違う見方

見方を変えると目からウロコが落ちるかもという独断と偏見による雑記、備忘録

無理して作るオリジナルってなんか違う

1億人の人を明確に分類するのに必要な尺度って何だろう?
 
マイナンバーのように数字の羅列ではなくて。
 
人を認証するシステムとして下記のようなものがある。
 
 
 
では個人に帰属する著作物のオリジナリティは、どう扱われるか。
 
オリジナルではないものや状態を示す言葉
 
  • パクリ
  • コピペ
  • 贋作
  • 盗作
  • カバー
  • インスパイア
  • リメイク
  • オマージュ
  • リスペクト
 
などがある。
 
創作活動に関しては、似てるということが問題になる。
 
商売の世界では、売れてるものの真似はよくある。
 
 
似ているのに評価が全く違うことがある。
 
著作物で、オリジナルに対しパクリと位置づけられれば評価は下がる。
 
しかし製品の場合は、より完成度が高ければ、あるいはより安くできればパクった方が評価が得られることもある。
 
このようなことは、なぜ起こるのだろう。
 
この場合の対立軸は、”合理性 vs 感情論 ”かな?
 
 
絵画の世界では、模写が練習として確立してるので非難はされないが評価は低い。
 
しかし模写も、完成度が高く贋作として通用するレベルになると本物と称して扱われ、悪い意味でだが評価されることになる。
 
贋作が現に本物として存在し、所有者はそれなりの目利きの人物ならば真贋というカテゴリーがあまり意味がなくなるかも。
 
贋作を贋作と知りつつ関わる場合は、動機は合理性だろう。
 
いづれにせよクローズな世界の話だ。
 
世の中はオープン志向だと前回書いた。
 
オープン目線で、オリジナルとパクリについて1つの提案。
 
 
真似をすると同質になることが簡単な世界(分野)真似をしているのに全く違って見える世界(分野)がある。
 
文字で表現する世界なんて、同じになる典型だ。
 
というか違うことが不可能。
 
ただ、手書きという条件がつくと、違う人が書いたことはわかる。
 
手書きで字が違うと、受け取る内容に差がでるのだろうか?
 
気持ちの描写なんかでは、書かれてる字の違いで印象が変わるような気がする。
 
出版されてる本が手書きで印字されてると、同じ曲を異なるアーティストで聞いて楽しむように、「内容は同じなのに字が違うと読んでみたくなる」 ということは成立しないだろうか?
 
本棚に同じタイトルの本が10冊。今日の気分は、「この字」なんてね。
 
あってもおかしくない気もする。
 
成立する場合、その理由はまさに字に個性が宿るからだろう。
 
手書き文字の印刷なんて、活字印刷の時代には不可能だろうが今だったら行けるんじゃないの?
 
推理小説(ドラマ)では、もともと犯人探しやトリック解明が主体だったが、次の段階では動機に主要テーマが移り、次に心や感情がテーマになってるような気がする。
 
文字だけなのに絵本のような伝わり方をするかも。
 
相田みつをや武田双雲の書が人気あるように、字で惹きつけられるのは特殊能力だし、その個性は他で代替しづらいと思う。