務には大きく2つがある。

 

善良な管理者の注意義務(善管注意義務

善良な管理者の注意義務(善管注意義務)とは、債務者の属する職業や社会的・経済的地位において取引上で抽象的な平均人として一般的に要求される注意をいう。

 

 

自己のためにするのと同一の注意(自己の財産におけると同一の注意義務、固有財産におけるのと同一の注意義務)

行為者自身の職業・性別・年齢など個々の具体的注意能力に応じた注意

 

 

この注意義務を欠いた状態が「過失」と呼ばれている。

 

保険を掛ける場合の前提は、注意義務の履行だ。

 

保険の約款が分厚いのは、会社や保険種類による注意義務の内容やその取扱いが細かく記載されてるからだ。

 

当然ながら、注意義務の範囲内は事由が発生しても保険金は支払われない。

 

したがって、注意義務の範囲内は保険の対象にならない。

 

しかし、注意義務を負っているのは保険会社も同じであるので、契約が成立すると損得を巡って注意義務合戦をすることになる。

 

だから、保険金を受け取りたい契約者と保険金を支払いたくない保険会社という構図は永遠に続くだろう。

 

ところで人々は何に保険を掛けるのかということはよく話題になるが、どうして掛けるのかはあまり話題にならない。

 

1.自力で不測の事態に備えるのは大変だから

 

2.何が起きるかわからないから

 

3.皆掛けてるから

 

このような理由だろうと思われるが、この考え方は、保険の対象にならないことに関しても同様の目を向けるだろう。

 

 

そんな保険の対象にならないものの1つに「生き方」というものがある。

 

人生に保険を掛けた結果生まれた(生まれるかもしれない)という最近の話題を3つ上げてみたい。

 

 

「こんな生き方をしたい」に掛ける保険

 

あの先輩の悲劇が頭をよぎる!? 清宮幸太郎「早大進学」が不安視されている!

やはり頭をよぎるのは同じ学校の「偉大なOB」の末路!?

 

地方予選敗退早々ということもあって、清宮自身は「この先どうしようかは考えていない」とコメントしているものの、関係者によれば、大学進学が濃厚とされているようだ。

 

 

本命はメジャーリーグと考えられてる一方で、日本のプロ野球でも通用するかどうかわからないとも言われている中で、色んな策を弄してる噂話が聞こえてくるのが、保険選びに夢中になってるように見える。

 

 

 

こんな生き方をしたかったわけではないが、やりたいことをやることが保険になっていた。 

カラテカ・入江慎也が指南!「人脈力」を鍛える3つのキーワード

芸人としてはパッとしない僕ですが、実は「人脈力」や「営業力」をテーマにした講演やコンサルティングを様々な企業でしています。なぜ、そんなことができるようになったかというと、あるテレビ番組で元サッカー女子日本代表の澤穂希さんが「入江さんと友達なんです」と言ってくれたのがきっかけ。入江は意外な人脈を持っている! と話題になり、ついには「友達5000人芸人」としてブレークすることができたのです。

 

本命の芸能界ではパッとしなかったが、その経験と蓄積と本人の資質がうまくマッチングした好例で、同じ資質を持ってる人が努力すれば得られる結果ではないだろう。

 

本命のつもりの芸能活動が、見事に保険になったということだろう。

 

 

 

 

リスクを自分で取った人が、人生に保険を掛けてる人から妬まれて嫌がらせを受ける。

 

「農協を抜けるような協調性ない人は除草剤撒かれて当然」 うわぁ日本の闇だ

おそらく相変わらず農協に入ったまま利益を中抜きされている農家なのだろう。すぐ近くの寺坂農園が農協を抜けて儲けているのを逆恨みし、日頃から嫌がらせを行う。そしてついに除草剤散布に踏み切った。

警察と寺坂祐一代表はすでに犯人に目星はついているというから後は時間の問題だろう。6,600玉のメロンを全滅させた悪質犯は絶対に捕まえてほしい。

 

 

考えれば当り前のことなのだが、保険を掛けてる人の大半は保険金を受取ることはない。

 

大半が保険金を受け取るようになったら保険が成立しないからだ。

 

