違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

高血圧と日本人の関係!

タイトルが大げさだがわたし自身の話。

 

これまで断片的に持っていた知識や経験の数々が、最近ふとした拍子に全部つながったような気がしたので整理してみた。

 

おそらく、多くの人に当てはまるし、参考になると思っている。

 

当てはまるであろうと思える理由が、平均的な日本人は、何事にも取り組む場合は、まじめで一生懸命になるという特質を持っているから。

 

そして、この特質は一見反対の「ふまじめでダラシなく」振る舞う場合にも発揮されると気付いた。

 

まじめで一生懸命とは緊張することを意味する、つまり高血圧側に作用する。

 

しかし、日本人の場合「ふまじめでダラシなく」振る舞う時も一生懸命なのだ。

 

つまり、緊張の反対語のリラックスが日常生活に本当に少ないのだ。

 

若い時には許容範囲に収まっても、30代の半ばを過ぎると悪影響はどんどん広がる。

 

運動や筋トレが体に良いと言われる、当然高血圧にも良い効果をもたらすと言われているが、筋トレを一生懸命してる人の多くが高血圧に悩んでいる。

 

極端な事例かもしれないが紹介すると、

 

 

少し身近な事例としては、

 

 

体に良いと言われることも一生懸命やり過ぎると、体に悪いことがある。

 

筋トレの場合だと、トレーニングの仕方や呼吸法も関係するが、それ以上にトレーニングをしてない時間の過ごし方が問題になるのだ。

 

その境目に、『まじめで一生懸命』という性格が関係する。

 

まじめで一生懸命な人は、常に体に力が入ってしまうのだ、無意識のうちに。

 

常に力んだ状態になる、筋肉に力がこもってしまう場合もあれば、悩みやノルマがストレスとなったり、好きでやってることでさえ過剰な目標を設定するとストレスになる、そんなストレスも無意識のうちに体に力を入れさせるだろう。

 

現代人はキレやすいと言われるが、これもストレスなどで力むことが原因での高血圧によって引き起こされているかもしれない。

 

次のツイートは、楽器の演奏に関しての力みがテーマなのだが、

 

 

このような世界でも、力みが問題になる場合は、力を入れるべき筋肉への入力がされず、力を込めてはいけない部位への入力がされることによって力みが起こると解説されている。

 

同じことは、野球のイチローも言っている。

 

人間の体は、筋肉のように意思でコントロールできるものと、内臓のように意思ではコントロールできないものがある。

 

この意思ではコントロールできないものを自律神経と呼ぶ。

 

そして、自律神経の中にはアクセルに相当する交感神経と、ブレーキに相当する副交感神経があり、この二つのバランスが大事なのだが、現代人は交感神経が優位だと言われている。

 

それに加えて日本人の場合、まじめで一生懸命という特性もプラスされるので、以下のツイートようなことが起こりがちだ。

 

筋肉も自律神経も、アクセルが踏まれっぱなしだから、体がおかしくなるのだが、その場合ほぼ確実に高血圧が関係している。

 

高血圧の原因は、日常生活の無意識にあるのだ。

 

何か特定の原因があるというよりも、全てが原因になってると思った方が良いかもしれない。

 

このツイートの主は透析を受けてるのでそのせいかもしれないが、普通は高血圧の場合は交感神経を刺激しそうだが副交感神経が刺激されている。

 

 

早朝高血圧というのは、睡眠中にリラックスできてないことを意味してる、つまり寝てる間も力んでいるのだ。

 

 

 

 

まじめで一生懸命というのは、多くの人は美徳だと思っているだろう。

 

わたしもそう思っていたが、もしあなたが高血圧ならば、まじめで一生懸命というのは、あなたにとってはマイナスに作用してると気付いた方が良いかもしれない。

 

そして、もっと大事なことは、じゃあ反対のことをしてみようと、「ふまじめでダラシないこと」をするのはやめた方が良い。

 

きっと、「ふまじめでダラシない」ことにも血圧を上げながら一生懸命取り組むからだ。

 

意識すべきは、「力を入れないこと」。

 

力が入っていると、呼吸が浅くなり、血流が悪くなり、体温が下がる。

 

ごく普通の日常生活のほぼ全てが見直しの対象になるだろう。

 

 

試行錯誤を繰り返しながら、自分に合った方法を見つけることにならざるを得ないだろうが、呼吸法は共通すると思えるので紹介する。

 

 

高血圧は、大事に至る前に向き合って対策した方が良いと思う!

