違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

180度反対の価値観をプランBとして準備せよ!

世間に出回る情報の総量が飛躍的に増えた結果、純粋なオリジナルの価値が高まっているが、だからと言って金銭的な評価が高まるというわけではない。

 

純粋なオリジナルは、他とは似てないことが大事で、仮に違いはわずかであってもその違いが圧倒的な差に繋がってればオリジナルとしての評価は揺らがない。

 

例えばお笑いのジャンルにおけるネタの総数を考えると、純粋なオリジナルはどの位あるのだろうか?

 

オリジナルの反対はパクりだろうが、創作過程はオリジナルであっても、出来上がったネタが醸し出す雰囲気が似てるネタが他にあればパクり認定されるだろう。

 

 

一見自由に見えるお笑いの世界だが、ネタが備えなければいけない基本パターンは限定的なので、ヒットするネタがパクり指摘を受けることは珍しいことではないが、これはパクったからヒットしたわけでもパクったけどヒットしたわけでもなく、やっぱりネタが良かったからと言えるだろう。

 

ネタを作った時点では想定してなかった時流を上手く捉えていたりなど、タイミングの良さもヒットの重要な要素だろう。

 

こういうことは、その他の分野にも当てはまる。

 

今、商品として売られてるものの中に純粋なオリジナルなんてあるだろうか?

 

あるとすれば、全ての工程が手作業で行われているもので、芸術性を帯びているものに限定されそうだ。

 

作られるものは、オリジナルを意識すると芸術性に近づいて行き、そうでないものは工業製品化へ向かう。

 

 

工業製品化とは、一種のリアクション芸だ。

 

こうすれば受けるんじゃないか(=売れるんじゃないか)、こうすればもっと評価が上がるんじゃないか、と顧客との腹の探り合いというリアクション芸で、リアクション芸が成立するのはその商品やその商品が属するカテゴリーがすでに一定の評価を受けてることが前提になる。

 

お笑いの世界では、リアクション芸はすべり芸に端を発すると言われてるようだが、工業製品化を成立させるためにはすべり芸を卒業しておく必要がある。

 

 

それに対し、オリジナルにこだわることは、売れる売れないは二の次で、作りたいものを作るという芸術性で勝負してることになる。

 

この場合オリジナルであることは、簡単にはパクれないという再現性の低さが大事になる。

 

 

 

その答えは禅問答になる。

 

一般にコピーすることは再現することだと考えられる。

 

文字情報ならば、意味が同じ通りに伝われば再現性があると言って良いだろうが、行間が伝えるものがあったとするなら、コピーでは伝えることができないかもしれない。

 

そういう行間を含めた空気というものが創作物には宿るもので、そこに宿ってる空気は作り手本人もコントロールできないものになるので、結果的に再現性が低くなる。

 

俗に言う、「同じものは二度と作れない」という状態だ。

 

 

芸術にとって大事なことは再現性の低さで、工業製品化にとって大事なことは再現性の高さとなる。

 

グローバル化した現代は、あらゆるものが工業製品化している。

 

商品だけでなく、人にも組織にも再現性の高さが求められている。

 

現代の人々は、再現性を高めることに夢中になっている。

 

多くの人が、自分なりの成功哲学を持っているが、その再現性を高めることに躍起になっているのだ。

 

現在、再現性を高めることを目指す人々は、どの分野も満員すし詰状態で、とても再現性を高めることを目指せる状態ではなさそうだと思える。

 

 

このようなことを考えていると、再現性の低いことを楽しめる能力が魅力的に思えてくる。

 

180度反対の価値観を、プランBとして常に考えておくことが重要だ。

 

フリー(無料)のススメ!

最も価値があるものは、フリー(無料)で提供されるようになるということが世間で語られるようになったのは、2009年にこの本が出てからだ。

 

 

 

2009年以前からパソコンのフリーソフトなどでは、お金を出して買わなければいけないソフトよりも使いやすく便利なものがたくさん出回っていた。

 

その当時よりもかなり以前から感じていたことに、予告編やCMで観たいという気になる映画は、実際に見るとガッカリすることが多いということがあった。

 

つまり、フリー(無料)の予告編やCMで充分だと思わせる映画が案外多いのだ。

 

こういう経験が続くと自然と映画館に映画を観にいくことから遠ざかるようになる。

 

そして、アニメ映画が人気が高い理由も納得できるようになる。

 

 

現在、CtoC(個人間の取引)に課金が伴うものが増えている。

 

