違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

皆さん、アフィリエイトをしませんか!

自分の会社の商品やサービスを好きで自信を持ってお客にすすめることが出来てる人がどの位いるだろうかという疑問がキッカケで以前「アフィリエイトっておもしろいかも」というエントリーを書いた。

 

社員やアルバイトの中には自社の商品が、好きになれなかったり、内心では良くないとわかっていながら従事してる人が大勢いる。

 

生活するためにはしょうがないからと言う気持ちを免罪符にしながら。

 

この免罪符は、お客に対して向けられるものであるがその呵責の強さは、商品やサービスの特性やお客の属性も関係するので、個人差が大きいだろう。

 

 

良心的な気持ちを持ちながらも、自分の環境で自分にできるベストを尽くすことで、お客に対して免罪符を用いようとはするが、自分の心だけは欺けないと言うジレンマを抱える人は大勢いるだろうが、継続してると感覚は麻痺しやがてなんとも思わなくなる人も大勢いる。

 

昔も今も仕事としてお客に接する場合、最大の障害になるのは「取扱える商品やサービスが限定されている」という点にある。

 

だから、その言い訳として「商品やサービスは、売る人の人格や人間性とセットだ」と昔の人は言った。

 

今もそのことばは生きていて通用するが、その意味する内容は悪いことを指す方が増えているのは、詐欺と相性が良いからだ。

 

 

「新しい国作る」で5千万詐取

警察によりますと、東京に住む50代の女性が、平成25年に知人の紹介で知り合った女から「新しい国を作るので資金を援助してほしい。金は高額の利息をつけて、返してほしいときに返す」と持ちかけられたということです。

女性は話を信用し、現金や振り込みなどであわせて5000万円を支払いましたが、その後「金を返して欲しい」と連絡しても金が戻ってこなかったことから県警察本部に相談して事件が発覚したということです。

 

 

現代は、昔の良い風習が失われていると言われるが、風習の多くは「伝わる情報は、伝える人間の人間性や人格とセット」だということに由来する気がする。

 

親切とお節介は紙一重であるのと同様に、良心と悪意も紙一重だ。

 

現代は情報化社会という呼び方をするようになって久しいが、その意味は商品やサービスだけに限らず、人間性や人格も情報化されるという事を意味する。

 

自社商品を売りたい営業パーソンは、熱心にメリットを伝えようとし、それだけですんなり買ってくれない客には若干のデメリットを伝えて自身の誠実さをアピールしたりする、お客が自社商品よりも全てに優れた他社製品の存在に気付かないようにと願いながら、商品とセットで自分自身も売り込む。。

 

一方、増加した各種量販店のおかげで他社商品との同時比較が可能な場ができると、ごく一部の店員を除けば、膨大な商品情報を理解できず情報提供者として中途半端な店員ばかりになる。

 

そしてネット通販の登場で、情報の主導権は気の利いた買う側に完全に移った。

 

「気が利かない」人には辛い時代になっている。

 

気が利く人は、価格だけでなく、気になる点を全て確認してからでないと買わなくなる。

 

気が利かない人の選択基準はおそらく「あってないようなもの」で本人もよくわかってないだろう。

 

モノが売れない時代だと言われるが、むしろ逆に「欲しいものが売ってない」と言って良いかもしれない。

 

 

「気が利いてる人」の気を引くことが今という時代には求められているのだ。

 

「欲しいものはこれじゃないですか?」ということを、分かりやすく伝える情報(発信する人の人格を含めた)を、「気が利いてる人」は求めている。

 

このように考えると、ビジネスとして自社商品の枠に縛られている社員や、中途半端な知識の量販店の店員よりも、なんの縛りも受けずに痒いところに手の届く情報を提供してくれる「名も無きネット上の人」の人の方が遥かに価値を持つようになれるかもしれないし、既になっている。

 

情報は、発信する側にも、受け取る側にも、同等のリテラシーが求められる

 

肩書きやネームバリューに宿っていた信頼よりも、情報そのものが独立して信頼を得るようになっていると言える。

 

現在は少し評価を落としている「まとめ系サイト」は狙っていることは悪くない、悪かったのは明らかなウソが多かったからだが、叩かれた背景には「新興勢力vs既存勢力」の既存側の逆襲があったとも言える点は忘れてはいけない。

 

既存勢力は、築き上げた信頼(人格も含む)に依存しようとするが、信頼とは過去を示すもので将来を担保するものではない。

 

現代の価値ある情報には常に「現在的価値」が求められる。

 

受け取った情報を上手に処理する能力と、上質な情報を発信する能力は対をなすはずだ。

 

これってアプリの扱いに通じるものがある。

 

アプリを作ることと、アプリを使うことの関係と同じ。

 

作る側には、ニーズや需要の捉え方が求められ、

 

使う側には、使いこなすために自分自身を理解することが必要

 

になる。

 

この、ことばにすると簡単なことは、実行することは必ずしも簡単なことではない。

 

だから、おもしろいし、チャンスが生まれやすいし、一発逆転や下克上が起きやすい。

 

 

「(長年の)信頼」と「いかがわしさ」は紙一重だと分かると、アフィリエイトというのは現代人には必須の能力と言えるかもしれないと気付く。

 

 

現代の必須能力は「現在価値」を提案できるプレゼン能力で、相手の心に届かなければ効果はゼロだ。

 

努力したとか頑張ったとかを、評価する仕組みはどんどん減っている。

 

アフィリエイトぐらいできないと、人として「現在価値」があるとは言えないかもしれない!