競争しないという戦い方!(2)

リアルビジネスの世界では、競争しないという戦い方は定番のテーマの一つで、ニッチビジネスなどと言われていてお馴染みだが、これも分かっているようで分かってないことがありそうなので、備忘録を兼ねて整理してみたい。

 

リアルビジネスの場では、競争しないという意識や発想はまだまだマイナーなものだが、プライベートの処世術としては拡大傾向にある。

 

 

競争しないという戦い方が目指すのは、『強い者が生き残り、弱い者が滅びる』という世界観ではなく、『適者生存』に近い『共存共栄』という世界観だ。

 

ビジネス的な言い方をするならば、戦略や戦術と市場(マーケット)が異なることを目指すことで棲み分けを成立させることだ。

 

GAFAMのように、全てを独占するかのような勢いがあったとしても棲み分けは可能だと思えればこその考え方。

 

弱肉強食の自然界に多種多様な生き物が生息できるのは、どんな種でも最小単位の生息域を持ってるからだと言われてる。

 

生態学では、そんな最小単位の生息域のことをニッチ【語源はラテン語のnidus(巣)】と呼ぶ。

 

そして現在では、このニッチというワードはビジネス用語としても使われるようになった。

 

競争しないためにどう生きるかのヒントの一つはニッチにあるような気がする。

 

今回はニッチについて備忘録的に整理する。

 

ビジネスにおいての競争では大きく二つの要素が問われる。

 

1.ヒトモノカネ

 

2.オリジナリティ

 

世界に目を向けるならばイノベーションなんて要素も問われるのだろうが、日本人が日本で日本語で生きていくならば、この二つの要素に絞り込めるだろう。

 

 

競争しないということの活路をニッチに求める場合は、1.のヒトモノカネでは勝負できないが、2.のオリジナリティでは勝負できるということが前提になる。

 

オリジナリティでは負けるもしくは無いのに、その後で根こそぎ持っていくというのが、日本の優良大企業の得意技だ。

 

今となっては昔の話になるが、家電業界ではSHARPやSANYOが新商品を出し市場を顕在化させた後で、松下電器(現Panasonic)がパクリ商品をより高級に仕立て上げて市場を奪うということを得意にしていた。

 

だから松下電器はマネした電気と呼ばれていたのは有名な話だ。

 

昔話だが教訓としては生きている。

 

オリジナリティがあっても、簡単に真似されるものではダメなのだ。

 

真似をされるのは、コストと市場(規模)が関係する。

 

真似をするために特殊な技術や技が必要ならば、コスト的に手を出しづらいものになる。

 

また、市場が小さな商品だと市場を独占しても規模が小さいため真似をするメリットがなくなる。

 

 

最近は価値観の多様化が広まったせいだろうか、小さな市場の顕在化が目立つようになっている。

 

私たちの生活の身近な尺度で見てみると、

 

テレビの視聴率が10%と聞くと、ヒット番組だとはとても思えないが、それでも1000万人以上が見てるということになる。

 

小説やCDがベストセラーやヒットと言われると、昔だったら100万部や100万枚を意味していたが、最近では10万部や10万枚でも立派なベストセラーであり、ヒット曲と言える。

 

SNS等でフォロワーが1万人いたら立派なインフルエンサーと言って良いかもしれない。

 

基準をどこに置くかで、市場規模の評価が全く違ってくることが分かる。

 