以前だったら課金といってもリーズナブルな価格で取引されていたフリーマーケットは、今やアプリ上で展開され、値付けも決してリーズナブルなものとはいえないものもたくさんある。

 

また、フリーマーケット以前に「お下がりを譲る」というような文化もあったが、総じてビジネス化が顕著になっている。

 

ビジネス化が前面に出ると、仕入れ価格より高く売ることが最低条件になる。

 

ただこれを素人が行うために、売る方も買う方も商品の価値を正しく把握してないことが増えている。

 

最近は、ブログですら課金の対象にされることが増えているが、これも広い意味での情報商材ビジネスで、冷めた目で見ると詐欺と紙一重のものがほとんどだろう。

 

 

CtoC(個人間の取引)の課金ビジネスの世界は、お客はエンドユーザーとは限らないのは、取引相手が転売目的であることも多いので、一見大きな市場に見えても介在するプレイヤーが多いだけで実は市場は思っているよりも遥かに小さいはずだ。

 

文章が課金対象になるということは、書かれてる情報に価値があると思いがちだが、実際にはわたしにとっての映画の予告編と本編の関係に近いかもしれない。

 

つまり、お金を払う価値があるとするならば映画以外に、過ごす時間や空間に価値を感じられるかということが重要になるかもしれない。

 

 

役に立つ情報は、フリー(無料)で手に入れることを基本にすべきだが、これはあくまでもインターネット上の話で、直接人間どうしが対面で行動するような場合は、フリー(無料)に拘り過ぎると「タダほど高いものはない」というしっぺ返しを食らうことになるから要注意!

 

 

『もっと自分に適したものがあるのではないか』という煩悩!

テレビやネットの実演系の通販番組を見ていると誰でも気付くのが、『今だけ』『限定』『〇〇%安い』『お得』というワードが踊りまくっていることだ。

 

観客をスタジオに入れて繰り広げられるバラエティ番組と共通するノリやテンポが感じられるが、商品に興味が無ければ冷めた目で見ることができるので気付くのが、その場に存在する同調圧力だ。

 

もし、同調圧力でなければ、そもそも観客と称してる人達はサクラで、ドラマで言うならばエキストラだろうということ。

 

もし、そこで展開されてる商品が興味あるものだったら、臨場感豊かに繰り広げられる実演ドラマには説得力が感じられるだろう。

 

 

このような手法はすでに古典化し、ビジネス本でも定番を通り越して少し飽きを感じるくらいだ。

 

このような手法で煽られるのは消費意欲だが、お金を使うことには消費以外にもある。

 

 

バブル景気の頃に会社で取引のある関西本社(当時)の都市銀行の方によく勧誘されることがあったが、その際のことばにすごく違和感があった。

 

彼は、「手前どもの商品は・・・」といつも切り出して、預金や貸付の金利の話をしていた。

 

貸付はともかく預金に対して商品という認識が全く無かったわたしには、「手前どもの商品は・・・」と語る彼は違う人種の人に見えていたが、銀行員の立場に感情移入すれば分かるが、預金も借入も投資も銀行が取り扱うものは銀行員にとっては商品であり、お客に消費させる対象だったのだ。

 

しかし、お客の側にはその意識はないので、預金や投資をするということは、消費の反対側の行為だと思っていることが多い。

 

 

 

保険の乗り換えで200万円の大損?知らないと怖い保険の真実

本や雑誌などで保険の記事を目にする度に「もっと自分に適したものがあるのではないか」と悩み、その悩みを解消するためにショップに行っては勧められた保険を契約する……。

そんなことを繰り返してきたようなのです。

 

 

 

「もっと自分に適したものがあるのではないか」と思うことが人間を惑わせると言って良さそうだ。

 

『失敗は成功の母』ということばがあり、多くの人が拠り所にしてるだろう。

 

「もっと自分に適したものがあるのではないか」という気持ちは、失敗を成功の母にしたいという気持ちの現れでもあるはずだ。

 

お金の問題以上に、健康に関してはより当てはまるだろう。

 

自分の症状や悩みと同じ人が、症状や病気を克服したと知ったら、同じことをしてみたいと思うのは当然だ。

 

症状の苦しさや辛さは、周りにいる人には案外伝わらないものだ。

 

 

症状が持つ苦しさや辛さを分かってくれてると感じられるだけで、信頼が増すはずだ。

 

現代では、人間関係もそんな症状の一つにカウントされている。

 

 

このように考えていくと、「もっと自分に適したものがあるのではないか」と求めることが、すべての消費の原動力と言えそうだと気付ける。

 

 

金融商品と言われてるものに商品という意識が希薄なように、『先生』と呼ばれる人々の行為も一般的には消費だとは認識してないが、この分野は現在でも実際には商品であってもまだ商品扱いはされていない。

 

残念ながら気付いてしまったのは、心や正義の問題だと思われてることも、全ては商品を介しての消費行動だということ。

 

掲げる理想が大きいほど上手く行かない理由が分かった気がする。

 

 

 

 

 

 

 

闇営業とインフルエンサー!

