違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

買った本を読んでますか?

皆さん本を読んでますか?

 

この答えはさまざまあるでしょう。

 

読んでると答えた方の、読んだ理由もさまざまであれば、

 

読まないと答えた方の、読まない理由もさまざまでしょう。

 

 

では、逆に本は誰のために作られてるのでしょうか?

 

誰のためにというのは、誰に向けてという意味で、つまるところ読者。

 

 

この『本』の部分は、『映画』や『テレビ番組』に変えても答えは共通してるような気がします。

 

 

誰に向けて作られてるか?、それは買ってくれる(見てくれる)人に向けてです。

 

 

ここ最近であり、今現在の話として考えます。

 

 

買ってくれる人や見てくれる人とはどんな人でしょうか?

 

その人たちは何を求めていたのでしょうか?

 

 

 

 

映画を観る理由(女性)

 

映画を観る理由(男性)

 

データのソースは以下のサイト

https://research.nttcoms.com/database/data/002071/

 

 

 

 

この映画に関する答えは、本にもそっくり当てはまりそうな気がする。

 

本には大きくジャンル分けして、

 

  • 小説などの文芸書
  • 健康、料理、育児、冠婚葬祭、趣味その他多数の実用書
  • ビジネス、経済、経営のビジネス書
  • 勉強や学習の参考にする参考書
  • 専門書

 

などがある。

 

売れてる本は、市場で評判が良かったり、実際に売れてる(平積みされてる)中から選ばれたりすることが多い。

 

実際に売れる理由として多いのは、

 

  • 著者が人気がある
  • 話題になっている
  • 盛んに広告宣伝されてる

 

 

情報を仕入れるだけだったら一度しか読まないかもしれないが、実用書や参考書だったらボロボロになるまで使う人も多い気がする。

 

 

しかし、不思議なことに買った本を読まない人が意外と多そうなのだ。

 

理由があって買ったはずの本だが、買っただけで満足し実際には本を読まずに本棚に積み上げるだけのことを積読(つんどく)と呼ぶがWikipediaによると明治時代から使われているらしい。

 

積読に関する統計データなどはざっと検索した程度では見つからないが、こういうのはあった。

 

買ったけど読んでない「積読」本の総金額がわかり他人の積読本もチェックできる「積読ハウマッチ」

積読ハウマッチはその名の通り積読本の「金額」を表示してくれるため、自分がどれほどの金額を本に費やして無駄にしてしまっているかが一目瞭然。本棚に並べてしまうと未読の本もあまり気になりませんが、こうして金額として表示されると、「少しずつ読んでいかないともったいない」という気分になり、積読本を崩すのに役立つサービスとなっていました。

 

https://tsundoku.site

 

 

 

 

積読に関して検索すると、積読は本を大量に購入する傾向にある人に多いことが伺える。

 

本が売れない時代と言われるが、そんな時代に本をたくさん買う人が実際には本を読んでなさそうだと感じられると本がかわいそうになるが、そうすると以前読んだこの本が俄然信憑性が増してくるのを感じた。

 

タイトルは、ビジネス書の9割はゴーストライター

 

 

 

 

この本の中には次のようなことが書いてある。

 

ビジネス書の著者は誰でも構わない、本が売れさえすえば。

 

著者(実際には書いてない)も出版社も本屋も売れさえすれば構わない。

 

著者にとっては出版されたという実績が大事だったりする。

 

それじゃ良くないと思っているのはむしろゴーストライターの側。

 

ビジネス書は、誰が著者だと売れるかから企画され、著名人や有名人で固定ファンが多い人が選ばれる。

 

固定ファンが多いほど、出版されれば一定数は必ず売れるから。

 

しかし、その条件を満たす著者の多くは自分で本を書くことができない、能力的にも時間的にも、だからゴーストライターという需要が存在する。

 

 

 

ここまでの背景はすでにわたしも知っていたが、これに加えて上記のように実際に本を買った人たちの中には積読の人がかなりいるのだ。

 

出版社の中の人たちはこのことを分かっているのだろう。

 

買った人もどうせ読まないんだから、どんな風に作っても読者を裏切るわけではないという免罪符にしているのかもしれない。

 

そう言えばともう一つ思い当たったことがある。

 

書評ブログという存在だ。

 

読書好きの個人が運営するものから、組織で運営されてるビジネス色が漂うものまでさまざまあるが、個人はともかく組織で運営してる理由がイマイチ分からなかったが、積読する本の購入者向けに本の内容を要約したものを提供してあげるという出版社の息のかかかったサービスなのかもと思えてきた。

 

 

もし、あなたが買った本を必ず読んでいるとすれば、さらに気に入ったら繰り返し読んでるとすれば、それだけでかなりレアな存在なのかもしれない(誉めてます、念のため)。

『笑いのツボ』のグラデーション!

