違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

私は『誰』?

職業は?

 

と聞かれた時に、

 

『職業は人間』と答えたのが岡本太郎。

 

『職業、矢沢永吉』と答えたのが矢沢永吉。

 

 

似た答えをする人は時々いるようだが、大抵この二人のどちらかのモノマネだろう。

 

世の中には、偉くなったり、金持ちになったりとは別の意味で、他人の生き方に大きな影響を与える人というのがいる。

 

そういう人は、多くの場合、偉かったり、金持ちだったりはするが、偉くても金持ちでも人に影響を与えない人がほとんどだろう。

 

聖人君子という言葉がある。

 

Wikipediaでは聖人としている。

 

一般的に、徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物のことをさす。

 

使い方としては、「聖人君子じゃあるまいし」と言うように使うことが多い。

 

聖人は、いつから聖人になったのだろうか?

 

宗教の世界では、聖人認定という審査があるらしい。

 

一般に、聖人として認めるための調査は本人の死後に長い時間をかけて行われ、早くても死後数十年、場合によっては死後数百年に及ぶ審査を経てようやく認められる(例:ジャンヌ・ダルクが聖人として認められたのは本人の死から489年後であった)[2]。しかもカトリック教会の場合、列聖の前段階として、福者と認められなければならない(列福されることが必要)。正教会の場合は、さらに急ぐのを避け、その人物に対する世間の反響が冷めるまでに十分な時間を割り当てる場合が多い。

 

"福者"として認められることが、聖人審査の前段階にあるようだが、福者とは?

 

死後その徳と聖性を認められた信者に与えられる称号。この称号を受けることを列福という。その後、さらに列聖調査がおこなわれて聖人に列せられることもある。

 

死後数年にして列福された例もあり、この点は生前の人望や人気に左右される性質のものである。

 

 

人望や人気があるというのは宗教の世界においても重要らしい。

 

人望や人気が無ければ、大勢の人へメッセージは届けられないだろう。

 

こうやって見ていくと、聖人はなるものではなく、作られるものだとわかる。

 

 

聖人認定される人には、自分の意志や努力とも違う、別の大きな力を得る必要があるとわかる。

 

歴史上の聖人が、どこまで聖人だったかは不明だが、現代では徳が高いと言われる宗教家や人の上に立つ役割を担った人物が、結構な俗物であることはよく知られてる。

 

その一方で、名も無き一般人が献身的に行動し、時には命を投げ出すことを厭わず行動することがあることも知っている。

 

生きてると、好むと好まざるとに関わらず、地位や立場を持つようになる。

 

地位や立場は、努力の賜物であり、自ら獲得したものであるという捉え方もできるが、過大評価や分相応の評価や過小評価が織りなす迷走劇の結果として他力本願的に充(あ)てがわれたものとも言える。

 

地位や立場が、獲得したものであろうと、充てがわれたものであろうと、実際に機能する時には、自分自身のキャラクターや価値観もプラスされ、印象(=イメージ)が出来上がる。

 

地位や立場と、自身のキャラクターや価値観が一致することは極めて珍しく、その不一致は演じることで調整されているが、多くの一般人は演じてるという自覚は無いだろう。

 

そういう意味では、全ての人が役者だといえる。

 

地位や立場と、自身のキャラクターや価値観が完全に一致すると、冒頭の岡本太郎や矢沢永吉のようなセリフが言えるようになるのだろう。

 

抑制力が強いと言われる日本人だが、最近は「もう黙ってないぞ!」というmetoo的発言も増えている。

 

これは女性が書いた文だが実にキレがあって面白い。

 

元サイレントブスのJJは「ブスと野獣」「眠れる森のブス」に出演したい アルテイシア

「女は若い方が美しい」というのは、錯覚じゃないか。

特に「女子高生は人生で一番美しい時」というのは、完全に男の妄想だろう。JJ(熟女)たちは「JK時代が人生で一番ブスだった」と振り返る。

 

 