たまたま、芸能界の闇営業の話題が立て続けに出ていた。

 

闇営業とは、芸能人が事務所を通さずに仕事を取ることで、プロスポーツの選手が所属チームの了承を得ないで行う場合にも当てはまる。

 

最近はサラリーマンの副業解禁も増えているが、副業禁止の会社で会社に内緒で副業することも広い意味での闇営業と言えるが、闇営業が問題なのは取引相手が反社会勢力や犯罪者である場合が少なくないからだ。 

 

 

カラテカ入江 “闇営業の仲介”報道で謝罪と説明 「危機管理能力の不十分さ、認識の甘さ」と反省も

2015年に男女計40人が逮捕された振り込め詐欺グループが14年末に催した忘年会に入江を始め、雨上がり決死隊の宮迫博之、ロンドンブーツ1号2号の田村亮、レイザーラモンHG、ガリットチュウの福島善成らが出席していたと報道。この場に芸人らの出席を仲介したのが入江だったとしている。

 

この件で名前が上がった他の芸能人も無罪放免とは行かなそうで。次のような話も上がっていた。

 

宮迫博之、芸能界引退免れず…反社会的勢力に闇営業、テレビ各局一斉に起用自粛か

宮迫は2年前に不倫が発覚し、一部の出演CMなどが放送中止になるなどしたものの、結局は仕事に大きな影響も出ず、現在も売れっ子芸人として活動を続けていますが、今回の件はいかんせん反社がらみなので、完全にアウトです。

 

ニュースサイトで読む: https://biz-journal.jp/2019/06/post_28249.html

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そして、闇営業の中身には触れてないが、こんな話も出ていた。

 

コロチキ・ナダル、“闇営業”明かす「食ってかなアカンから」

焼肉店で藤本がナダルに「俺に言わなアカン事あるやろ」と問い詰めると、ナダルは特に無いとしたが、藤本がしつこく追求すると、悩んだ挙げ句に「闇営業ですか? いや闇営業はでもホンマにこれ食ってかなアカンから。よう行ってるっていうかそんな行ってないですけど、今度ゴールデンウィークに『ゴールデンウィーク闇』あります」と白状した。

 

 

芸能界と闇営業は昔から密接な関係があると言われていた。

 

芸能界だけでなく、プロスポーツの選手もだ。

 

有名人で、「そんなことしなくても大丈夫だろう」と思われていても落とし穴に嵌まるのは、不安や心配があるからだろう。

 

中にはただ単純に思慮分別に欠けていたという場合もあるだろうが。

 

不安や心配の中身は、自分の芸能界やスポーツ界での商品価値に対してが大部分だろう。

 

引退後や副業を意識することも多いはずだ。

 

そういうところに心の隙間ができるが、ここまでの流れであれば誰にでも起こりうることで、それ自体は悪いことではない。

 

問題は、自分自身でどこまで自覚があるか不明だが、立派な有名人であるという事実だ。

 

芸能界やスポーツ界では今ひとつでも、知名度を活かせば広告宣伝価値があることと、知名度があるが故に問題が表沙汰になれば逃げることができなくなる。

 

こういう属性の人々は、下心を持ってる人に狙われやすい。

 

芸能界の闇営業は、個人的な人脈の中でたまたま起きた出来事ではなく、狙われて仕組まれた事件と言えるはずだ。

 

 

 

LINEの友だちは上限超え。カラテカ入江の人脈はなぜ“広く浅く”にならないのか?