 

「嫌い」の向きを変える!

今朝、衝撃的なことがありました。

 

あったと言うよりは、わかったと言う話です。

 

知人からメールが来て、その後電話で話しました。

 

共通の知人(かつて一緒に仕事をしたことがある)が、殺害されたという報告でした。

 

私に連絡をくれた知人に連絡をしたのは、事件の第一発見者で警察と一緒に現場に出向いたそうです。

 

死体は、刃物でメッタ刺しだったそうです。

 

事件に関しては、まだ第一報の段階でニュースの情報よりも知人からの情報の方がはるかに情報量が多いのですが、事件そのものはこれ以上触れません。

 

わたしがこの被害者との付き合いが無くなってもう15年以上経っていますが、時折噂は聞こえてきました、共通の知人が複数いたので。

 

伝え聞く噂は、ものすごく羽振りが良いという話が8割に対し、お金でトラブルが起きているが2割という感じでしたが、直近3年くらいは何も伝わってこないという感じでした。

 

わたしが持っている直接のイメージは、実際にコミュニケーションが発生していた15年以上前のものですが、彼とわたしは相性が悪かったのです。

 

お互いに嫌いだったでしょう。

 

わたしには、彼は強引に見えてました。

 

彼には、わたしが弱腰に見えていたでしょう。

 

彼はお金に執着し、わたしは「武士は食わねど高楊枝」でした。

 

相性が良いわけありません。

 

 

 

そんな思い出しかない状態でも、もたらされた事件の話は、衝撃でした。

 

もたらされた情報では、彼の生活は大きく変化していたようですが、希望を感じる要素もあったらしいです。

 

 

事件の報告を受けた時、わたしの中に小さな気持ちの変化がありました。

 

嫌いだった彼の強引さは、一生懸命生きていた証だったのかもしれないと思え始めたのです。

 

そんなに嫌いになるほどのことはなかったのかもしれないと思えてきたのです。

 

 

 

 

同じ気持ちをずっと以前に感じたことがあるのを思い出しました。

 

 

高校時代の仲良しで久し振りに再会した時、多分20代後半の頃、その中の一人が突然「そう言えば〇〇死んだの知ってる?」と言いました。

 

その時集まっていたのは4人だったが、そのうちわたしを含めて3人は〇〇が嫌いだったのでした。

 

嫌いになっていた理由は、今思うと妬みだったのでしょう。

 

彼は、背が高く細身でバスケットボールの選手で、女の子にモテ、男の目から見ても輝いていたのです、しかし一言余計なことを言うので、一部からすごく嫌われてました。

 

そんな彼は25歳でガンで亡くなったそうです。

 

若いからでしょうか、発症して亡くなるまであっという間だったそうです。

 

その話を聞いて、彼を嫌いだった3人はしんみりとした気持ちになり、誰かが「あいつ高校時代モテモテで良かったよね、それが救いだ」と言ったら、皆頷いていた。

 

帰り道、「なんであの程度のことで嫌いだったのだろうか」と心に引っかかるものがあったことを、今回の事件で思い出した。

 

 

世の中には、死んだからと言って許せない憎しみが存在するのは事実だろうが、多くの場合、相手が死んだと聞かされれば「なんでそんなに嫌いだったんだろう」と思うほど些細なことに思えてくるはずだ。

 

 

「嫌い」という感情には凄く力がある。

 

この力をポジティブに使える場合は問題ないが、ネガティブに作用してると感じるならば少し意識した方が良いことがある。

 

「嫌い」と言う感情は、反作用的に発生する感情だと思える。

 

一度芽生えると、その量や大きさに支配されがちになるが、ここは冷静に数学的に対処すると良いはずだ。

 

作用する力はベクトルとして働いている。

 

力の大きさや量だけに目を向けるのではなく、向きがあることを思い出そう。

 

ネガティブな「嫌い」は、向きを変えるとポジティブなものに変えていける可能性が大なのだ。

 

「嫌い」や「憎い」は、できれば無い方が良い。

 

生きることは、『プレゼンテーション』し続けること!

『プレゼンテーション』ということばを多くの人はビジネス用語だと感じているだろう。

 

学生だと発表の場を思い浮かべるかもしれない。

 

ステージ上で資料やデータをスライドで示しながら聴衆にアピールすることをイメージし、そのプレゼンテーションの達人として未だに頂点に君臨してるのが故スティーブ・ジョブズだ。

 

wikipediaにはこのように書いてある。

 

作品、計画提案、研究成果、開発商品などの情報を、聴衆に対して発表し伝達することの意味であるが都市建築分野では、計画の提案内容に関するプレゼンテーションをクライアントや関係者(影響を受ける人たち)に対して行う場合が多い。

 

プレゼンテーション(presentation)は名詞で、動詞はpresent。

 

日本語でpresentは、贈り物を意味するプレゼントを真っ先に思い出すが、この単語は実に多様な意味を持っていて、元々の日本語には似た概念がないかもしれない。

 

present

 

 

主な意味

 

現在の、現…、今の、今日の、当面の、居合わせて、出席して、参列して、あって、忘れられないで

 

 

コア

:   存在している、人の前に差し出す

https://ejje.weblio.jp/content/present

 

 

 

 

 

プレゼンテーションは、積極的な能動性が求められることばのようだ。

 