インターネットという括りで日本を見ると、向こう側には1億2000万人がいるような気がしてくる。

 

 

例えば、わたしの場合は、ブログを書き始めたばかりの頃は自分に自信がないから誰も読まないだろうなと思っていたが、読んでくださる方が出てきたことが分かると、市場規模に対する感覚が修正されて行った。

 

そして、わたしの中では一つの基準として日本人の1万人に1人が分かってくれたら合格だと思いながら書くようになった。

 

1万人に1人というのは、リアルな人間関係に照らし合わせると、自分の直接の知り合いの全てからNoと言われる規模かもしれない。

 

でも1万に1人というだけでも日本全体に分かってくれる人が1万人以上いることになるのだ。

 

このぐらいの市場規模を想定してオリジナリティを発揮できれば、真似をされてもパクられてもマイナスは何もなく、見事に棲み分けが成立すると思えてくる。

 

このくらいの市場規模を想定しての行動は、泰然自若としてマイペースな印象を与えるはずだ、実際には迷いながらであっても。

 

こういう印象を周りに与えることができれば、自然と競争しないという戦い方になっていくはずだ。

 

 

ところで、ニッチというのは誤解も招きやすいという特徴がある。

 

その誤解は、禅問答的でもある。

 

ビジネスとしてのニッチを考えると、小さな規模で、差別化すると捉えがちだが、ここは語源に戻ると分かりやすい。

 

規模や差別化という違いではなく、あくまでも違うのは生息域

 

要となる考え方は、その生息域を場所としてエリアとしてどのように定義するかであり、その生息域で生きている種をどのように定義するかだ。

 

この生息域に関する定義は、簡単に敵の侵入を許すものであってはならない。

 

この定義の仕方こそがオリジナリティになるはずだ。

 

ニッチについて考えるときは、生産性や効率は一切無視することが大事。

 

生産性や効率こそが、敵(大資本)が得意で、そこが付け入る隙なのだから。

 

現代人のジレンマでありパラドックスは、ニッチこそが居場所であるにも関わらずに、生産性や効率を中途半端に求め絶滅に瀕してることだと言える。

 

今日はニッチについての考え方を披露したが、競争しない戦い方にはニッチ以外にもあるのでまた続けたい。

 

 

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競争しないという戦い方! (1)

時間、お金、ヤル気、この3つが揃わないからモチベーションが上がらないという言い訳がある。

 

できないことや、やろうとしないことを正当化する場合に必要になるのが言い訳。

 

 

言い訳が生まれる状況には、言い訳を言う人と、言い訳を聞かされる相手、そして場合によってはその場に第三者がいることもあるだろうが、一定の当事者が存在する。

 

つまり、コミュニケーションなのだ。

 

言い訳は、言いたいことであるとともに、聞きたいことでもある。

 

そして、時には、「言え」、「聞け」と、強制的でもある。

 

言い訳が生まれる環境では、不思議なことが起きていることに気付く。

 

言い訳が生まれる場には、上手く行かなかった何かが起きている。

 

その、上手く行かなかった理由や説明が言い訳となるが、言い訳の多くは、説得しようとするものであり、納得させようとするものになりがちだ。

 

純粋に個人的なテストや受験のようなことですら、相手を見つけて言い訳をすることがある。

 

言い訳というよりも、同情や共感を求めてるように見える場合もある。

 

こういう時には、言いたいことがたくさんあるような気がするものだ。

 

 

言いたいことがたくさんあると思うことは、誰にでも経験があるだろう。

 

そして、よくよく考えると、言いたいことがたくさんあるのではなく、自分の気持ちが乱れて回復できてないだけだったと、後から気付く。

 

自分の目標に向かっていることの多くは、自分一人で完結しないことが多く、そんなつもりがあっても無くても競争相手が存在する。

 

言いたいことがたくさんあるような言い訳をしたくなる時は、見えてなかった競争相手の姿を感じ、その相手に比べて自分が劣っていたことを実感した戸惑いがあるとともに、そのことは織り込み済みで対処出来てるつもりだったという勘違いに気付かされた瞬間でもある。

