違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

「のどごし」ってなんだろう?

ブログを始めるにあたって一番意識していたことは、自分の言葉で表現しようということだった。

 

仕事がらみでプレゼンなど表現することはあっても、プライベートな考えや思いを表現することを全くしない人生だったので、ブログを始めることはとてもハードルが高かった。

 

ブログを始める前から、好きで読むブログに一定の傾向があることから、自分の興味の守備範囲はうすうすわかっていた。

 

世間で起きるできごとを通じて、考えたことや思ったことを書いてきたが、やっていたのは書くことを通じての自分探し(自分確認)だったような気がする。

 

ブログを書くようになって一番の収穫は、意識して文を書けるようになったことであり、書いてる自分がそれなりに気持ちよさを感じられるようになったことだ。

 

文を書く習慣が全く無かったので、以前はやたらに丁寧な言葉を重ねてくっつけるような文しか頭に浮かばなかった。

 

例えば、「・・・ですますございます」みたいな。

 

あれも言いたい、これも言いたいと思い全部詰め込み、結局何が言いたいかわからなかったりしていたが、語尾を言い切る形や、体言止めのように終わらせるとクドさがなく自分自身がすっきりして気持ちいいことに気付いた。

 

こんなことを書いてみようと思ったのは、以前にも書いた想田和弘監督の「観察映画の十戒」を最近強く意識するようになってきたからだ。

 

 

カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論 (知のトレッキング叢書)

カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論 (知のトレッキング叢書)

 

 

 

(1)被写体や題材に関するリサーチは行わない。

(2)被写体との撮影内容に関する打ち合わせは、(待ち合わせの時間と場所など以外は)原則行わない。

(3)台本は書かない。作品のテーマや落とし所も、撮影前やその最中に設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない。

(4)機動性を高め臨機応変に状況に即応するため、カメラは原則僕が一人で回し、録音も自分で行う。

(5)必要ないかも?と思っても、カメラはなるべく長時間、あらゆる場面で回す。

(6)撮影は、「広く浅く」ではなく、「狭く深く」を心がける。「多角的な取材をしている」という幻想を演出するだけのアリバイ的な取材は慎む。

(7)編集作業でも、予めテーマを設定しない。とにかく撮れた映像素材を何度も観察しながら、自分にとって興味深い場面をピックアップし、場面ごとにシーンとして構築してみる。シーンがだいたい出揃ったら、それらをパズルのごとく順番を並べ替えたり、足りたり引いたりして、徐々に一本の作品としての血を通わせて行く。その過程で、一見無関係なシーンとシーンの間に有機的な関係を見出したりして、徐々に自分の視点やテーマを発見して行く。発見したら、それが鮮明になるように、更に編集の精度を上げて行く。同時に、映画として見応えがあるように、編集のリズムやドラマティックな構成を整えて行く。

(8)ナレーション、説明テロップ、音楽を原則として使わない。それらの装置は、観客による能動的な観察の邪魔をしかねない。また、映像に対する解釈の幅を狭め、一義的で平坦にしてしまう嫌いがある。

(9)観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、余白を残す。その場に居合わせたかのような臨場感や、時間の流れを大切にする。

(10)制作費は基本的に自社で出す。カネを出したら口も出したくなるのが人情だから、ヒモ付きの投資は一切受けない。作品の内容に干渉を受けない助成金を受けるのはアリ。

 

「観察」という観点で世間を見るのもおもしろいかもしれない。

 

 

これまでは、世間に眼を向けながらも、見てるのはあくまでも自分自身だった。

 

また、日本や世界や地球という大きな括りで見ることはしてきたが、個人としての他人にはあまり眼を向けなかった、眼を向けた個人は著名人や好きな人だけだったが、名もない市井の人に眼を向けてみたいという考えが出てきた。

 

世の中がどう変わろうと、人間同士のコミュニケーションが重要な事に変わりはない。

 

 

世間の多くの人はなにに反応してるのだろうか?

 

今年(2017年)の正月に出た下記の記事。

 

「ニーズ」に死を:トランプ・マケドニア・DeNAと2017年のメディアについて

弊誌のあるスタッフが「バズ」という現象についてうまいことを言っていた。記事が食べ物だとするなら、いま「読まれる記事」は、とにかく「のどごし勝負」だと言うのだ。栄養価でも、味でもなく、ただひたすら「のどごし」のいいもの。それだけが読まれ、消費されていく。

 

ここで指摘されてる「のどごし」は多くの事柄に当てはまっているかもしれない。

 

「のどごし」の反対に位置する価値はなんだろうか?

 

簡単に浮かぶのは「噛みごたえ」のような気がする。

 

「のどごし」を求めてる人も、その自覚はない可能性が高い。

 

だとすればそれは時代のせいだ。

 

個人的には「噛みごたえ」にこだわりたいが、それだけでは伝わらないだろう。

 

次のブログは「のどごし」という観点で世の中を見て、考えてみたい。