小さい子供が、「遊びたい」を始め「〇〇したい」と表現するのは立派なプレゼンテーションであることは言うまでもなく、「〇〇したくない」ですら、そこに積極性があればプレゼンテーションと言える。

 

しかし、この態度がプレゼンテーションとして通用するのは期間限定だ。

 

なぜなら、プレゼンテーションは、

 

①積極的な自分の気持ちや意志を伝える、ということと、

②その話を聞かされる相手にどのように伝わるか、

 

の二つによって構成されるのでこの二つが意図したように両立しなければプレゼンテーションは失敗となるからだ。

 

子供のプレゼンテーションの成立が期間限定になるのは②の要素が無いからだ。

 

このように考えると、プレゼンテーションには心理学的な要素が大きく関係することが分かる。

 

 

 

そこで、心理学に目を向けると、プレゼンテーションに心理学が欠かせないように、心理学にもプレゼンテーションが密接に関係してることが見えてくる。

 

心理学は、大雑把な言い方をすると元々は「心を病んだ人」を対象にしながら発達してきた。

 

しかし、その応用範囲が拡大するにつれて、心理学も「誰に向けてのものか」というプレゼンテーション要素が求められるようになり「対象者」という概念が持ち込まれるようになってきた。

 

 

そして現代では、病人だけではなく健康な人も含めた全ての人が対象になっていると言って良い。

 

なぜなら、全ての人が悩みやストレスやトラウマを抱えて生きているからだ。

 

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病人を対象としていた心理学は、病の原因を心が抱えてる重荷であると考え、その重荷が何であるかを解き明かすことや、その重荷がどのようなメカニズムで心にダメージを与えるかの解明が目的化していた。

 

そして、そのうちの一部は重荷の正体が分かることで重荷が消えることもある。

 

しかし、多くの場合、重荷の正体が分かっても、あるいは、重荷が心に作用するメカニズムが解き明かされても、重荷が残っている限り、何の解決にもならない。

 

そこで、生まれたのが人間性心理学というジャンル。

 

「なぜそうなったのか」を解き明かすだけではなく、「これからどうするのか」こそが目的だとする心理学。

 

 

 

数ある人間性心理学の中でも最近人気なのが「アドラー心理学」。

 

アドラー心理学の真髄は『楽観主義』に近いかもしれない。

 

ただ楽観主義と言うと、「いいかげんでテキトー」というイメージを受けるかもしれないが、楽観主義は悲観主義とセットで使い分けが大事になる。

 

その使い分けとしてわたしが名言だと思っているのがこれだ。

 

 

そして、日本人の場合は、もう一つセットで覚えたいことばがある。

 

 

佐々淳行さんが言った「危機管理」の部分は「プレゼンテーション」と置き換えても良いかもしれない。

 

共通点は、『悲観的に準備し、楽観的に対処する』。

 

この共通点って、ことばにするとわかりやすいが具体的にどうするのかと問われたら、答えは非常にばらけるだろう。

 

この答えは、頭で考えるよりも、経験や体験がものを言う。

 

経験や体験は、「疑似」でもリアリティを感じられれば構わないはずだから他人の経験や体験は大いに参考になるはずだ。

 

だから、スティーブ・ジョブズを意識し真似ることは悪くないが、聴かされてる側がジョブズのモノマネだと感じたら失敗で、そうなると聴衆は話の中身には耳を傾けていないだろう。。

 

 

人間関係を、コミュニケーションと呼び、その重要性には気付いていても、コミュニケーションと呼ぶと「give&take」の世界観の「持ちつ持たれつ」の香りが漂うが、人間関係もプレゼンテーション関係と捉えると、「伝えるor伝わる」となる。

 

言いたいことだけ言うと勝手に伝わったと思っていても、プレゼンテーションが失敗してれば、言ったことは全く伝わっていない。

 

こう言うことを踏まえると、一見もっともらしいことを言ってることばの中には、「それってプレゼンが失敗してるんだよ!」と言うものがうかがえる。

 

例えば、

 

 

わたしには、「プレゼンの大失敗の見本」の上から目線の一方通行にしか見えない。

 

このツイートに書かれているのは、伝わらない話をした人が、どう言う仕打ちを受けたが書いてあると感じられる。

 

少し前まで、わたしはこのような態度を「老害」と呼んでいたが、むしろプレゼンテーションの失敗で話が伝わらなかった結果と見る方が的を射てる気がする。

 

 

人生とは何だろうか?

 

重荷を背負った人は必ず直面するテーマだ。

 

 

パンダだってコミュニケーションは取っているのは写真を見ればわかる。

 

では、パンダはプレゼンし合っているだろうか?

 

 

 

 

日本語はハイコンテクストだと言われる。

 

ハイコンテクスト文化では、「言わなくてもわかる」という空気を読むという文化が成立しやすいが、プレゼンテーションはその反対のローコンテクストな文化だ。

 

ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化

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心理学とも接点が深い心の病はハイコンテクストと相性が良いのは、「言いたいことが言えない」につながりやすいからだ。

 

 

日本で生活する日本人は、ハイコンテクストとローコンテクストの違いを意識することなく、振る舞いだけをその時々に応じてなんとなく空気を読みながら使い分けようとしてるだろう。

 

しかし、肝心なところで使い分けを間違うことはあるはずだから、どう振る舞ったら良いかが新たな悩みになる。

 

そんな時に備えて、世の中にはローコンテクストとハイコンテクストがあると言うことを理解しておくだけで心の準備ができるだろう。

 

 

使い分けが難しいと感じるならば、ローコンテクストに振る舞う方が気が楽だ。

 

相手にプレゼンして内容を伝える。

 

相手からプレゼンしてもらい内容を理解する。

 

 

ハイコンテクストに馴染んだ日本人には、プレゼンテーションの場は、度胸試しのような、肝試しのようなものだと感じる人が多いが、それこそが悲観主義に通じる。

 

もし、楽観主義になりたいならば、心の重荷を軽くしたいと思うならば、一事が万事プレゼンテーションを意識することだ。

 

勘違いしてはいけないのは、言いたいことを言うのがプレゼンテーションではないと言うこと。

 

主導権は相手にあるので、伝わるように伝えることが大事になる。

 

だったら、知っておいたほうが良いのが「人間性心理学」。

 

オススメは、アドラー心理学!

