違う見方

見方を変えると目からウロコが落ちるかもという独断と偏見による雑記、備忘録

情報(データ)と感情(感覚)を一致させることが大事

日常生活で何気なくきちんとこなしてるつもりの情報処理の数々がある。

 

ところが、簡単だと思っていることが、思いのほか難しいことを思い知らされることがある。

 

病気や体調不良の時にそう感じる事が多い。

 

サインを見抜いて早めに対策!判断力が低下したときの対処法

判断力が低下する原因で最も多いのがオーバーワークによる疲労の蓄積です。体に疲労がたまってくると、集中力の低下と同時に頭がうまく回らなくなり、正常な判断が困難になります。判断力が鈍ってきたなと感じたら、それは肉体からの危険信号かもしれません。

 

やってるのは一つのことでも、その時処理してる情報は複数あるのが普通だ。

 

【野球科学】正しいバッティングのメカニズムと成功するため秘訣

①見る(ボールを認識する・捉える)

②選択(考える)、判断(決定する)、反応(動く)

③スイング

④ボールの追跡

⑤コンタクト

といったサイクルを一打席ごとに行っているのです。

 

 

球速が120km/hの場合、ホームベースにボールが到達するまでの時間は、約0.51秒になります。

120km/hの球速でもたった0.51秒で目の前を通り過ぎる!!

 

 

 

コンタクトの瞬間(バットにボールが当たる瞬間)は、「視覚能力」の限界(追跡できない)を越えてしまい、見ているつもりでも見えていません。

実際は、周辺視で白いものがぼんやりと見えていますが、バットにボールが当たる瞬間が見えたり、縫い目やマークなどが見えるということは絶対にあり得ません。

眼から得た情報をもとに正確にバットでボールをとらえるためには、ボールの追跡力やスイングフォームの正確性が必要です。

 

人は選択肢が多くなると、その分、意思決定する時間が長くなることが明らかになっています。(ヒックの法則と呼ばれています)

 

 

つまり多くの選択肢があると、選ぶのに困るということです。

球速が150km/hにもなれば、プロの打者でも全ての球種やコースを待って打つのは困難です。

そこで、投球前からそれまでの配球や投手の調子、カウントなどから予測範囲を絞っています。

予測を行うことで判断する選択肢を限定し、素早い反応を可能にしています。

 

 

 

プロ野球を事例に挙げたのはわかりやすそうだからであり、同様のことをごく普通の人が、日常生活やビジネスの場で行っているが、予測で行動してるという自覚を持ってる人は少ないだろう。

 

多くの人が、その都度状況を見極め、判断して、行動してるつもりで、その判断が無意識のうちに自分が行っている予測に基いているとは理解してないかもしれない。

 

日常生活で予測が外れた時は、大前提が崩れたような感じで軽くパニックになることがある。

 

個人的な体験だが、オートバイが好きでよく乗ってた時期の体験を二つ挙げると、

 

当時乗ってた車種にはハザードランプの機能が付いてないのでウインカーは右か左かのどちらかしか点灯しないのに、走行中ウインカー操作をしてないのに両方のウインカーが同時に点滅することが発生しだした。(かなり心はビビってる)

 

メカの知識も乏しい頃だったので、もはやオカルト現象にしか思えなくなってきて途中のコンビニで休憩を取り様子を見るがよくわからない。停まってウインカーを操作しても右と左が同時に点いたりはしない。

 

少し休んでまた走ろうとすると、全く反応せず、動かすことができなくなった。

 

たまたま近くにバイク屋があったので、押して行き、経緯を伝えると、心当たりがあるらしくバイクをいじりだした。

 

結局、バッテリーのプラスのターミナルのボルトとナットが脱落し、通電しなくなっていただけだったのだが、バッテリーが走行中に通電しなくなるなんて全く予測できないことが、事を大げさにしていた。

 

もう1つはある日、大通りの車も多い中で、流れに乗って60キロくらいで走っている時、何の前触れもなくスピードメーターが0キロに落ちた。

 

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明らかに後輪にはパワーが伝わっているが、その感覚が信じられなくなり、後続車が突っ込んでくるんじゃないかと恐怖したが、すぐに路肩に寄り停まり確認すると、スピードメーターが作動しない以外正常だった。

 

結局メーターケーブルが切れただけだったが、普段スピードメーターなんてあまりあてにしてないつもりだったのにすごく依存していたことに気付いた。

 

値の正確さには期待してないのに、スピードメーターが動いてないだけで、正常な判断ができなくなるということを経験した。

 

いずれもレベルの低い笑い話なのだが、この経験以来、大前提が覆ることは結構簡単に発生するという思いを常に持つようになった。

 

何が起きるかわからないという思いを常に持ってると、なにも起きないことが平和でありがたいと思えるし、何が起きるかわからないと身構えてるから、普通の人が退屈するようなときでもちっとも退屈しなくなったし、何か起きても最初に、そもそもという原則に立ち返ることが習慣になった。

 

なぜ人間は退屈に耐えられないのでしょうか?

「人間の生は苦悩と退屈の間を往復している~」(「意志と表象としての世界Ⅲ.ショーペンハウアー。中央公論新社)

この本の3P~25P第57節に退屈や苦悩のことが、詳しくでてます。

困窮や苦難から解放されると、今度は別の重荷である「退屈」が襲いかかる。この重荷から逃げ出すべく、

暇つぶしへと邁進する。著者によれば人生はどう転んでも重荷(退屈)か苦難でしかないということらしい。

なぜ退屈に耐えられないのかの答えには不十分かもしれませんが、この本の第57節はおおいに参考になります。

厭世的なようですが、苦悩地獄と退屈地獄の間を往ったり来たりしているのが人生という指摘は的を得ていると思います。

 

 

 

我ながら良い習慣を身に付けたと思っている。

 

 

予測が成り立つのは、変化やハプニングが少ないからで、そんな状態は安定してると言われるが、そんな安定はやがて予定調和化し、退屈へつながっていく。

 

人類が戦争をしてきたのは、脱退屈だったのかもしれない。

 

戦争や大災害など非常事態を総称して”有事”という。

 

有事の反対語は”平時”と呼ばれ、多くの人間活動や自然活動が予測可能となる。

 

人間活動だけを見ると、社会を支える技術が高度化し、退屈を加速させ、戦争に向かっているようにも見えるが、その一方で地球温暖化や地球活動そのものに起因してエリアは限定的だが有事が発生している。

 

それぞれは、多くの人にとって一見無関係なのだが、発生頻度の増加ぶりが”明日は我が身”を感じさせる。

 

だから、退屈する余裕はないとも言えるのだが、明日は我が身と思えなければ、平和な世の中は退屈を感じさせる。

 

歴史を振り返ると、人の言うことがデータだった時代が長かった。

 

人間が手作業で行う観察しか拠り所が無かった時代が長いから当然だ。

 

 

 

退屈はデータに基づかない感情を拠り所にするから生まれる、その際に有名人や有力者の発言に依存する、そしてそんな行動を合理的だと勘違いする。

 

 

 

データ自体が少なかった時代は、多数決に意味があったかもしれないが、現在では多数決よりデータが重要だし、データをどう解釈するかという個人の判断力が重要になった。

 

 

情報(データ)と感情(感覚)が一致しない時に、多数決を拠り所にすることは感情で行動することになる。

 

そういう時代が終わろうとしている。