違う見方

見方を変えると目からウロコが落ちるかもという独断と偏見による雑記、備忘録

最後はコミュニケーションだけが頼り

自分の価値とは何だろうか?

 

心が関係するような意味での話ではなく、客観性のある価値として。

 

どんな能力があり、どんな経験を積み上げたのかに価値が宿るような気もするが、時代が大きく変化する場合、積み上げたものが大きいほど過去に縛られ、新しい価値観に対応できないような気もする。

 

歴史上の偉人と言われた人々や最近でもイノベーションを起こしたと言われる人物に共通してることは、無いものを作った人々だとわかる。

 

時代の進歩は、何も無い分野を減らし、新しいと称するもののほとんどが、どこかで見たり聞いたりしたものに感じさせる。

 

情報という名の知識はドンドン増えるのに、反比例するように知恵が減っている、というより知恵を活かす場面が減っている。

 

増える便利が、知恵や工夫の出番を減らしている。

 

知恵を身に付けていた世代は老化に晒されていて、知恵を持ってないのと似た状態になっている。

 

このようなことを考えていると、はっきりとは線引できないが、ある時期を境にして伝わらなくなったものとか文化があるような気がする。

 

最初に社会で起こり始め、徐々に家庭と教育の場に波及したのだと感じる。

 

即戦力を過剰に求めだす文化が、「育った」人やものだけを求め、「育てない」文化を作り出している。

 

教育の場が、育てる場になっていないから下記のようなことが起きる。

 

 

「教育困難大学」のあまりにもひどい授業風景
小学生レベルの知識が欠落している学生たち

急速に大学進学者が増加する中で、大学生の学力低下が話題になり始めたのは、2000年ごろのことだった。

 

「就職試験をやると、高卒生と大卒生の得点がほとんど変わらない。場合によると、高卒生のほうが高得点のこともある。大学生は4年間かけて何を勉強しているのですか?」

 

 

若い世代が、知識は身に付けるが知恵は身に付けない習慣が定着する一方で、知恵を身に付けてるはずの老人もおかしくなっている。

 

 

「横暴すぎる老人」のなんとも呆れ果てる実態

豊富な知識と経験を持ち、みんなから敬われる存在だった高齢者。ところが最近は「突然怒り出す」「暴力を振るう」「理不尽な要求をする」――といった迷惑な老人が跋扈している。高齢化が進む中、暴走する高齢者は社会の重荷となりかねない。

 

老人がおかしな行動を取る場合は、ほぼ「脳機能の低下」で片付けられている。

 

 

 

「高度プロフェッショナル制度」をめぐる議論で見えた
日本社会を「破壊」し腐らせていくひとたち

差別の定義とは、「本人の意思ではどうしようもないこと」でひとを評価することです。日本的雇用は「身分差別」「性差別」「国籍差別」「年齢差別」の重層化した差別制度で、セクハラ、パワハラや過労死・過労自殺、ブラック企業や追い出し部屋などのさまざまな悲惨な出来事はすべてここから生まれてきます。「働き方」を変えなければ、日本人が幸福になることはできないのです。

ところが現実には、既得権にしがみつきあらゆる改革を「雇用破壊」と全否定するひとたちが(ものすごく)たくさんいます。しかも奇妙なことに、彼らは自分たちを「リベラル」と名乗っています。

 

大学に行くようになって、それまでの小中高とは違う試験を経験した。

 

”資料の持ち込み可”という試験だ。

 

小中高の試験は、何も見ないで覚えてることをベースに回答する試験だったのに対し”資料の持ち込み可”だと、大学は甘くて楽だなと感じていた。

 

当時は気付かなかったが今なら気付くのは、覚えることが中心になるのはそれが基礎的なことを扱ってるからで、基礎から一歩進んで応用に入りだすと考えることが中心になるということだ。

 

そして考える事には、思いつきレベルからじっくり考えるまで幅広さがある。

 

考えにレベルの高さを求める試験が”資料の持ち込み可”になっていたのだが、当時の私は「絶対に0点を取らない試験」と捉え、友人のノートのコピーを持ち込んだり、カンニングをしていた。

 

 

上記の記事の既得権にしがみつく人達というのが、覚えたことだけで人生を送ってきた人に見える。

 

覚えて終わりで、その先を考えない。

 

課される試験は、常に”資料の持ち込み不可”で生きてきた人たちがいる。

 

そういう人達が過半数を占めてるのが今の日本だ。

 

 

 

高校の同級生に算盤10段という人物がいた。(仲が良かったわけではない)

 

新聞社の取材を受けたりしていて「得意科目は数学です」と語っていたが、大して数学ができるわけではなかった。

 

計算問題だけが得意で、式を導くのが難しい問題はさっぱりだったからだ。

 

試験の場でも、実生活の場でも、計算が必要な時は、算盤か暗算しかない時代というのがあったので、算盤は長いこと小学生の必修だったし、商売やビジネスにも欠かせない能力だったが、電卓が登場してその流れが変わった。

 

どんなに優秀でも人間が行う限り間違いは起こりうる。

 

しかし電卓の登場は、算盤も暗算もできない人でも、計算を可能にした。

 

誰でも計算できる時代になったのだ。

 

 

 

上記で引用した記事は、若者も老人も劣化してるという記事であり、日本国内には様々な差別対立が残っているという変化を伝えているが、今は電卓登場の前後で大きな変化が起きたことに似たような変化が起きつつあるのかもしれないと感じている。

 

昔、算盤や暗算ができない人は社会の中枢部には参入できなかった。

 

そういう意味では、算盤や暗算ができるということは既得権益だった。

 

その既得権益者が老化で劣化し始めた一方で、若い世代は電卓の普及がもたらした暗算による計算能力の劣化だけが目立っているように見える。

 

 

算盤や暗算という既得権益を破壊したのが電卓だったが、その電卓が既に既得権益になっているかもしれない。

 

そして今話題のAIが電卓に替わるものになるのかもしれない。

 

電卓は計算業務の”誰でもできる化”を加速させたが、AIは更に加速させそうだ。

 

 

”誰でも出来る化”は、既得権益者の排除も促しただろうが、経済成長がそれを上回る受け皿ももたらした。

 

従来のように受け皿が増えることが期待できないこれからは、AIがもたらす”誰でも出来る化”の更なる加速によって排除される人々は、新たな場を求めなければならない。

 

 

「縁故採用」で優秀なスタッフ確保 メルカリも「全社員がヘッドハンター」で採用会食を奨励

かつてはコネ入社というと、かつては親せきの子どもを能力も不明なまま採用というイメージがあった。ネットにも「能力のない人を縁故採用することは問題」と釘を刺す指摘もある。 しかし、番組で取り上げられていたのは、むしろ優秀な人材の引き抜き合戦だ。

 

既に効率を重視する世界のコミュニケーションに変化が起きている。

 

どんな人間も、コミュニケーションから逃げることはできない。

 

20世紀と21世紀を比較すると、インターネットの普及とSNSの登場が、コミュニケーションに革命を起こしたことだけは理解できる。

 

かつて電卓を使うとバカになると言われていた時代があった。

 

今、ネットやSNSをやってるとバカになると言われている。

 

なんだか分からないが共通点を感じる、今が過渡期であることは間違いないだろう。

 

 

 

コミュニケーションの本質は、何気ない日常生活にある。

 

ここ一番で強くアピールするよりも、普段どうしてるかの方が雄弁に実力を語る。

 

人間の価値は、何気なく過ごす日常生活の中に宿っているだろう。

 

大事なことは、話が通じる相手を持っておくことだ。