 

『再発見』のススメ!

世間の人が何に「おもしろさ」を感じているかを検索して調べて、おもしろい話とおもしろくない話の違いを探ってみた。

 

おもしろさを感じさせるものには、おもしろおかしいという以外にも、「役にたつ」という意味や、「考えさせられる」というニュアンスも含まれることが感じられた。

 

感じ取れたことを箇条書きにすると、

 

・初めて聞く話

 

・知らなかった(忘れていた)ことを教えてくれる話

 

・わかりにくいことをわかりやすく教えてくれる話

 

・驚く話(事実は小説より奇なり的)

 

・感動を伴う話(フィクション、ノンフィクション問わず)

 

・気持ち良い話、表現が上手な話

 

 

などに分類できるという印象を受けた。

 

 

そして、「おもしろくない」は単純にこれらの逆だと言うことも感じられた。

 

・既に知ってる話(どこかで聞いたような話)

 

・わかりにくい

 

・独りよがり(共感が得られない、ノリが違う)

 

・不愉快(ツボが違う)

 

 

わたしが、おもしろいなと感じたのは、既に知ってる話だとおもしろくないと感じるが、既に知ってるはずの話の中に「再発見」が感じられると、おもしろさを感じる人が多いということだ。

 

この「再発見」には二種類があり、一つは新しい(隠されていた)事実が発見されるという場合で、もう一つは事実関係は同じでも視点を変えたり、表現を変えることで、受ける印象が全く変わるということに気付く(気付かされる)場合。

 

「おもしろい」を追い求めると、これまで無かったものを探し続けるか、既にあるものの中に再発見を見つけるかになりそうだと絞り込めそうだ。

 

 

しかし、世間の圧倒的に大多数の人は「再発見」よりも、未知の新しいものに意識が向いていると感じられた。

 

未知に意識を向けるというのは、言うのは簡単だが行うのは難しい、なぜなら既にあるものを知り尽くす必要があるからだ。

 

そこには、さまざまなジレンマが生じるはずで、未知へ意識を向けたいがその準備すらままならない人々は、知らず知らずのうちに後ろ向きな方向に向かい出すかもしれない。

 

それが一連のフェイク(ニュース)だったり、ウソの上に成り立つ詐欺なのではないかと思えてくる。

 

未知を追い求める姿は、一番手争いと同じになる。

 

研究や開発の分野での一番手争いは、イノベーションやノーベル賞に通じるだろうが、ビジネス分野だと先行者利益の独占という方向に意識が向かうだろう、M&Aが流行るのもその一環だ。

 

先行者が利益を独占できるというのは投資の世界でもお約束だから、儲かりそうな投資先に、誰よりも先に飛びつくことが重要だという強迫観念に苛まれやすくなる。

 

そしてなによりも今の世の中は未知の領域に簡単に手が届かないのだ。

 

 

冒頭で、「おもしろい」と感じる条件に、

 

・気持ち良い話、表現が上手な話

 

と強調した理由は、

 

世間の大多数は未知を意識しながらも未知には意識が向かわず、その手前の「おもしろい」に踊らされていると感じたからで、その際のキーワードになると感じたからだ。

 

既にあるものを知り尽くしている人が、表現の上手さを持ち合わせていれば、自身は「おもしろくない」と感じてる既に知ってる話を、踊らされる人は「未知のおもしろさを秘めた話」と思い込まされるだろう。

 

ブログレベルの世界でも、サロンを主催する人とそこに集まるサロン生の間にこの図式が成立していることが感じられる。

 

なぜ、ブログのサロン生のような間違った行動を取るのかというと、「未知」を意識しすぎるからだ。

 

活路を拓くためには、未知の追求しかないと思い込むからだ。

 

純粋に未知に向かって良いのは、ごく一部のその内のほんのひと握りの人だけだ。

 

そういう人は、自分自身が立ち向かっているものが未知だなんて思っていない、出来て当然のこととして取り組んでいるので試行錯誤はあっても迷いはない。

 

試行錯誤が必要なのは全ての人にだが、そこに迷いが付きまとうわたしのような凡人は、「既にあるものの中に再発見」を意識する方が良いはずだ。

 

 

ここまで書きながら、結局わたしが言ってるのはコロンブスの卵みたいな事に思えてきたが、念のために「コロンブスの卵」で検索すると、このことばを知らないという人がそれなりにいることがわかった。

 

検索して実は再発見があった。

 

わたしが思っていた話は、

 

 

コロンブス:「この卵を立ててみて」

 

 

何人もが挑戦したが、

 

 

挑戦者全員:「できません、難しい」

 

 

コロンブス:「こうやればいいんです」

 