 

しかし、そこまでは分かっても、じゃあどうすれば良かったのか、何が足りなかったのかは、分かるようで簡単には分からない。

 

それに加えて、それまでに費やした時間やエネルギーを無駄にしたと感じるから言い訳をしたくなるのだ。

 

このような経験を重ねると、言い訳をしないで済む生き方をしたくなる。

 

どうすれば良いかは二つしかない。

 

  1. 競争相手をしっかりと理解し、油断しない
  2. 競争相手を作らない

 

仕事やビジネスでは、1.を意識して行動するが、これは相手も同じ気持ちなので上手く行かせるのは簡単なことではない。

 

だとすると、残された方法は一つだけで、敵を作らない(少なくとも自分からは)になるが、勝手に自分を敵にする人に挑まれるかもしれないので、そういう場合には、誰とも戦わない、競わない、という方向性を見つけるしかなくなる。

 

 

競ったり、戦ったりするのは、比較して優劣をつけようとするから。

 

そんな気持ちは、完全にゼロにすることは難しくても減らす工夫が大事になる。

 

 

競争は負けるとダメージを受けるが、勝った方も疲弊するというデメリットがある。

 

今日の話はプロローグ。

 

競争しないという戦い方は、言い訳から生まれるような気がする。

 

 

言いたいことがたくさんありそうなので、続編を書いてみたいのでタイトルに(1)と入れておく。

 

 

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役割分担を演じ続けるか、自分自身を出し続けるかという選択!

個人で勝負するか、組織に属して勝負するか?

 

組織に属しても、組織内での戦いがあると考えれば、結局個人で勝負することになるが、お客様目線で考えると、個人の勝負も違って見えてくると言う話をしてみたい。

 

 

組合という仕組みというか制度がある。

 

法的な定義もある組織体だが難しい説明を抜きにすれば、企業や業界などの所属構成員から費用を徴収するかわりに、企業や業界に利益を誘導する組織。

 

日本がドメスティックな存在だった時には、組合という形態は有効に機能していたが、グローバルな構成員の一つになると、時期でいうと21世紀になると同時頃と思えば良いだろうが、組合よりも株主が影響力を行使するようになった。

 

 

組合にしろ株主にしろ行なっていることは、利益を誘導するために人や組織を活用するという知恵比べで、武器は法律だ。

 

利益を誘導するための知恵比べには、他にプロモーションという活動があり、これは組合や株主を含めての全ての人が活用できるものだ。

 

プロモーションと呼ぶと広告宣伝の感じが強いが、現代ではプレゼンテーションと印象が近い。

 

プロモーション(≒プレゼンテーション)と呼んでいるとあまり感じないが、それはセールスであり、営業であり、売込みなのだ。

 

少なくとも20世紀の日本では、セールスと営業と売込みは質的には同じだった。

 

しかし、いつの頃からか営業という肩書きを持つ者は「あなたがやってるのはセールスであり、売込みですよね」と言われると、不快感を示したり怒り出すようになったと言われる。

 

つまり、セールスや売込みという行為がいつのまにか営業よりもランクが低い行為になってしまったのだ。

 

たしかに、セールスや売込みには詐欺や押し売りのニオイがするようになったと感じる一方で、やってることは同じだとしても、それがアドバイスや上手な説明と受け取ってもらえると、セールスや売込みは心地良いプロモーション(≒プレゼンテーション)に変わってしまう。

 

だから、その逆もありうる。

 

例えば、大人気の実演販売のプロが直接自宅を訪ねてきたら、顔を知っていても、話術がいかに巧みであっても、気持ち悪いとしか思えないだろう。

 

セールスや売込みが不快なのは、

 

  • 求めてないのにされる

 

  • 直接される

 

からだと言えそう。

 

 

