違う見方

見方を変えると目からウロコが落ちるかもという独断と偏見による雑記、備忘録

負けて得たもの

全ての帳尻が合い、過不足がない状態をプラスマイナスゼロと言う。

 

経理や簿記をやってる人だとイメージしやすいようで会社の規模が大きくなるとわけがわからなくなることがある。

 

本来プラスマイナスゼロになるはずなのに、わけのわからない数値が出てくる場合は、どこかに嘘や間違いが発生している。

 

現実社会では、人と物とお金が交錯するところに、わけのわからない数値が発生する。

 

最近では、物はデータだったり概念だったり、もはや物ではなく「モノ」になっていることも多い。

 

人と物(モノ)とお金が動くところには、損と得が渦巻いてるが、神様の目から見れば全ては辻褄が合うので、わけの分からない数値は発生せず、最終的にはプラスマイナスゼロとなる。

 

この”プラスマイナスゼロ”ということばは哲学的に使われることもある。

 

例えば、尽きることがない欲望を戒めるような意味で、最期死ぬ時は幸せと不幸せはプラスマイナスゼロになるというような言い方をすることがある。

 

幸せばかり求めてる人や他人から幸せだと思われてる人が必ずしも幸せではなく、逆に不幸に見られてる人が案外幸せを感じていたりする、というように一定のバランスが全ての人に働くような、平等に通じる印象がプラスマイナスゼロにはある。

 

もっともっとと求め続けることは、相対的な位置づけばかりを気にすることにつながり、足るを知らない心を生み出す、下のリンクはそんな事例だ。

 

 

年収800万円を超えると幸福度は上昇しなくなる 橘玲の「幸福の資本論」

お酒が好きなひとなら、暑い日の喉がからからに渇いたときに飲む生ビールの最初のひと口ほど美味しいものはないことを知っているでしょう。しかしこの美味しさは2杯目、3杯目とジョッキをお代わりするにつれてなくなっていき、やがては惰性で飲むだけになってしまいます。

 

幸せなのに、愚痴ばかりの祖母 発言小町

「恵まれているよ」と誰が諭しても、耳を貸しません。

人は、苦労が無いと、幸せも感じられないのですね。

すみません、私の愚痴でした。

 

 

ディスる人の6つの心理とは? 

ディスる人の心理は様々で、2つのパターンに分けられます。

1つは単純に自分の生活がうまくいっていないから、相手に当たってしまうパターン。そしてもう1つはテクニックとして使うパターンです。

 

 

プラスマイナスゼロは、厳密な数字の世界でも用いられるが、感情的なことにも用いられる。

 

このプラスマイナスゼロとほぼ同じ意味を持ちビジネスで用いられる言葉に『ゼロサム』というものがある、Wikipediaではゼロ和と呼んでいる。

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/ゼロ和

ゼロ和(ぜろわ、zero-sum)とは、複数の人が相互に影響しあう状況の中で、全員の利得の総和が常にゼロになること、またはその状況を言う。

競馬パチスロなどの賭博は、主催者側の取り分を除けば敗者から集めた資金を勝者で分け合う仕掛けになっているため、ここに該当すると言える。また、外国為替取引もここに該当する。

 

 

ゼロサムが成立する条件は、始まりと終わりが同じであることだ。

 

そうでない場合は、基本的にゼロサムが成立しないとされる。

 

例を上げると、

 

株式は、基本的に非ゼロ和である。上昇局面では価値が創出され、下降局面では価値が減少する。一つの銘柄で見ると、株価が上昇した場合、株価の値上がり幅×発行株式数分の価値が生まれている。市場全体で見ても同じことで、全体の株価が上がれば時価総額が増え、その増えた分だけ価値が生まれている。つまり、上昇トレンドでは、時価総額が増えた分だけみんなが得をし、下降トレンドでは時価総額が減った分だけみんなが損をする。ちなみに、一定期間時価総額は上下したがその始めと終わりで時価総額が変わっていない場合、その間の取引はゼロ和であったと言える。

 

しかし、わたしの中では株式はゼロサムのイメージがあるのは、きっと数値化できない感情も含めて見てるからだろう。

 

いづれにしても、限定されたフィールドの中でのみ成立するゲームのような世界の話だろう。

 

 

つまり、プラスマイナスゼロやゼロサム(=ゼロ和)という考え方をする場合、暗黙のうちに限定された世界観を設定している。

 

 

トータルでは勝ってるのだろうか負けてるのだろうかと考える代表格がギャンブルだ。

 

 

ひりひり賭け事アンソロジー わかっちゃいるけど、ギャンブル! (ちくま文庫)

ひりひり賭け事アンソロジー わかっちゃいるけど、ギャンブル! (ちくま文庫)

 

 

 

 

ギャンブル好きの作家の高橋源一郎がラジオで、この本を話題にしてるのを聞いたが、その中でこんなことを言っていた。

 

『ギャンブルでは、勝とうと思っていると周りにいる人を敵に感じるが、負けると周りにいる負けた人の姿に気付く、その悲哀に満ちた姿と未練を断ち切れずにいる振舞いに“同士”を感じることがある。これがあるからギャンブルをやめられない』

 

この言葉を聞いて、ギャンブルと受験に似た点がると感じた。

 

どちらも周りを敵に感じるが、周りの人と必ずしも直接は闘っていなくて、闘っていたとしても間接的な闘いだ。

 

ギャンブルをしない人や冷静に分析する人は、ギャンブルがやめれない背後にはアドレナリンが関係してると理解してるが、全く違う世界観があるのかもしれない。

 

ギャンブルや賭け事がビジネスとして成立するのは胴元や”親”がトータルでは勝つことが前提だからであり、そういう仕組みになっている。

 

そういう意味では宝くじと全く同じである。

 

勝ちたいという気持ちが動機であることは間違いないであろうが、心のどこかで勝てないとわかっているのにも関わらず”続ける”のは何故だろうか?

 

科学的にこの現象を説明する時に用いられるのが、少ない成功体験がアドレナリンの分泌を促進させるという説明だったりするが、もっと違う理由があるかもしれない。

 

「トータルで勝っているのか?」という質問に対しこんな答えがある。

 

『生きてる真っ最中にトータルで勝ってるか負けてるかなんてわかるわけない!』

 

 

ビジネスやスポーツを含めた多くの世界では、「勝ちから得られるものはない、負けから何を得るかが大事」と言われるが、負けて良かったと思う人はいないことも真実だ。

 

毎日、多くの人が今日も負けると分かっていて勝負を挑み続けている。

 

勝ちから得るものは、皆差がないだろう、お金や名声や自信など。

 

負けからは何を得てるのだろうか?

 

負けから得るものは何だろうか?

 

不思議なことに、負けると気付くのが、別の負けた人の存在だ。

 

知り合いでも何でもない人の姿に共感したり、自分を重ねたり。

 

夕日の美しさが目に染みたり、道端の雑草が愛おしかったりするのは、そんな時だ。

 

勝った時にはなんとも思わないものに感動できたりする。

 

気付いてないだけで、我々は負けから多くのものを得ている。

 

 

『負ければ金を失い、勝てば人生を失う』、それがギャンブルだと言われる。

 

 

生きること自体がギャンブルだと言われることもあるが、人生がプラスマイナスゼロならば、あるいはゼロサムならば、どのような帳尻合わせが行われているのだろうか。

 

何も持たずに生まれて、何も持たずに死んでいくということはゼロサムが成立してるように感じる。

 

得たいと思ったものではないかもしれないが、自分が得ているものがなんなのかを考えるのは意味があるだろう。

 

そうすれば自分の人生が、少し違って見えるかもしれない。