と殻の端を割って卵を立てた

 

 

挑戦者:「そんなの簡単じゃん、ずるいよ」

 

 

コロンブス:「何事もやってみせると簡単に見えるんだよ」   

 

 

 

という話だと思っていたが、

 

この話には卵が出てくる前があったのだ。

 

アメリカ大陸を発見したコロンブスは、その功績が賞賛されることを妬まれて、「船に乗っててたまたま見つけただけだろ」と言われて、卵の話につながっていたのだが、この部分は完全に忘れていた。

 

コロンブスの卵も知らないなんてバカな奴がいるもんだと思って調べた結果、自分も差がない存在だと再発見があった。

 

AIやコンピューターがどういう発達を遂げようと、彼らは自ら「再発見」なんてすることはないはずだ。

 

そう考えると、「再発見」は人間の特権かもしれないと思えてくる。

『便利』で『SECURE』の裏に潜む『不都合な真実』!

新しいものをいかに早く取り入れ、ものにするかが、関心の中心になるという生活に現代人は染まり過ぎている、もちろん私も例外ではない。

 

そんな生活は、「便利な生活」と呼ばれている。

 

何事にもトレードオフがあるように「便利」にもトレードオフが存在している。

 

1970年代に一部の科学者が指摘し始めた地球温暖化が政治の表舞台のテーマになったキッカケは、2006年に公開された映画「不都合な真実」でアメリカで副大統領を務めたことがあるアル・ゴアが主演をしてからだ。

 

「便利」には、表裏一体の不都合な真実がトレードオフとして存在していることには現代では大勢の人が気付いている。

 

気象問題だけでなく、人間の健康を含めた生態系への悪影響やダメージは度々話題になるが、顕在化するまでに時間差がかなりあるという特徴がある。

 

今日は、時間差がほとんどなく発生する不都合な真実について話題を集めてみた。

 

このようなテーマを思いついたのはセキュリティについて考えていてだ。

 

セキュリティsecurity)は、住居地域社会国家組織資産などを対象とした、からの保護

一般には保安のことであり、犯罪事故などを防止するための警備全般を指す。

コンピュータ関連の文脈では、特にコンピュータセキュリティを単にセキュリティと呼ぶ場合がある。

金融業界では、出資を募る団体を損害から保護するという意味から派生して、セキュリティが証券を意味する場合がある。

 

 

securityは名詞で、その動詞はsecure。

 

secureを詳しく説明しているブログがあった。

 

secureの意味 分ければ分かる

secureは「心配から離れていること」なんです。

ならば、「安全な、確実な、信頼できる、安定した」や「確保する」、「固定する」「保証する、引き受ける」、「保護する、守る」という意味が全部se+cureの意味でつながります。

 

 

 

本来は、「心配事から離れる」という意味だったセキュリティは、今や「心配事に近づく」あるいは「心配事を引き寄せる」ものになっているような気がする。

 

このことも、気付くと「不都合な真実」に思えてくる。

 

今日のテーマに戻すと、時間差がなく発生する不都合な真実に、secureを追求した技術が関係してるということが上げられる。

 

その技術がマイナーな時期はsecureなのだが、普及してメジャーになった途端に不都合が顔を覗かせる。

 

パソコンの普及とともにコンピューターウイルスが増え、1999年には電子メールを介してウイルスが拡散するという事例が確認されている。

 

以降、コンピューターやネットワークの世界には、「絶対安全」、「鉄壁の防御」という謳い文句はあっても、実際には絵に描いた餅に過ぎないことが増えている。

 

 

新たな自動車盗手口「リレーアタック」を国内で初確認

深夜に白いマスク姿の男がアンテナの付いた機械を民家に向けると、ガレージにとめられたトヨタの高級車「レクサス」のハザードランプが点滅した。防犯カメラには車のドア付近にもう1人の姿が写っており、解錠までわずか5秒ほどだった。

車の所有者の男性(37)によると、車の鍵は自宅2階のリビングに置かれており、車との距離は約10メートル。犯人はエンジンの始動に失敗するなどして逃走したが、男性は「怒りよりも、こんな簡単に盗まれるのか、という驚きの方が大きい」と話した。

 

 

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詳しくは記事を読んで欲しいが、ハイテク犯罪のようで、共犯者の数が頼りだというアナログ犯罪でもある。

 

こうやって手口が分かると実にあっけないが、この手口が認知されるまでは、車を盗まれた人を含めて関係各位(メーカー、警察、保険会社)は誰もが、「何が起きたか分からない」状態だっただろう。

 

便利を求めsecureを高めても、その便利やsecureは悪意を持ってる人にも利用可能な場合があるのだ。

 

最近は便利やsecureの要が通信やネットワークに依存する傾向が強い。

 

善意悪意に関係なく適用されるのが「通信の秘密」で、原点は郵便で、現代では誰の味方かわからなくなっている。

 

 

 

(参考)

ブロッキングの法律問題  弁護士 森亮二 首相官邸         

 

 

技術を駆使したハイテク犯罪のように見えることの中には、要は人力に頼った超アナログであるものが多いかもしれない。

 

 

この銀行の詐欺事件も車の窃盗犯も、事件の計画を立て実行に移るまでの経過を想像すると、すごくアナログな作業の連続であることが想像できる。

 

secureなものには、必ずトレードオフがあり、盲点は超アナログに宿るという不都合な真実が潜んでいると肝に命じた方が良さそうだ。

 

50年ぶりの『ズレの修正』が進行中!

