ごく自然に身につけ、当たり前だと思ってることがある。
それらは、「常識」と言われたり、「暗黙の了解」と言われたりする。
人の数だけ、個性があり、考え方の違いがあると言われるが、そもそも
人間を違わせるものに何があるだろうか?
- 性別
- 国(国籍、育った国)
- 言葉
- 宗教
- 法律
- 生い立ち
- 生活
- 教育(しつけを含む)
- コミュニケーション
と言うような事が思い浮かぶ。
人間とは「生物学」的にはどう位置づけられてるのか。
ヒトは哺乳綱の中の霊長目ヒト科ヒト属に分類される。
生物学的には、ヒトはサル目の一員であり、
霊長類(=サル類)の1種にほかならないが、
一般的には、サル目からヒトを除いた総称を「サル」とする。
https://ja.wikipedia.org/wiki/サル目
ヒト亜科(ヒト属、チンパンジー属、ゴリラ属を含む)とオランウータン亜科で構成される。
旧来はヒトの種を分類するための分類項であったが、ヒトを中心とする古生物学の進展と、DNA解析の進展の結果、ヒトと類人猿、特にゴリラ属・チンパンジー属の遺伝距離は小さいことが分かり、両者もヒト科に分類される意見が主流を占めることとなった。ただし、遺伝子と表現型の関係は未だ明確ではなく、遺伝距離を即、分類に反映させることに対しては慎重論もある。
ヒト属あるいはホモ属 (Homo) は、哺乳類霊長目(サル目)ヒト科の属のひとつ。
ヒト亜族のうち、大脳が大きく増大進化したグループであり、現代人(ホモ・サピエンス・サピエンス)の属するホモ・サピエンスと、ホモ・サピエンスにつながる種を含む。
生物学的に、人間を人間たらしめてるのは「大脳の増大進化」らしい。
そしてその特徴は、
- 二足歩行
- コミュニケーション能力
と挙げられてる。
では、人間は「人文・社会科学」的にはどう位置づけられてるのか。
「人間らしさ」(人間の特徴)の説明のしかたはいくつかあるが、
文化を持つこと(そしてそれを仲間や子に伝えること)、
道具を使い道具を作ること、などが挙げられる。
人間にとって大きな要素は3つと言えそうだ
- 二足歩行
- コミュニケーション(文化を含む)
- 道具
人間は、生物学的に見ても、人文・社会科学的に見ても、同じ存在だ。
当たり前すぎるが、改めて考えると奥が深いかも。
二足歩行の能力が高いことが運動能力の高さに繋がるだろうし、二足歩行の能力が衰えることが健康に大きく関係するのだろう。
歩くという他愛もないことが、いかに人間を人間たらしめる行為だったのかを思い知る。
コミュニケーションに限らず、人間が考えたり、想像したりすることは、すべて言葉を介して行われる。
コミュニケーションも、言葉である。
良いことも悪いことも、正しいことも間違ってることも、本当も嘘も、感動したり落胆したり、すべて言葉のなせる業なのだ。
「必要は発明の母」という言葉がある。
道具を作り、使いこなそうとする考えにうまくハマる言葉だ。
文明はコミュニケーションだけでは生まれなかっただろう、道具があったから、道具を使えたから発達したのだ。
冒頭で、人間を違わせるものに何があるだろうか?
と、いくつか上げたが、宗教はコミュニケーションに属するものだろう。
法律は道具だ。
身体性に関係することは、二足歩行とコミュニケーションが重なる領域だと思う。
人を違わせてることの多くが、コミュニケーションに由来しているのが今という時代の特徴かもしれない。
人が悩んだり、苦しんだりするする時、3つのどれかに分類できるはずだ。
悩み事が3種類しか無ければ、答えの探し様はいくらでも見つかるはずだ。
今という時代は、道具の進歩が著しく、自動化されたマシンになっている。
今後はAIの登場で、道具を使いこなすという意味での人間の出番は減るだろう。
その一方で、道具の進歩が技術を進歩させ、コミュニケーションの前に立ち塞がっていた物理的な制約から開放され始めている。
コミュニケーションの領域は、ますます拡大するだろうし、多様性も出て来る。
コミュニケーションの領域には、すべての人の居場所があるだろう。
無ければ作ればいいだけ、そういうことは簡単にできる時代になって来ているのだ。
ほんの少し道具の使いかたを覚えるだけで!