違う見方

見方を変えると目からウロコが落ちるかもという独断と偏見による雑記、備忘録

『承認の欲求』が変化してるかも

アメリカの心理学者マズローは、人間の欲求を5段階の階層で理論化した。

 

そして5つの階層は、ピラミッド状の形をなしていると言うことはは広く世間に知られている。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/自己実現理論

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図の上から順に、

 

自己実現の欲求 (Self-actualization)

承認(尊重)の欲求 (Esteem)

社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)

安全の欲求 (Safety needs)

生理的欲求 (Physiological needs)

 

 

このマズローの欲求と呼ばれるモデルは、わかりやすさ故に誤解も与え、ツッコミどころもあるので批判されたりもするが、人間の行動の背後にある心理状態を考える時には大いに役に立つ。

 

今回マズローの話を持ってきたのは、世間で頻繁に使われるようになったSNSでの”いいね”を巡って言われる『承認欲求』ということばが気になったから。

 

気になったのは、このことばの使われ方だ。

 

マズローの上から2番めに当たるのが承認の欲求なのだが、これがSNSを巡って言われる『承認欲求』と結びつかず、別のものに感じていたが、ふとした瞬間に、「もしかしたら同じことを言ってるのかな?」と思えてきたので、少し考えてみたい。

 

私自身は、本来の承認の欲求とは、社会的な欲求を達成した後に求めるもので、具体的には、金や地位を手に入れた人が名誉のある肩書を求めるようなことだと理解していた。

 

しかし、今SNSを巡って使われる『承認欲求』は、自分の存在意義の確認欲求に近そうという意味で3番目に当たる社会的欲求に当たるのでは感じられる。

 

インスタ映え」至上主義の時代、承認欲求との付き合い方を精神科医に聞いてみた

――なぜ人は承認欲求を満たそうとするのでしょうか。昔からそうした欲求はあったのでしょうか?

 

「人間は昔から群れて生きてきた生物なので、人間関係にまつわる欲求は生得的に備わっています。ただ、人間関係のかたちが変わったり、欲求を満たすための方法が増減したりすれば、それに伴って欲求のかたちは変わります。現代社会は、旧来の社会に比べて人が群れて過ごすことが少なくなりました。核家族化、一人暮らし化、契約社会などの浸透による村社会の衰退、等々が昔と現代の違っているところです」

 

「そして次第に群れなくなり、群れるユニットも不明瞭になった現代社会では、所属欲求が満たしにくくなってしまいました。所属欲求はしがらみ(たとえば家父長的抑圧)とも表裏一体でしたが、ともかく群れなくなった以上、所属欲求が満たせなくなったわけです。そのぶん、社会的欲求として求められるウエイトが承認欲求に傾いた、ということなのでしょう。こうした変化は20世紀前半の米国などでは始まっていました」

 

この『承認欲求』という言葉が広まるのとリンクして広まりだしたのが『自己肯定感』で承認欲求が大人の欲求であることに対し、自己肯定感は、子育てや教育の分野で使われることが多いような気がする。

 

自己肯定感が低い原因5つと、今すぐ出来る高める方法7つ

自己肯定感とは、自分自身にOKを出せ、様々な自分を受け入れられる感覚の事です。自己肯定感が低いと、「自分はダメだ」と思い続けざるを得なかったり、自分を認められないのでシンプルに生き苦しいです。

 

日本人は欲求5段階を、仕事での昇進や出世を通じて実現してきたが、現在では昇進や出世を含めての業績や実績を通じて実現しようとしてる。

 

ビジネスの世界で、年功序列と終身雇用が両立してる頃は、属する企業や組織内での『自己実現』を目指していたが、年功序列と終身雇用が崩れてくると、企業や組織はストレスが多いという意味で『安全の欲求』すら満たせない場になりうるが、現実の日本社会は弱体化していても、多くの人にとっては安全な社会だから、自己責任でストレスの少ない環境のほうがたとえ収入が低くても良いという選択が成立するようになってきた。

 

企業や組織に依存する気持ちが減ると、『社会的欲求』が質的に変化し『承認の欲求』と結びついて、個人のフィールドに活躍の場を求めるようになっているのが現在かもしれない。

 

自己責任で個人が活躍するというやり方は現在発展途上中で、”認知されてナンボ”の世界なので、ネット上では炎上と紙一重だったりする。

 

結構な有名人や有識者が、不自然なタイミングで暴言を連発したりするのは、おそらく”認知されてナンボ”のなせる業だろうし、車の運転に通じる自分のフィールド内では思わず本性が出るということかもしれない。

 

 

ところで、承認欲求を満たすために得ようとする『承認』とは、自分以外の他人からの評価を意味することが多く、何らかの競争を通じて得られる。

 

究極の競争は、戦争であり、人類の歴史は戦争の歴史であると言えるし、ビジネス論の中にはランチェスター戦略のように戦争における兵力の展開をお手本にするものもある。

 

戦争は最も極端なケースだが、競争は勝ち負けを決するために行うものである。

 

 

このように考えると、全ては『自己実現』のためだが、その途上プロセスの『承認の欲求』が厄介だとわかる。

 

いろいろな分野で競争が起こり、勝負が競われてる。

 

勝つことには問題はない、問題は”負け”をどう扱うかだ。

 

そんな勝負の世界に、新しい兆しが出始めてる、勝ちの価値を減じる動きではなく、負けの無価値感を減じる動きだ。

 

1961年に制定された「スポーツ振興法」が、2011年に改正され「スポーツ基本法」となり、『スポーツは世界共通の人類の文化である』と謳っている。

 

スポーツ基本法(リーフレット) 文部科学省.pdf

 

まだ名前負けしてる感じもあるが、スポーツの世界が変化してることはなんとなく皆が感じているかもしれない。

 

競技者の側も変化を感じてるだろうが、見る側の変化が大きいのだ。

 

勝ち負けよりも、真剣勝負であることが、見る側の求めるものになりつつある。

 

そこに予定調和を超越する世界観が宿るから。

 

そこには、感動が生まれ、敗者にも惜しみない拍手が贈られる。

 

 

承認の欲求は、『賞賛の欲求』に変化してるかもしれない。

 

持ってるものを惜しみなく出せる時、賞賛は生まれるかもしれないが、持ってるものを高いレベルに引き上げる努力が必要になる。