 

2018年の9月に書かれたこの記事では人脈の多さを絶賛されてるカラテカ入江だが、話を読めば分かるが、いわゆる名刺交換しただけ程度の人も人脈と呼んでるだけなのだ。

 

〜〜余談〜〜

 

ちなみにこの記事削除されてしまったようです。

 

ブログをアップした後3時間くらいして気付きました。

 

〜〜余談終わり〜〜

 

 

しかし、その程度のつながりが人脈と言えるほどの力を発揮できたとすれば、芸能人だったからだろう。

 

有名であり、知名度があるということは、それだけで市場を生み出すのかもしれない。

 

この薄っぺらいつながりを過剰に評価しているのがインフルエンサーという存在だろう。

 

 

 

人とのつながりを人脈と呼び合う関係は、利用し合う関係。

 

利用し合う関係とは、契約に基づく関係のように役割分担が課されている。

 

つまり、友達は人脈ではないが、人脈である人が友達になることはあるだろう、そういう場合は契約関係を超越した持ちつ持たれつの関係にシフトしてるはず。

 

SNSのフォロワーの数を競うことや名刺の数を人脈だと評価することは、名簿やリストを元にして営業を展開する詐欺ビジネスとどこか同じ匂いがする。

 

勘違いさせることで人を集め、市場を作ったとしても、遅かれ早かれバレるのが闇営業。

 

 

闇営業をしてることがバレると、ごめんなさいでは済まなくなるのは、再発防止のために見せしめが有効なことも関係してるだろう。

 

美味い話があるからとコソコソ行動するような場合が要注意だ。

 

謎が多いことがミステリアスだとプラスに評価されたのは、今となっては昔の話。

 

では、そんな時どうすれば良いのか?

 

 

そう言えば最近いい話があったので引用すると、

 

 

― 全くバレずにでしたが、デートはどうされてきたのでしょうか?

 

山里:土手を歩きまして、土に手と書いて。一度ですね、お付き合いしてテンションが上がって、「ドライブしたい」と言って。でも、僕は車の免許を持っていないので、必然的に蒼井さんが運転になるんですけど。「どこいきましょうか?」ってなって、「土手を歩いてみたい」と、いい土手をみつけたんだよね。

 

蒼井:ドライブしてなんとなくいい感じの。散歩したいねって。

 

 

 

もし、コソコソ行動したいならば、人がいない所が良い。

 

人がいるところでコソコソ行動することは、カッコ悪いだけでなく、犯罪の匂いすらするのが現代だと意識した方が良いだろう。

 

飼育されてる現代人!

地球温暖化という指摘がされ始めたのが1970年代、1990年代に入ると国際政治におけるテーマの一つになるようになった。

 

一般人の私たちが地球温暖化を実感するようになったのは、2007年から気象庁が気温35℃以上を猛暑と呼ぶようになった頃からだろう。

 

世間話で「明らかに地球温暖化が進んでるよね」なんて会話が珍しくなくなったのもこの頃からだ。

 

知識として地球温暖化を認識したのは多くの人にとっては、1997年の京都議定書(地球温暖化防止京都会議で採択)からだとすると、知識と体感が合致するまでのタイムラグは10年だったことが分かる。

 

 

 

 

人生100年時代ということばを世界に認識させたのは2016年に出版されたリンダ・グラットンの『LifeShift』。

 

 

 

2017年9月には首相官邸に安倍首相を議長とする「人生100年時代構想会議」が設置された。

 

今やニュースや報道でも普通に用いられることばになったが、わたしは『人生100年時代』がこんなに早く世間に定着するとは思っていなかった。

 

驚くことに、わたしの周りにいる高齢者(母のコミュニティに属する方たち)の間では、実感を伴って「本当に100歳まで生きるのは珍しくなくなったね」という会話がなされているのだ。

 

さすがに100歳を超える方はまだ珍しいが、95〜96歳以上で地域の活動に参加してる方が何人もいるらしいのだ。

 

地域の活動はレクリエーション的な遊びから、草刈りなどそれなりに負担の大きいものまであるので、元気じゃなければとても参加できないものが多いのだ。

 

そう考えると、『人生100年時代』は遠くの未来を指し示すことばではなく、地球温暖化と同様にすでに顕在化した現象になっていると言える。

 

 

政治的に掲げられるキャッチフレーズの多くは、単なる掛け声だけで終わることがほとんどだが、地球温暖化や人生100年時代のように、生活と向き合っていればいるほど実感を強く持てるものもある。

 

 

先日金融庁が人生100年時代における資産形成ということで下記の資料を発表した。

 

https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/market_wg/siryou/20190412/03.pdf

 

 

 

人生100年時代の課題をお金だと見てる資料だが、わたしにはこの問題は今世界を悩ますゴミ問題と同じなのではないかと思っている。

 

ペットボトルをはじめとした廃プラスチックや割り箸のようなものまでが、海洋に投棄され、汚染だけでなく生態系にも大きなダメージを与えている。

 

現在の対策は、今後の生産を巡る話ばかりで、すでに進行してる状況を改善するものには程遠い。

 

 

 

 

日本人の大半は、人生100年時代はこれから起きる問題だと捉えていると思うが、実際には既に始まっている。

 

人生100年時代の課題はお金の問題だと思われてるようだが、果たしてそうだろうか?