農協に入ってる農家は、生き方に保険を掛けた。

 

その理由は、保険金が受け取れると考えたから。

 

しかし、自分を含めて周りの農協に入ってる人は保険料を取られるだけ。

 

そんな時に、農協に入ってない人が儲けているのを知った時、保険料を払わないのに保険金を受け取っているように感じたのだろう。

 

 

 

 

保険という概念が最初に生まれた時、一番大事だったのは「互助」という考えであり、その思いを共有できたのは、加入者全員が心配事に対して”明日は我が身”と案じていたからだ。

 

ビジネスライクになった保険からは「互助」という気持ちが消え、損得しか残ってない。

 

保険を人々が求めるのは、心配事があることで生じる不安定さを安定に近づけたいからだろう。

 

保険会社は、自社だけでリスクを引き受けることを避けるため保険会社同士で保険を掛け合う、こういうことを再保険という。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/再保険

再保険(さいほけん; reinsurance)とは、ある保険者(保険会社)が危険(リスク)を分散したり、収益を追求したりするために、自己の保有する保険責任の一部または全部を他の保険者に移転し(出再保険)、当該他の保険者がそれを引き受ける(受再保険)する保険をいい、「保険の保険」なので「再保険」という。

 

世界中の保険の最終引受先はイギリスのロイズ

 

そこで行われてるのは膨大で綿密なデータに基づいてのギャンブルで、プレイヤーは投資家だ。

 

膨大で綿密なデータに基づくギャンブルと言えばプロ野球のドラフト会議を思い出す。

 

特別企画ドラフト1位で活躍する選手ダメな選手ここが分かれ目だった

「ドラフト1位というのは、才能があるはずの選手。でも、花ひらくかどうかまでは、30年スカウトやっても見抜けない。とどのつまり、活躍するなんて絶対の確証は、持てないんです」

 

 

つまり、安定なんてどこにもないということだ。

 

人間がが生きるということは、ギャンブルなのだ。

 

 

だから、努力より博才がモノを言う!

 

 

かもしれない。

「おばちゃんの実感」>「オッサンの理屈」

ただありのままを見たり記録したりするのが観察。

 

観察という言葉は難しくないが、行動としての観察はけっこう難しい。

 

昆虫や植物の動きや変化を見ることが多くの人にとっての観察だろうし、私もそうだった。

 

しかし、目のつけどころや見る角度を意識するようになると、客観的で中立な見方のつもりでも、主観的なものになってることを思い知らされることが多い。

 

このことは不愉快なことではなく、自分らしさがそこにあるのだろうと思えてくる。

 

人間観察というのがある。

 

電車に乗ってて何もすることがない時などに他の乗客をなんとなく見てる時に無意識のうちにしてるのが人間観察だ。

 

最近はストーカー問題とかあるから、人間観察はさり気なくやらなければいけない。

 

人間観察をしていて、幸せな人と不幸せな人をきちんと見分けることはできるだろうか。

 

世の中には、幸せなのに自分のことを幸せだと思えない人がいる。

 

反対に、大して幸せでもないのに”幸せアピール”に余念のない人もいる。

 

その違いを、観察だけで見抜けるだろうか?

 

 

 

 

「何に幸せを感じるか?」の答えは、性別や年齢でも違うだろうし、収入を含めた生活環境の違いもあるだろうし、国によっても違うだろうから、共通の答えが存在しないかもしれない。

 

検索すると色々出るが、理詰めに考えてる答えとしては下記のようなものが当てはまるかもしれない。

 

幸せって何!?本当の幸せを感じる4つのステップ

ステップ1.自分の感情を見つける

ステップ2.やりたくないことをやめる

ステップ3.やりたいことをやる

ステップ4.幸せに自然と気づく

 

 

しかし、成長を捨て、やりたくないことを辞めやりたいことをやるなかで、

幸せだなぁと感じている自分がいることに気づきました。

まだ「試したい」という気持ちが多い自分ですが、そこにある幸せもいいものだと感じます。

 

 

「幸せって何ですか?」デンマークが世界一幸福な理由を現地で有名な研究者に聞いてみた!