笑うことの効能を説く話は多い。

 

笑うことは、ナチュラルキラー細胞を活性化させガン細胞を殺すとも言われている。

 

そして、笑うことでナチュラルキラー細胞を活性化させる効果は嘘笑いのように面白くないのに無理して笑う場合でも効果があるらしい。

 

だからだろうか?、、世の中には笑いを求めての行動なのかもしれないが笑いから遠ざかるものもたくさんある。

 

わたしも朝テレビで見たが、こんな話題があった。

 

 

 

 

 

1年前ベトナム人実習生が撮った動画が発端。

 

日本での劣悪な労働環境を示す動画としてベトナム人コミュニティで回っていた動画が、あいまいな日本語自動翻訳とそれを受けての誤解(もしかして悪意)で日本語化され、ベトナム人実習生がいじめに遭っているという動画として拡散され炎上したのだ。

 

罰ゲームとは言え、犬の格好で歩くことのどこがおもしろいんだと思う人と、これおもしろいな今年の忘年会でやろうと思う人に別れるのだろう。

 

 

上記のツイートのように、この件ではベトナム人が犬のように扱われたわけではないが、わたしにとってはそもそも動画自体が全くおもしろくないのだ。

 

 

しかし、このような動画で笑える人がいるから犬の格好の罰ゲームは行われたのだと思うと、笑いのツボのグラデーションについて考えてみたくなった。

 

 

笑いには、キッカケがあるから笑えることと、キッカケは明確でなくても笑えることがある。

 

キッカケが無くても自然と気がついたら自分が笑っている代表が、赤ちゃんやペットを眺めたり触れ合ってる時だと思うが、最近ではこれは誰にでも当てはまる話ではなくなってきている。

 

日本での少子化を語る時に、子育てが大変だからという理由が上がるが、それ以前に赤ちゃんが万人にとって癒しの存在ではなくなっていることも大きな理由ではと思えてくる。

 

泣き声がうるさい、ベビーカーが邪魔と感じる人が増えている。

 

見てるだけでこちらを笑顔にさせてくれる赤ちゃんという存在が幻想になりつつある。

 

赤ちゃんを嫌がる人の中には意外なことに女性も多いのだ。

 

赤ちゃんを見せられると、幸せ自慢をされてるように感じる人がいるらしいのだ。

 

知らず知らずのうちに笑いや幸せの大元に序列意識が侵入し始めているようなのだ。

 

他人(あるいは特定の誰か)と比べて優位に立っていれば笑いが出て、劣っていれば笑えないということが増えている気がする。

 

漫才などのお笑いネタやバラエティ番組も序列意識やマウンティングを織り込むものが多いような気がする。

 

笑いのツボというのは本来個性が強く出るのだが、序列意識やマウンティング意識が入り込むと自然発生的に忖度が生まれるのが日本(人)の特徴だ。

 

極めて個人的な価値観である笑いのツボにも世間や属するコミュニティの価値観が介入することになる。

 

童話の『裸の王様』で「王様は透明な服をお召しになってます」と言った多勢の人々と同じになっているのだ。

 

忖度を自然と行う場合、おそらく心の中で何かが壊れているだろう。

 

忖度というのは一種の中毒だから、簡単にはやめられないし、やめたつもりでもフラッシュバックが簡単に起きるだろう。

 

忖度してると笑いのツボもそれに合わせたものになる。

 

その人の笑いのツボがどこにあるかを見てると、その人がどのような属性のコミュニティに属しているかが判断できるヒントになるだろう。

 

会話をすると言ってることには共感できるけど、笑いのツボが違うような場合は、発してることばは疑った方が良いかもしれない。

 

ことばは簡単にウソをつけるが、笑いのツボは簡単にはコントロールできない。

予言もさまざま!

自動車が存在しない時代に自動車を想像していた人が、その思いを記したものを残していれば予言が当たったと言えるだろう。

 

そして、道路の舗装やモータリゼーションの発達が都市計画や街づくりも大きく変わることまで想像できていれば、予言を超えて素晴らしい洞察力だと言えるだろう。

 

現在から未来へ向かう道を想像すると、道は無数にそして無限に存在するように思える。

 

しかし、同じようなプロセスを経て辿り着いた現在から過去を振り返ると一本道とは言わないまでもシンプルな姿しか見えない。

 

選択肢がたくさんあったことなど誰も覚えていないのだ。

 

日本では昭和までは、周りに知らない人ばかりがいる場所で一人で話し出すというのは街頭演説くらいだったが、携帯電話が普及するとマナーの問題はさて置き、人前で自分のことを話すことは珍しくも何ともないことになってしまった、ただ不思議なことに周りの人に話しかけてるわけではないが。

 

携帯電話やモバイルの発達で、どこでもオフィス化という概念が生まれ、カフェで仕事をするというスタイルも珍しくなくなったが、そう言えばカフェってなぜこんなに増えたんだろうというくらい増えたが、こういうことを予言していた人はいるのだろうか?