 

動物の世界では、野生の種よりも飼育されてる種の方が寿命が延びることが知られている。

 

人生100年時代とは、人間が飼育されてる時代と言えるのかもしれない。

 

もしそうだとするならば、現代人は既に飼育されてる状態なのかもしれない。

 

 

 

現代人が起こすさまざまな問題は、飼育されてるから起きていると言えるかもしれない。

 

だとすれば、問題を解決するためには野生を取り戻すことが大事になるのかもしれないが、野生を取り戻すときっと寿命は短くなるのだろう。

 

『時間に縛られる』という煩悩!

今日のブログを書くために改めて調べたことばがある。

 

『刹那』だ。

 

私がなんとなく理解していた意味は、『今さえ良ければ』だった。

 

ウィキペディアにはこう書いてあった。

 

刹那(せつな、Skt: क्षण kṣaṇa)とは、仏教時間の概念の1つで、最小単位を表す。とも。

 

決して『今さえ良ければ』というような意味ではないが、ごく短時間を意識したことばで、刹那主義と使われることが多い。

 

刹那主義は、『今さえ良ければ』に近い『その場しのぎ』や『無計画』というイメージで使われるが、本来の意味は決してそういうものでは無さそうだ。

 

 

時間という概念を持つ生き物は人間だけだと言われる。

 

時間という概念がなければ、存在するのは常にだけとなる。

 

人間だけが、今以外に過去や未来を持っていることになる。

 

今だけに生きていれば、全ては流れて消えていくものとなる。

 

今だけでなく過去や未来もあると考えると、全ては積み上がるように蓄積されるものになる。

 

 

どちらが良いとか悪いという話ではない。

 

 

こんなことを書いているのは、息子を殺した元事務次官の事件がきっかけだ。

 

川崎市登戸の事件がきっかけで、元事務次官の父親は息子が同じような事件の加害者になることを恐れたことが息子を殺した動機だと報じられていた。

 

漠然とした将来の心配や不安を早めに刈り取ったとも思えるが、その後の報道で次に家庭内暴力があったら殺そうと決めていたという話も伝わってくると、将来の不安や心配に対処したというよりも、差し迫った自身に迫る危険への対処だったとも言える。

 

 

今と将来どちらへの懸念が大きかったのだろうか?、ということがいつの間にかわたしの関心事になっていた。

 

 

おそらく、どちらかだけが気になったのではなく両方気にしていたことは間違いないだろうが、私たちは今と未来(時には過去も)を天秤にかけて悩むことが避けられないことが増えている。

 

 

『今』しかない人間以外の生き物には起こりえないことで、人間は悩み行動している。

 

今の自分は過去の積み重ねの結果だと考える人は、過去に縛られる。

 

今の自分を変えようと考える人は、変わりたい未来の自分像を思い描くことから始まる、そんな人は未来に縛られている。

 

人間は、他人からは結果で評価される。

 

結果が良ければすべては肯定的に評価される。

 

 

結果は本人にとっても重要だが、他人の評価に比べたら複雑だ。

 

結果が良くても不満だったり、結果が良いだけでは喜べないということがある、そういう時は得られた結果が目指すものとは違っているからだろう。

 

人間は自分自身に嘘をつけないと言われるが、人間以外の生き物ほど自分自身に嘘などつかないし、そもそも嘘をつくなどあり得ないだろう。

 

 

人間が時間という概念を手に入れたのはいつだろうか?

 

 

古代エジプトで、日時計がつくられたのが1万年前で、これが人類が時間を手に入れた最初だと言われている。

 

 

今や日本人は、世界で一番時間に正確で、世界で一番時間に厳しいという称号を世界から貰うに至っているが、これこそが日本(日本人)の強みであるとともに、最大の弱点なのかもしれない。

 

 

一生懸命やったということをアピールする場合に「〇〇時間費やしました」や「苦節〇〇年」という表現が日本には多い気がする。

 

時間というものを考えると、時間は全ての人に平等と言われる意味が分かるが、言外にその平等な時間を使って何をやったかということも問われることが多い。

 

・仕事や勉強や研究をしていた

 