そうすると、不快感を取り除けば良いことになるので、次のどちらかがあれば良いと思える。

 

  • 求めてる時(タイミング)に

 

  • 売込みやセールスを直接されない

 

これらを満たすのは店員とのコミュニケーションが最小限で済む方が良いので、小さな店舗よりも大きな店舗が都合良く、精算時だけのコミュニケーションで済むスーパーやコンビニも便利で、それ以外の店舗の場合は指名買いされる商品を準備してなければお客は入りづらいだろう。

 

ネット通販が利用されるのは、価格が安いと言うよりも対面でのコミュニケーションが必要ないからだとも思えてくる。

 

ところで、以上は、商品を中心にした話だったのだが、セールスや売込みの世界では、決して競争力の高い、指名してもらえるような商品を売ってるわけではないというケースが多い。

 

だからだが営業の世界では、自分自身を商品にしろ、と教えられる。

 

昔の金融機関はこれを実践していた代表格だった。

 

 

さて、ここからが本題なのだが、人生100年時代といわれる一方で年金は当てにできないと言われるならば、私たち一人一人が一生涯何か売れる商品を扱うか、自分自身を商品にするしかなくなる。

 

一番望ましいのは、商品が何であれ、指名してもらえるものであることだ。

 

指名してもらえるために必要なこととしては、

 

  1. 圧倒的に商品力がある
  2. 実際には売込みやセールスであっても、アドバイスやお役立ち情報の提供として展開する
  3. 自己肯定感を高く持つ(自己肯定感が低い人の周りには望ましくない人しか集まらない)
  4. 技術や施術のレベルが高い、又はオリジナリティが高い

 

 

などがあるが、これらは全て自分の側でコントロールできることばかりであるが、実際に指名した人の理由であるとは限らない。

 

指名されることが重要な風俗の世界でも大きなテーマだ。

 

 

やっぱり、錯覚させることが必要なのだろうか?

 

勝手に錯覚してくれるのは構わないが、錯覚を狙うことは割り切っても気持ちは良くないという話が次のツイート。

 

 

その記事には、こう書かれている。

 

自分なりに、試行錯誤したり、

 

考えた結果。

 

私のプレイやサービスに会いに来るお客様じゃなくて、

 

私に‼︎会いに来てくれるお客様を増やせば良いんだ‼︎

 

 

って、いう事に気付いたの☆

 

それから、写メ日記の書き方を変えたりして、

 

今に、至る、、

 

 

 

 

って、いう感じです(*^^*)

 

 

 

指名される存在として頂点にいるのが芸能人や有名人だが、そこをお手本にすると、コピーを目指すことにつながりやすくなり、どんどん自分自身から遠ざかるかもしれない。

 

指名される人には二通りの人がいる。

 

自分自身を前面(=全面)に出す人と、自分が果たすべき役割を理解しそれらしく振舞う人の二通りだ。

 

 

どちらが良いとか悪いとかは簡単には言えそうにはないのは、結果的に上手く行かなければどちらを選んでも一緒だからだが、自己肯定感という観点で言うと、自分を前面に出した方が幸せには近い気がする。

 

役割を演じて上手いこと行っても、そこに自分自身が無ければすごく疲弊するだろう。

 

そう考えると、役者って本当に大変だと分かる。

 

自分に合ってればどちらでも構わないだろうが、仕事とプライベートはキッチリ分けたいと考えるタイプの人は、仕事なのかプライベートなのかが曖昧なことを選択するという方法もあることを覚えておいて損はないだろう。

 

自己肯定感の取り戻し方!