オッサン芸人が「いつまで男にモテたいねん」と美魔女をディスっていたが、彼は美STを読んだことがないのだろう。美STとLEONでは、ベクトルが違う。LEONは「いかに女にモテるか」がテーマの高齢者版ホットドッグプレスだが、美STにモテの二文字はない。

 

美魔女が追及するのはモテじゃなく、あくまで自分の満足感。「見た目が美しい方が自分に自信を持てて、自分が快適に生きられる」という、自分目線を貫いている。そんな彼女らに男目線を押しつけたら「てめえがモテたいからって女もそうだと思うなよ!」とボツリヌス菌を注射されても文句は言えない。

 

 

この文章だけ見ると、女VS男にも見えるが、実際には"気付いてる人"VS"気付かない人"だ。

 

地位や立場と、自身のキャラクターや価値観のズレに気付いてない人は多いが、そのズレは傍から見てるとすぐにバレることが多い、ただ指摘する人がいないだけだ。

 

 

全ての人が役者かもしれないと書いたが、自分がどんな役を演じているかを理解しているだろうか?

 

自分の人生だから、本来役は自由に選んで良いはずなので、そういう意味では答えは「自分がなりたい役を演じている」となるはずだが、どう見ても「その役イヤですよね?」という役を演じてる人がいる。

 

自分で役を選べるということは、脚本を選べるということでもある。

 

もしかしたら、自分で選んだ脚本が読めないのかもしれない。

 

SNS上で起きる日本語のすれ違い:「言葉が通じない」のはどんな人?

例えば、耳新しい単語が出てきた場合、その意味を調べる前に「知らない」という不満を発言者にぶつけたり、文脈を全く無視した見当違いの返信を投げつけたり……。

 

「実は、現状を肯定する言葉より、マイナスを意味する言葉のほうが多いんです。例えば、プラスの気持ちを表す形容詞は〈うれしい〉〈楽しい〉〈面白い〉〈ありがたい〉、くらいなのに比べ、マイナスの気持ちを表す形容詞は〈つらい〉〈悲しい〉〈寂しい〉〈切ない〉〈わびしい〉〈苦しい〉〈憎い〉〈許しがたい〉〈いまいましい〉〈いら立たしい〉〈うらやましい〉〈ねたましい〉〈悔しい〉〈怖い〉〈恐ろしい〉〈恥ずかしい〉…、とバリエーションが圧倒的です。

 

ネガティブな形容詞が多いというのは、人間の習性として、不満がある時こそ口に出してしまう、口に出す必要があるということなんだと思います」

 

 

全ての人が、自分の人生の主役で、どんな脚本を選んでも良いのだが、その演出も自分で行う必要がある。

 

自分で自分を演出するということは、慣れてないと難しいかもしれない。

 

自分の演技に自分で許可を与えることは、なかなかの不自然な行為なのだ。

 

フリーランスの良い点は「許可がいらない」こと、あとはサラリーマンが向いているかいないかが分かる用語チェックリスト

一旦フリーランスになってしまった人がもうサラリーマンに戻りたくない、と思う大きな理由の一つが「何かをやろうと思っても許可がいらない」ということにあります。

 

 

「責任の押し付け合いが嫌い」

 

「プロフェッショナルたるもの、自分で責任を取りたい」

 

「他人に華麗なスルーパスを出し合う様子に嫌悪感を抱く」

 

 

 

こうやって見てくると、自分の演技に自分で許可を与えてもうまくいく条件は、自分らしく振る舞っていても周りから支持される必要があるという意味で人気や人望に左右されることが分かる。

 

人気や人望は、できた(=作られた)イメージの上に成り立つという意味では、自分の手が届かないところにあることになるが、火のない所に煙は立たないと言う意味では、最初に火をおこすのは自分自身でしかないと言える。

 

最初の火おこしを、許可をもらって起こそうとするか、許可は自分で出すかで、その後の演技が大きく変わるだろう。

 

生きるということが、役を演じるということならば、常に問われていることがある。

 

 

私が演じているのはなのか?