最初に「幸せには答えがない」と言ったのはそういうことです。バランスも何対何が一番幸せになれる比率だとかもありません。しかも、幸せって主観的な感情だから、捉えどころがない。デンマーク人である私が研究をしても、まだよくわからないんです。

 

理詰めに考えると、もっともらしいことがいくつも条件として挙がるが、それらを総合すると結局よくわからないとなるようだ。

 

これは日本の話だろうが、具体的に幸せとは何かを示してる。

 

人が幸せを感じる瞬間ベスト25!

夜ぐっすり眠るとき

涙を流すほど笑ったとき

朝、二度寝をするとき

好きな映画を観ているとき

好きな音楽を聴いているとき

ゲームに夢中になっているとき

美味しい食事を食べているとき

お風呂に浸かっているとき

昼寝をしているとき

最新巻の漫画を読んでいるとき

他人と何かを共有できたとき

思い出し笑いをしているとき

好きな飲み物とお気に入りの本を読みながら、ソファでまったりしているとき

仕事に行く日だと思って起きたら休みだったとき

好きな歌を歌うとき

マッサージしているとき

ショッピングを楽しんでいるとき

仕事の後にビールを飲んでいるとき

ヘアスタイルを変えたとき

趣味に打ち込んでいるとき

好きなアーティストのLIVEに行ったとき

お気に入りの服を着て出かけるとき

好きな人と一緒にいるとき

猫と戯れているとき

好きな匂いを嗅いだとき

 

 

大事なことは「気づく」ことです。

目の前に、足元に、いくらでも幸せは転がっているのです。

それに気づいた分だけ人は幸せを感じることができます。

 

 

 

誰もがテレビやネットやSNSを通じて世間の動きを見ながら、自分なりの距離を図っている、そんな時少し冷めた目で観察すると感じられることがある。

 

日本では老若男女問わず「オッサン化」が進行している。

 

「オッサンの理屈」vs「おばちゃんの実感」

「ああ、男の理屈は虚しい」

残念ながら、この世の中は基本的にオッサンの理屈によって支配されている。それは女性の権利や社会進出が比較的に進んでいるアメリカでも同じことだ。

 

 

東野圭吾は著書「片思い」の中で、「男」と「女」という性はメビウスの帯のように、強弱の濃淡を描きながら連続的につながっているから、男の中にも女性性があり、女の中にも男性性があると書いている。

 

世の中がオッサン化してるのは時代のせいだろうが、これは振り子が振れてるのと同じでいずれ逆に振れ始める。

 

振り子が逆に振れだすと、「おばちゃんの実感」が世の中を動かしだすのだろう。

 

そんな「おばちゃんの実感」を示す八策がある。

 

なかでも、維新の会の「維新八策」をもじった、「おばちゃん党はっさく」が“けっさく”だ。その内容を紹介しよう。

 

その1:うちの子もよその子も戦争には出さん!

 

その2:税金はあるとこから取ってや。けど、ちゃんと使うならケチらへんわ。

 

その3:地震や津波で大変な人には、生活立て直すために予算使ってな。ほかのことに使ったら許さへんで!

 

その4:将来にわたって始末できない核のごみはいらん。放射能を子どもに浴びさせたくないからや。

 

その5:子育てや介護をみんなで助け合っていきたいねん。そんな仕組み、しっかり作ってや。

 

その6:働くもんを大切にしいや!働きたい人にはあんじょうしてやって。

 

その7:力の弱いもん、声が小さいもんが大切にされる社会がええねん。

 

その8:だからおばちゃんの目を政治に生かしてや!

 

 

 

小さな子供がいると自然と気付くことがある。

 

自分の子供の幸せを考える時、せめて自分の子供だけでも幸せにと考えることがあるが、子供は友達も幸せでないと楽しくなれないということに。

 

自分の子供の幸せを望むなら、子供の友達も幸せでなければならない、そのためには友達の家族も幸せでなければならない。

 

結局、みんな幸せでないと幸せにならない。

 

おばちゃん目線の異議申し立ての運動は、いま、この世界にとって最も必要なものなのかもしれない。

 

振り子はもう逆に振れ始めてるかもしれない。