子供に限らず大人でも、そして年齢に関係なく、発達や成長に必要なことが自己肯定感で、自分のやってることを信じる気持ちや、やってる自分を信じる気持ちを、肯定的に捉えられるか捉えられないかが重要な要素として問われる。

 

自己肯定感を持てない人達が持ってしまうのが、コンプレックスや劣等感。

 

世間には、「コンプレックスや劣等感をバネにして〇〇を成し遂げた」と表現されるサクセスストーリーがあるが、その場合は間違いなく自己肯定感があったはずで、自己肯定感の方がコンプレックスや劣等感を上回っていたはずだ。

 

自己肯定感ということばは、言語明瞭ながら意味不明なところがあるので解釈に幅がある。

 

 

 

『大丈夫』という表現には「そんなこと気にしなくていい」というニュアンスが感じられる。

 

気になることがあるのに、大丈夫だから気にするなと言われても、問題は解決しない。

 

この事実は、気にしてる人にしか分からないかもしれない。

 

自己肯定感を阻害する“気になること”の中には、コンプレックスや劣等感がある。

 

Twitterを含めてネット上を検索すると、自己肯定感を阻害するコンプレックスや劣等感につながる要素として自身の外見をあげる人が多い。

 

自己肯定感が低いのは外見のせいだと思っている人の多くは、代償行為として外見のせいにしがちなのだ。

 

外見を改善すること多くは、コンプレックスの解消のつもりで誤った代償行為として行われている。

 

  • ダイエット

 

  • 美容整形

 

  • 脱毛

 

  • 歯列矯正、ホワイトニング

 

 

などが流行る背景には、自己肯定感の低さが関係している。

 

少し違ったものとして、ペットを飼うことも自己肯定感の不足が関係してるという話もある。

 

自己肯定感を、代償行為で取り戻そうとしだすと泥沼に嵌ってしまう。

 

代償行為が自分に向かってるうちは自分の問題だが、他人に向かうことも増えている。

 

 

自己肯定感を取り戻そうと思ったら実は簡単で、その元を断てば良いだけなのだ。

 

 

自己肯定感を低下させてるのは自分自身の理由というよりも、価値観が合わない人に囲まれた生き方をしてるからだと思った方が良い。

 

だとすれば、自分の価値観を再確認することが最初にすることになる。

 

どうでもいい価値観には拘らず、大事な価値観だけ守り、あとは処世術として迎合すれば良い。

 

それもできない場合は、人間関係をリセットするしかないが、どうでもいい人間関係に悩むくらいだったら、遥かに自己肯定感は高まるはずだ。

 

自己肯定感を取り戻すためには、どうでもいいことは「必要ありません」と言い切る少し強い心を身に付ける必要があるが、それを言わなければいけない相手こそが必要ない人なのだ。

 

『相場感覚』が問われるエンタメ化する現代!

エンターテインメント(以下エンタメと略す)は『娯楽』と訳され遊びの別称で、仕事や勉強の反対側に位置付けられることが多い。

 

エンタメとは、おもしろくて楽しいこと。

 

おもしろくて楽しいことは、エンタメ。

 

 

仕事や勉強を中心とした日常生活が『主』だとすると、エンタメは『従』だという先入観を持つ場合が多い。

 

エンタメに関しては、圧倒的に大多数がエンタメを享受する側であるので、エンタメを提供する側の心理や発想を理解できないことが多かった。

 

 

エンタメを提供する側とは、情報を発信することとほぼ同じ意味を持つということに多くの人が気付いたのは、誰もが情報を発信できるようになってからであり、発信のためのアプリやサービスなどのプラットフォームが充実してからだろう。

 

子供の頃から、読書感想文を書かされることすら苦痛でしょうがなかったわたしですらこうやってブログを書くようになったのは、書かされるという受け身の行動には感じられない楽しさが自ら能動的に行動することにはあるからだ。

 

そのように考えると、能動的に行動することはすべてエンタメと化し、受け身で行動することは、強制される行動が持つ不快感があるように感じられる。

 

知らないことを知ることが楽しくてしてる勉強と、良い成績を取るためだけにしてる勉強では、取った点数が同じだとしても、意味するものも、その生き方も全く違ったものになる。

 

仕事だって、好きでやってる人と、嫌々やってる人は、上げてる成績や会社からの評価が似ていても、全く違った生き方をしてるだろう。

 