同じ文章でも、通訳と翻訳では表現が異なり、結果として伝わり方にも違いが出ることがある。

 

語学学習に映画を使ったことがある人は、字幕が全く参考にならないと感じることがあるはずだ。

 

そんなことしゃべってないことが、次から次に字幕で流れているということに気付いた人はたくさんいるはずだ。

 

しかし、映画の雰囲気にはピッタリ合っていたりする。

 

同じ文をテストで「訳せよ」と問われて答えたら、とても点数がもらえないであろう訳し方が、よりその場にふさわしい表現だと言うことはあり得るのだ。

 

むしろ実際にはその言ってないことばで表現されてることで、理解が進んだり、気分が盛り上がったりするということがある。

 

しかし中には、表現の巧拙以前に、元の意味を間違って捉えてることすらある場合もある。

 

 

これらは、異なる言語の間で起きると、そんなこともあるだろうと良くも悪くも納得しやすいが、実は日本語のみの世界でも似たようなことは多いのだ。

 

 

 

出版や著作の世界では、本を出す側には3つの立場が存在していて、役割分担と協力の上に本が成立する。

 

3つのうちの2つから先に紹介すると、「編集者」と「著者」だ。

 

編集者は、この著者にこんなテーマで書かせたらきっと売れるであろうという企画を作り出版社内で稟議を上げる、稟議が降りるとテーマに関して著者と打ち合わせ執筆が始まる。

 

この流れとは逆に、著者の側から、こんなテーマで書きたいという企画が編集者に持ち込まれることもある(新人の場合はこのパターンのみだろう)。

 

小説などをイメージするとこの2つの立場だけで充分に機能しそうだが、これがビジネス書や専門書や自伝などの嘘や作り物ではないことがテーマになる場合は、テーマに相応しい著者が選ばれるが、必ずしも自分で文が書けるとは限らないのだ、むしろ書ける方が少ないと言えるのだ。

 

そして、名が売れてる有名人が企画を持ち込んでくることもあるが、多くの場合文を自分で書けるとは思っていない。

 

このような場合に、編集者に時間的な余裕があれば編集者が文を書くが、時間が無ければ別の人物が文を書くことになる。

 

それが、3つ目の立場である「ゴーストライター」だ。

 

ゴーストライターの出番は、クレジット上の著者のネームバリューだけで本が売れるような有名人(著名人、芸能人など)に限るか、または出版社が了承する位の部数を著者が買い取ることを条件に成立する。

 

 

こういう話が、実例を交えて詳しく書いてあるのが「ゴーストライター論」で、ゴーストライターが何を考え、何を望んでいるかということにも触れている。

 

 

 

 

 

私の興味は、編集者の役割にある。

 

きっかけは、最近売れてる本の編集者が「カリスマ編集者」などと呼ばれ、自ら露出を求めるようになったことにある。

 

 

 

このツイートを読むと、青山学院大駅伝部の原監督が思い出される。

 

世間ではきちんと理解されてないが編集者とは、指導者なのだとわかる。

 

だから、「上手にリードするという能力」が要求される。

 

それは、「ことばの使い方の能力」とイコールだ。

 

 

 

ことばが上手に使われるとは、教え導くというよりも、試行錯誤のヒントの提示なのかもしれない。

 

相手が具体的に存在するならば、その相手の立場を理解し感情移入した上でのヒントの提示と、最初から想定している正解を押し付ける指導とでは伝わり方が違うのは当然だろう。

 

書く人/編集する人、そしてメディアが果たせる役割とは──編集者 若林恵×クラシコム 青木耕平対談 前編

「書くうえでやめてほしい2つのこと」を伝えてあるのですが、ひとつは「書きたいものを書く」こと。もうひとつは「みんなが読みたいであろうものを書く」ことです。

では、どうするか。なによりも「自分が読みたいものを書いてほしい」と。

 

今後は「ブリコラージュできる人の活かし方」が大きなテーマになるはずです。加えて言うなら、そういった人がスキルを向上させると、センスが壊れてしまうという逆相関の関係もあるのではと考えています。

 

あくまで僕の見解なんですが、センスって「好き嫌いにおける一貫性のある文脈」だと思っているんですね。今までの世界はモノの有無が重要だったので、モノが作れるのか否か、あるいは作業ができるのか否かにおいては、早い段階でスキルを身につけて好き嫌いを克服させるというイニシエーションが発生していた。

 

ここでおそらく、みんなに備わっていたはずのセンスが破壊されてしまった。

 

だから、現在は「好き嫌いを克服できなかった人」こそがセンスを維持できていて、ブリコラージュもできていると思うんです。

 

 

※ブリコラージュ=手近なものをなんでも利用すること

 

 

 

「好き嫌いを克服した人」とは、いわゆる教科書的な大人だ。

 

今風に言うならば、「好きで社畜をやっている人」と言っても良いだろう。

 

翻って、「好き嫌いを克服できなかった人」とは、元々持っていた気持ちやこだわりを忘れてないと言えそうだ。

 

しかし、「好き嫌いを克服する」なんてそう簡単にできることではない、社畜を喜んでやっているように見える人だって本当は嫌かもしれない、だとすれば、やらざるを得ない事情が社会の側にあるはずだ。

 

誰もが嫌なシステムがなぜ続くのか?