・遊んでいた

 

・ダラダラゴロゴロ過ごしていた

 

・病気やケガで動けなかった

 

 

最近は、プロセスとしての時間を評価から省略することも増えている。

 

結果が出るのであれば、時間をどのように過ごすかは問わないという評価法も増えてきている。

 

 

どのように時間を過ごそうとも、結局はの使い方の積み重ねに過ぎない。

 

 

林先生が言った名言『いつやるの?』『今でしょう!』、動機はともかくこのように思え、実際に行動できることは、必然や偶然の影響を大きく受けていると思えてくる。

 

時間は平等だが限られたもの。

 

どの位限られてるかというと、人それぞれだという意味では、時間は決して平等ではない。

 

時間とは極めて個人的な存在で、決して他人と比較することで意味や価値が見出せるものではない。

 

時間との関わりを間違えると、おそらく幸せにはなれない。

 

幸せではないという自覚があれば、おそらく環境を変えたくなるだろう。

 

そんな時、知っておいて損はないことばがある。

 

 

 

2番目と3番目は誰でも思っているだろう。

 

 

世間ではあまり取り上げられないが、時間に対する価値観はパーソナルなものなので他人と共有できる必要はないと考えるくらいでちょうど良いかもしれない。

 

時間に対する価値観が明確になった次の段階で、それに相応しい場所と付き合う人を選んでいけば良い。

 

時間に対する自分の価値観に気付くことは、壮大な自分探しでもあるだろう、だから簡単なことではないし、生きてる途中で変化することもあるだろうが、この感覚と向き合っていれば変化が生じた時にはすぐ気付けるだろう。

 

 

分かってるようで分かってないのが、自分自身の時間に対する価値観だということをお忘れなく!

 

本能vs理屈!?

母国語以外の言語を習得しようとするならば、早く始めるほど効果が高いと言われる。

 

母国語は、理屈というよりも本能に近いところで身に付けると言われる。

 

本能に近いところで身に付けた言語は、ネイティブ(その土地に元々いた人)のレベルに近づけることができる。

 

逆に、どんなに猛勉強したとしても、習得のスタートが10歳を超えてるとネイティブのレベルにはならないと言われる。

 

それは、言語を本能に近いレベルで処理するのではなく、理屈で処理するようになるからだと言われている。

 

 

 

本能で身に付ける感覚と理屈で身に付ける感覚の違いはどこにあるのだろうか?

 

 

 

 

最後のツイートは発端は牛乳を巡る話。

 

 

このように、本能と理屈は密接に関わりながらも時には対立する様が感じられる。

 

読むことで伝わる情報、例えば新聞や雑誌や週刊誌や各種書籍、もちろんブログも含まれる。

 

これらは、どちらかというと理屈の側からアピールすると言えそうだ。

 

それに対して本能の側からアピールする度合いが強い情報としては、映画(広い意味でシナリオがあったり、意図に基づく編集がなされる動画)、一瞬を切り取る写真、それ以外でもリアリティと臨場感が備わっているものが上げられる。

 

 

文字だけの小説であっても、数カ所挿絵があるだけで、理屈だけでなく本能に近いレベルの感情が揺さぶられることがあるし、挿絵など無くてもシーンによっては自分の脳裏に映像や音声が浮かぶ場合も多い、知識を超えて感情が動いたような場合は本能が刺激されたと感じられる。

 

そういう意味では、世間に出回る情報の多くは理屈と本能の両方にアピールするものだと言えるだろう。

 

多種多様な情報に接しているとごちゃごちゃになるのが、その情報を本能で処理してるのか、それとも理屈で処理してるのかということ。

 

自分の本能にアピールしてる情報を理屈で受け取り処理したり、理屈が刺激されただけなのに本能が揺さぶられたと勘違いすることが増えているかもしれない。

 

 

 

もっと大事なことは、同じ勘違いをしてる人達に周りを囲まれてるかもしれないということ。

 

同じ会社、同じ業界、同じコミュニティに属してると、内輪の論理や理屈に支配されることがある。

 

 

『今感じてる気持ちや思いは、本能が反応してるのか?、それとも理屈で反応してるのか?』、というのは本人ですら気付きにくいのが現代だ。

 

 

 

人間は本能で生きているのか?

 

それとも理屈で生きているのか?

 

 

考えれば考えるほど分からなくなる。

 

 

そんな時は、感じることが大事。

 

 

 

感じることを習慣付ければ、本能と理屈のバランスポイントが見つかると信じたい。