 

能動的な行動が、すべてエンタメ化につながるとしても、その中身は両極端に違うことがあるという意味で、この分野も格差が生まれている。

 

 

仕事であれ遊びや趣味であれ、情報の発信の切り口に見られる格差は、

 

  • 褒める      ⇔    貶す、disる

 

  • 肯定         ⇔    否定

 

  • 理解許容   ⇔    誤解拒絶

 

  • 美点長所   ⇔    欠点短所

 

  • 譲り合い   ⇔    マウンティング

 

いろいろな切り口はあるが、どの切り口でもそこに能動性があればエンタメ化するのだ。

 

どの切口を多用するかは、発信者の個性やキャラクターを強く表すことにつながる。

 

つまり、エンタメにも正と負があり、それぞれ0から無限大までグラデーションを描くだろう。

 

次のツイートとそのリプライには、さまざまなエンタメの世界観が表現されている。

 

 

『税金を無駄遣いするエンターテインメント』という投書の画像

 

バクチや投資の世界を含めて、人々が鬩(せめ)ぎ合う合う世界では何より大事なのが相場感覚。

 

相場感覚とは、経験を通して身につく知恵であり、知識や理屈と現実のギャップを埋め合わせるもので、決して価格や値段のことにとどまった話ではない。

 

すべてがエンタメ化した現代だが、エンタメにも必要な相場感覚というのがあるはずだ。

 

世間でよくある炎上は、相場感覚が間違っているから起こるものと、相場感覚が正しいから起こるものがある。

 

 

不思議な出来事も数回続けば、独自の相場感覚が出来上がる。

 

 

相場感覚が身につくと、活かしどころがどこなのかが分かるようになる。

 

 

相場感覚が高く鋭くなると、素晴らしくても手を出せないということもある。

 

 

相場感覚には、コストとクオリティの二つの要素が関係する。

 

コストとクオリティを天秤にかけることは、完成度を取るか妥協するかの選択でもある。

 

 

デジタル化が、少ないコストでクオリティを高めることを可能にしたが、それは平均レベルを高めることには貢献したが、完成度と妥協の格差はアナログ時代よりも広がっている。

 

相場感覚が高く鋭い人は、クオリティに目を向けるだろうが、クオリティ自体も質的に変化してるはず。

 

クオリティは高いほど良いと思いがちで、クオリティが高いことを完成度が高いと評価しがちだが、従来妥協と言われていたことが必要十分という評価を受ける方向に向かっているのが現代だ。

 

今静かに妥協ということばが死語になりつつあるような気がする、そして代わりに必要十分という価値観が広まり出しているように、相場感覚も時代とともに質的な変化を遂げているように感じられる。

はてなブログをデフォルト設定のままで使用してると損してるかも!?

デフォルトの設定を見直すというのはITの世界ではお約束。

 

自分流に設定を変えることが大事だが、ピンとこないと何もしないか、あるいは訳もわからずに教わったり真似したりで採用した設定のままで使うことがある。

 

SEOに関しては、過ぎたるは及ばざるがごとしが持論だが、その一方で簡単なのにやってなくて損してることや、良かれと思ってやって損してることがあるらしいと分かった。

 

3月のGoogleアップデート以降アクセスが激減したことを機に、正しい知識は必要かもと思っていたが、今まで避けてきたから苦手意識もあったが、教え上手なブロガーのブログを参考に、この程度くらいはやった方が良いかもしれないということを備忘録として整理してみた。

 

検索からの流入が多い方は期待できるかもしれない。

 

ちなみにわたしの直近の場合が下記で、ほぼいつも似たような状態。

 

アクセス元サイトを示す画像

 

 

SEOとして最低必要なこととして挙げられてることがある。

 

しかも、Googleが推奨してることとしてだ。

 

次のツイートには、一般論が書かれているようだが、簡単なことと難しそうなことがある。

 

 

詳しくはリンク先のブログを見て欲しいが、簡単なこととして挙げられているのは、

 