 

このなかなか動かない社会システムと「ことば使い」の移り変わりに共通点が感じられる。

 

はるかぜちゃんの「ぼく」は日本語の進化? 専門家解説がかなり深い

冒頭で春名さんが、「違和感をもつお客さんのために」と、なぜ「ぼく」を使うのか、その理由を説明しました。

 

春名「『ぼく』という一人称は、小学生のころからずっと使っています。女性は一人称が『わたし』しかないですよね。一方で男性は『おれ』『ぼく』『わたし』を使い分けます」

 

たしかに男性は、どの一人称を使っても違和感なく受け止められます。

 

春名「男性が『わたし』と言う時は、すごくあらたまっていることが多いですよね。『女性はあらたまった言葉しか使えないのか』と思った時に、『ぼく』という一人称は、目上の方にも同年代にも失礼なく使える言葉で、ぼくにはちょうど良かったんです。それから気に入って使っています」

 

 

 

平田「僕は大阪大学で医療コミュニケーションを教えています。いま、検査入院するおじさんたちから『女性の看護師さんに子ども扱いされた』というクレームがよくくるんです。でもこれ、仕方がないんですよ。女性が男性に何かを命じたり指示したりする時の日本語って、まだ確定していないんです」

 

平田「日本語の二千数百年の歴史の中で、女性が男性になにかを命令したり指示したりすることって、お母さんが子どもに指示する以外なかった。だから入院したおじさんたちは『子ども扱いされた』と怒るんです」

 

 

平田「女性が男性になにかを命令したり指示したりすることって、お母さんが子どもに指示する以外なかったのに、雇用機会均等法ができて、社会は変わった。言葉の変化は、だいたい社会の変化から50年くらい遅れると言われています」

 

社会が変わり、言葉もそれに対応して形を変えてゆく。そのタイムラグが50年。

 

 

50年かかって「ズレた変化が一致」した過去の事例として上げられているのが、

 

平田「たとえば、明治維新が1868年に起きて、四民平等とか身分を超えた恋愛とか、努力すれば出世できる世の中にはなったんだけど、ひとつの言葉でラブレターも書けて政治も書けて、ケンカもできるようになった『言文一致』は、だいたい1910年前後です」

 

 

平田「夏目漱石が1907年に朝日新聞社に入社し、新聞小説を連載しました。当時の新聞小説は、お父さんが子どもに音読して聞かせるような、音としても分かるものじゃないといけなかった。そして最終的に言文一致が完成したと言われています。だから、社会の変化と言葉の変化には、だいたい50年くらいかかるんです」

 

 

そして、現在進行中のやっと動き出した「ズレの修正の動き」とは、

 

平田「いま小学生の先生は、子どもを全員『さん』と呼ぶんです。『君』『ちゃん』と男女で分けずに。でも最近気付いたんですけど、お父さんやお母さんのことは、『○○ちゃんのお父さん』『○○君のお母さん』と呼ぶんです。ほんと、日本語の混乱期です」

 

 

春名「はい。ぼくのクラスに自閉症の『だいちゃん』という男の子がいて。ぼくが『ちゃん付け』に違和感があったという話を知人にしたんです。その知人も昔、同じことがあったらしくて」

 

平田「そうそう。障害者にだけ『ちゃん付け』というのはおかしい。クラスの中で背が小さい子にだけ『ちゃん付け』するようなものですからね」

 

自分のことをどう呼ぶのか。

相手のことをどう呼ぶのか。

 

毎日何げなく使う言葉たちですが、思っているよりも、大きな問題が潜んでいました。

 

 

 

今日取り上げた話は全て、ことばの使い方に関する違和感や変化に関する話だったが、ひとつひとつを別々に取り上げるとただの流行り廃りという一過性のものにしか感じないが、共通点があることに気付くと、50年かかってやっと「ズレを修正」に向けて動き出した変化があることに気付く。

 

感度の良い人だけがこの変化に気付いてる。

 

時流に乗ってるけど、この変化に気付いてない人はまだまだ大勢いるはずだ。

 

起こることは避けられないこと。
Чемубыть, тогонеминовать.

起こるべきことは起こる。必然的にそうなるようなことは、どうやっても回避不可能。

 

 

https://ja.wikiquote.org/wiki/ロシアの諺

ビジネスを論じることは、オタクを論じることに近く、ほとんどサブカル化している!

情報の集め方は人それぞれだし、そこに個人の趣味嗜好も入り込むので千差万別のように思われるが、実際にはどうなのかを調べてみた。

 

新聞や雑誌やテレビのような既存メディアの場合、馴染んだ習慣で無意識のうちに選択が固定化されることが多いかもしれない。

 

文字の場合、内容は全く同じだとしても使われるフォントやレイアウトの違いは好き嫌いに通じることがあるが、これは慣れの問題のなせる業だ。

 

 

では、ネットメディア上の選択はどのように行われてるのだろうか?

