違う見方

見方を変えると目からウロコが落ちるかもという独断と偏見による雑記、備忘録

「欲から入って、いかに欲から離れるか」

名将と言われた鶴岡一人は、「グラウンドには銭が落ちている」という名言を残してる。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/鶴岡一人

愛称は鶴岡親分ツルさん。初代「ミスターホークス」「ドン鶴岡」とも呼ばれた。南海ホークスの黄金時代を築いた名監督で、日本プロ野球史を代表する指導者の一人。

 

そんな鶴岡監督にブルペン捕手として採用されたことでプロ野球生活を底辺からスタートさせたのが、野村克也だ。

 

確執の多い二人だが、野村は「最も影響を受けたのは鶴岡さんであり、自分の采配に鶴岡さん的なところがある」と認めている。

 

そんな野村の監督としての持論が、

 

勝負の要諦は、「欲から入って、いかに欲から離れるか」だ。

 

 

野村が、お金に拘ることで選手として成功したのは、スタートが底辺だったことが大いに関係してるだろう。

 

しかし、監督になり選手の育成や采配そして勝負にこだわった結果の持論が、「欲から入って、いかに欲から離れるか」というのはおもしろい。

 

実力とやる気を持っているのに成功しない多数のプロ野球選手を見て、接して、気付いたことなのだろう。

 

 

 

ビンボーでも幸せな人は、なぜ幸せなのか

重要なのは、地位財による幸福は長続きしないのに対し、非地位財による幸福は長続きする、という点です。

 

 

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正反対の価値観が同時に存在することがある。

 

例えば、大食いや美食を礼賛し勧める(というより煽るという方が当てはまるかも)一方で、健康のために粗食や少食を勧めたり。

 

人生には、禅問答のように答えが複数存在したり、答えが新たな問題を生み出すことがしばしば起きる。

 

何か行動を起こす時、どこまで自覚できてるかは不明だが、そこには動機が存在する。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/動機

人が心を決めたり、行動を起こしたりする直接の心的原因のこと。目的とは異なる。

 

 

動機は、目的とは異なるとあるが、動機と目的の関係はどうなってるのだろうか?

 

  • 目的があるから動機が形成される

 

  • 取ろうとする行動に応じて目的を設定する

 

 

どちらもありな気がする。

 

しかし両者の目的には大きな違いがありそうだ。

 

動機の前にある目的は、具体的で絶対性が高いように感じる。

 

例えば、勉強するという行動に対し、”◯◯大学に受かるため”や”☓☓の研究をするため”のように。

 

それに対し、行動に応じて目的を設定する場合は、絶対性が弱くなるように感じる。

 

同じ勉強するでも、”順位を上げたい”や”しないと落第するから”のように。

 

 

絶対性が弱まると、相対性が強くなってくる。

 

人が切磋琢磨しあう事を競争と言うが、この競争が順位争いばかりになると、相対的な位置関係が過度に意味を持つようになる。

 

20世紀は、相対的な順位争いに価値を持たせていた時代だった。人もモノも上に位置する方がより評価された。

 

21世紀に入っても、相対的な位置関係にこだわってる人や企業はまだ多いが、社会インフラを始めとしてバックグラウンドで高度な技術が普及すると、順位が高くても一定水準を満たさないものは全く相手にされなくなリ始めているような気がする。

 

相対的な位置に拘る最後のあがきが”ブラック”かもしれない。

 

 

つまり、相対的に有利な立場を得ることが20世紀型競争だったのに対し、具体的になにができるのかという絶対性を競うのが21世紀型になるのではないだろうか。

 

相対的に上に位置することに価値があったのは、ビジネスの場で「先行者利益」があったから。

 

後ろから追いかける人や企業も、やがて追いついてくるのだが、そこには時間差があったので先行者が大きな利益を得ていた。この先行者利益は、どのテクノロジーを活用するかでも違いが発生していた。そのテクノロジーを後発参入者が使いこなせるまでは差をつけることが出来ていた。

 

しかし今は、すべての人が情報をほぼ同時に入手でき、最新テクノロジーは使いこなすのに時間や技を昔ほど必要としないので、先行者利益は当てにできない。あっても持続期間があまりにも短くなるのでメリットと言えるほどではなくなる。

 

テクノロジーがコンテンツだった時代は終わった──真鍋大度

──参入障壁が下がった結果、表現が均質化したとも言えますよね。

新しいテクノロジーを用いて、それを色々試してみても、可能な表現は本当に限られています。だから、最後はみんな同じようなものになるんです。早い者勝ち、もしくはスケールアップさせて、いち早く大衆化させたほうが勝つ。これらはぼくらにも常に付きまとう問題ですね。

 

 

こういう事を考えてると、時代は”相対性”から”絶対性”に移ってるようにも見えるが、人間はそもそも相対性に反応する生き物とも言われてる。

 

1929年世界恐慌の発生する2ヶ月前に、恐慌の発生を予見しながら亡くなったソースティン・ヴェブレンは、こう言っている。

 

「人間はほかの人との相対的比較において、自分が上回っていると幸福だと思う動物で、絶対的レベルで幸せだとは思わない。だからもっと豊かに、とばかり考えていると、バブルになり、それがはじけて大変なことが起こる」と。

 

他人と自分を比べることで自分の位置を確認する事に慣れると、自分が何をしたいのかを見失う。

 

”赤信号皆で渡れば怖くない”ということばもあるが、他人と自分を比べてばかりの生き方に赤信号が点り始めた。

 

勝ち組負け組ということばがいつの頃からか社会に定着している。

 

相対性に振り回される生き方を止め、絶対性を追求しようと考えても、何をどうすれば良いかは、禅問答のように同じ言葉が繰り返されるだけかもしれない。

 

そんな時は、野村監督の持論がヒントになりそうだ。

 

「欲から入って、いかに欲から離れるか」