  • タイトルにキーワードを入れる、キーワードとはコンテンツの主題を効果的に表すワード

 

  • タイトルキーワードは左寄せにする、ただし欲張り過ぎて策を弄すると変なタイトルになり逆効果

 

 

わたしにとって簡単なことは以上の二つで、残り三つは難しいことに感じた。

 

 

 

 

以下は、わかりにくい三つに関してわたしのように“はてな”でブログを書いている方向けに備忘録を兼ねて書いてみた。

 

 

画像を貼る場合、代替テキスト(alt属性)は必ず入力

 

 

 

画像(写真)に代替テキスト(alt属性)を入力するとは、今は簡単にできるように“はてな”の方で対処済みになっている。

 

その説明が、下記のサイトに書いてある。

 

画像を貼り付ける際に、代替テキスト(alt属性)を指定できるようにしました  :はてなブログ開発ブログ  

はてなブログでは、記事編集画面PC版)の編集サイドバーにある「写真を投稿」タブから写真を貼り付ける際に、代替テキスト(alt属性)を指定できるようにしました。あわせて、キャプション(説明文)を付ける機能の改善も行いました。

 

『はてなで画像にalt属性を指定する方法』の画像

 

 

上記の説明には記事編集画面はPC版とあるが、2019年4月現在ではiPadでもブラウザでのはてな編集で全く同じことができる。

 

 

代替テキスト(alt属性)自体を、どのように扱えば良いかは次のサイトが詳しく説明してくれてるので参考にして欲しい。

 

alt属性(代替テキスト)の役割とは?考慮すべきポイントと記述方法

 

 

 

 メタディスクリプションは必ず入力する

 

 

一般論としては勧められてるメタディスクリプションだが、調べてみると“はてな”に限っては入力しない方が良さそうだ。

 

メタディスクリプションとは、記事ごとに設定されることが望ましいのだが、“はてな”の場合はブログとして共通事項として設定される。

 

はてなユーザーの多くが、ブログ開設時に知らず知らずのうちに『設定』としてメタディスクリプションを指定してその後見直さずにほったらかしという状態になっているかもしれない。

 

ちなみにわたしの設定で説明すると、次の画像は基本設定の画面。

 

はてなブログの基本設定画面

 

メタディスクリプションは、詳細設定に項目が設けられていて、『検索エンジン最適化』の『ブログの概要』がそれなのだ。

 

わたしも、ここにダラダラと書き込んでいたが現在は空欄にしている。

 

『はてなブログの詳細設定画面のメタディスクリプションを記入する場所』の画像

 

以上のようなことを含めて詳しいことが、下記のリンク先には書いてある。

 

はてなブログ設定meta descriptionを空欄にする理由

 

 

 

パーマリンクを最適化する

 

 

パーマリンクとは、ブログのページ(記事)ごとに付与されるURLのこと。

 

以下は、昨日書いた二つのブログのURL。

 

https://www.chigau-mikata.club/entry/2019/04/12/204147

 

https://www.chigau-mikata.club/entry/2019/04/12/123144

 

 

“はてな”は日付がデフォルトで、今更ながら気付いたのは最後尾はアップロードした時間なのだ。

 

この日付と時刻で表された数字部分をキーワードに変更するというのがパーマリンクの最適化らしいのだが、わたしにとってはこの日付と時刻にも捨てがたい魅力が感じられる。

 

また以前パーマリンクの変更を一部だけやったことがあるが効果に関しては疑問を感じることと、アルファベット入力なので作業に虚しさを感じたことを覚えている。

 

そして、すでに公開しているブログのURLを変更することはやめた方が良いと訴えるブロガーも多いので、興味がある場合は新規のブログに限定した方が良いだろう。

 

 

今日取り上げた話は、SEOの話というよりは、設定をデフォルトのままでほったらかしにしてるのはもったいないかもしれないという程度に理解するとちょうど良いかもしれない。