 

 

リンク先の記事には、

 

端的に言えば、2015年にヤフーニュースで書いた上記の記事の通りだが、2019年の今となっても「ヤフージャパン、ヤフーニュースの一人勝ち」の状況に違いはない。「SmartNews」や「LINE NEWS」、あるいは「dマガジン」などのニュース配信系サイト・アプリが興隆している現在でもなお、一つの記事あたりの読者数、掲載された広告あたりの反響数では、他のニュースサイトやアプリを圧倒的に凌駕(りょうが)しているのがヤフーである。

 

この記事によると、インターネット上のニュース配信の閲覧(PV数)の6割以上がヤフーニュースだと書いてある。

 

自分のアンテナに引っかかる情報を探すだけならば自分の習慣を変える必要はないが、世間が何を見てるかを知りたいならばヤフーニュースは外せないことになる。

 

ちなみにわたしはヤフーはトップページのニュースだけは目を通すがその程度だったので少しヤフーニュースを見る習慣を付けてみたい。

 

 

一方、純粋に趣味嗜好に焦点を絞る場合は、自分の関心事以外に目を向ける必要はない。

 

その度合いが高まると、趣味嗜好の域を越え「オタク」の世界に入りだすが、そんなオタクは独自の世界を形成するが、そんな世界も緩やかな変化が起こっている。

 

一番お金を使っているのは“何オタク”? 矢野経済研究所が調査

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「自分を何のオタクだと思うか、もしくは人からどんな分野のオタクだと言われたことがあるか」という質問への回答を基に、各分野のオタク人数の拡大推計処理(母集団拡大集計)を行った。

 

第1位は「漫画」で約640万人、2位は「アニメ」で約598万人、3位は「アイドル」で約280万人。16年、17年度の調査と比べても、漫画、アニメ、アイドル、オンラインゲームなど、上位を占める分野にはあまり変動がないという。

 

ところで、オタクの生態はわからない人にはわかりにくいので、言葉は聞いたことがあるが意味はそんなに理解していなかったことを説明していたツイートを参考までに載せておきたい。

 

 

オタクは、その行動が研究や調査の対象になりやすいのは、その分析がビジネスに結びつくからだろう。

 

しかし、純粋に取り組む場合もある。

 

 

これまでに出ているオタク論とは一線を画す本のような気がする。

 

ユニクロを告発する本を書くために、ユニクロに潜入しようとバイトして働き続けた横田増生さんを思い出す。

 

著者の大泉さんはオタクの生態を知るために、郊外型書店DVDレンタル店に10年バイトで勤め、取材を続けた結果の集大成がこの本なのだが、是非読んでみたい。

 

 

 

 

情報の入手や、入手した情報をどのように活用するかという、受け手の行動や生態の一部に触れてみたが、そこには時代の変化が感じられる。

 

しかし、変化は受け手だけに起きてるわけではない。

 

受け手と発信側は車の両輪なのだ。

 

ライターが“読モ化”している件について【決定版】

この書き手と読者の近接、共犯関係を「ライターの“読モ”化」と表現すると、現状におけるモヤモヤが晴れ、少しは見通しが良くなる気がする。

 

従来のライターが「物書き」の中に位置付けられるのに対して、読モライターは広い意味での「芸能」ジャンルの文脈に位置付けられる、と考えられるからである。

 

 

 

 

他に「バンド化」や「DJ化」という表現を見ることもある。

 

 

人が集まる場や、人が集められる企画が、その趣旨やテーマとは無関係に芸能的になりつつある。

 

 

 

一見無秩序なことばかりが起きているように見える。

 

人が集まるところにビジネスが生まれ、そんな場を中心に利害や対立の輪が広がるが、あらゆる分野でオタク化が起きてると理解すれば、複雑で訳のわからないことに思えていた数々の出来事が、シンプルな理屈の上に成り立っていたことが見えてくる。

 

世の中には、たった一つの真実や正しいことがあるというのが従来型の考え方だとすると、オタクはそのアンチテーゼなのだ。

 

真実は一つではなく、多様な解釈が成り立つというのがオタクの本質なのだと感じられる。

 

これまで、「それは矛盾する」という理由で封印していた考え方や感じ方が、多様性を受け入れると許容できることに気付いた人々が、「自分はオタクだから」と言うことで、自分を解放していると考えると、この流れは止められないだろう。

 

時代のキーワードとして「多様化、多様性」はよく聞くが、そんな多様化や多様性は最初は「オタク」として顕在化するが、肝心のオタク自身がまだ発展途上中なので、このような意見が出てくる。

 

 

日本は、世界のオタクをリードしていて、いろいろなものがガラパゴス化する中でオタク分野のみが世界に通用してることを忘れてはいけない。

 

 

ビジネスや世相を論じることと、オタクやサブカルチャーを論じることが、顕著に重なり始めている。

 

そこには、「閉鎖性」という共通の敵がいる。

 

そんな話が次の記事に書いてある。

 

 

リンク先の記事には次のような表現がある。

 

日本の場合、大手の出版社やTV局といった権力のあるIPホルダーがインターネットに懐疑的で、コンテンツを囲い込む傾向にある。

 

そもそも日本のITにおける“鎖国”は、島国的な日本人の国民性からきている閉鎖性ではなく、大企業が独占的な力をもって新しいものをブロックしていたという閉鎖性なんです。

 

 

 

多様化を許容する延長線上に存在するのがオタクなのだが、そこに利害が絡むと閉鎖的になる。

 

この閉鎖性が、日本独自のガラパゴスやブラックの正体でもあるはずだ。

 

だとすると、現代の日本社会の中で息苦しさを感じてる人は自覚の有無に関係なくオタクなのかもしれない。

 

何に関するオタクなのかはともかく、オタクという人種は野に放たれて自由の中で生きるべき人種なのだ。

 

それなのに、自由以外(例えばお金)に答えを求めてるが故に息苦しさが拭えないのかもしれない。

 

自由とは、空気のようなものであり、本当はすでに持っている(与えられている)ということを思い出した方が良い。

 

きっと、思い出すだけで、自由になれるはずだ。