 

沢木耕太郎のエッセイ集の中におもしろい話があった。

 

1980年台前半の話で要約すると。

 

〜〜以下要約〜〜

 

久しぶりに香港のペニンシュラホテルのロビーに行って驚いた。

 

ティールームで紅茶を飲もうと思ったら、多くの席が異様な機器をテーブルに置いた男たちに占拠されていた。

 

それが初期の携帯電話で男たちはペニンシュラのティールームを事務所がわりにしていた。

 

こんなものは香港だから許されるのであって日本では流行らないだろう。

 

〜〜要約ここまで〜〜

 

 

 

 

 

日本で携帯電話が普及し出すのは90年台の半ばを過ぎてから、カフェが事務所がわりに使われるようになるのは21世期に入ってからで、カフェで仕事をするスタイルをノマドと呼び出した時期はいつからかとGoogleTrendsで調べると、

 

GoogleTrends『ノマド』2004年以降

 

 

ピークは2012年の4月。

 

世界の最先端の人が高級ホテルのティールームをオフィスがわりにし始めてから日本人の多くがカフェで仕事をすることに違和感を感じなくなるまでに30年かかっている。

 

Wikipediaによると携帯電話の構想は、電話機の実現とほぼ同じ時期に生まれたとある。

 

電話の誕生は1870年台。

 

日本で電話の普及の兆しが現れたのが1950年台。

 

一部の国で携帯電話が事業化されたのが1980年頃。

 

予言から予言の実現までには大きな時間差があるので、予言した人は予言の実現を知ることなく世を去っているのだろう。

 

 

今現在、すでに予言され実現に向かってるものもあれば、予言されただけで今後どうなるかは未知数のものもあるだろう。

 

一つだけおもしろそうな予言を紹介すると、

 

 

 

つまり、言葉では伝わらないけど、写真で伝わるものはちょっとマシ。写真でも全然伝わらないけど、動画で伝わるものはもっと良い。そんで最強に良いのは、言葉で全然伝わらない、写真でも伝わらない、動画でも一切伝わらない。けど、体感するとハンパないものが一番良い。まあ、ただそれをみんなした方がいいとは思ってないけどね(笑)。

 

 

 

非言語の大波を感じることはできるのか?

 

予言の実現に向かっているのだろうか?

 

予言されてるだけの段階では、言語明瞭でも意味不明。

 

 

予言を聞いて。『ああ、それ良い!』と思えるものは多分大したことないかもしれない。

 

大ボラと名予言は紙一重かもしれない。

 

OsmoPocketのタイムラプスに不満があればハイパーラプスで解消しよう!

先日、osmopocketのハイパーラプスを試してみたいと言ったことの続き。

 

osmopocketのタイムラプスは設定上インターバルの最短が2秒なので、被写体の動きが速いと出来損ないのパラパラ漫画になりがちだ。

 

前回空港でタイムラプスを撮影した時は、メインの目的は沈む夕陽で変化する空の色のグラデーションで、障害物が少なそうな場所ということで空港を選んだが、いざ空港に行くと目の前で離発着する飛行機も同時に写したくなった。

 

その時の記録がこれ。

 

www.chigau-mikata.club

 

 

この中でも書いてるが、osmopocketのタイムラプスにはインターバルの設定に関して大きく二種類があり呼び名が違う。

 

タイムラプスとハイパーラプス。

 

タイムラプスは、位置を固定して使うのが基本になり、被写体の動きが遅いものに適していて、空や雲や星や自然の風景やゆっくり動いてる人間や動物や生き物を被写体にするのに向いているが、動きの速いものをタイムラプスで撮ろうと思うとインターバルの感覚を短くする必要があるので通常の動画を撮って編集で速回しにするという方法も検討したくなる。

 

そんな中間の設定にも使えるのがハイパーラプス。

 

osmopocketのハイパーラプスは、通常の動画(1秒30コマ)の1/2〜1/30のインターバルで設定できるので、タイムラプスとしてインターバル1秒以下を多彩に設定できる。

 

さらに、タイムラプスでは画角を固定するのが基本だが、ハイパーラプスではカメラを動かしながら撮ることが前提なので、より遊びの要素が強くなっているはず。

 

そこで前回とほぼ同じ場所でハイパーラプスで撮影してみた。

 

設置の仕方も前回と同じくフェンスの有刺鉄線に絡めて。

 

osmopocketをフェンスに設置

 

この位置に設置すると夕陽が写らないので、

 

白丸のネジを緩めてカメラを動かす

 

写真の白丸のネジで三脚の固定を緩めて時々カメラを動かしながら撮影してみた。

 

その結果気付いたことを備忘録的に記すと、

 

  • カメラを動かすスピードや動かし方は事前にテストして自分なりの作戦を立てる必要がある

 

  • osmopocketの小さなモニターだけを頼りにしてると被写体を探せない(肉眼では目の前に見えてる月を探せなかった)

 

 

そんな反省を教えてくれたのが実際に撮影した次のハイパーラプス。

 


osmopocketでタイムラプスに不満があればハイパーラプスを試そう!

 

 

小さなカメラだが夜景もそこそこにこなせる実力がある。

 

まだまだわたしの発想やアイデアは乏しいが、osmopocketには工夫次第で大きな可能性があるということは十分感じられたのでもっと遊んでみたい。

 

 

 

 

 

『現在や未来』と『過去』はトレードオフ!

今朝ラジオで興味深いことを言っていた。

 

鳥の視点を持つと気付くこととして、『現在と未来』しか無く、『過去』が存在しないと。

 

過去を振り返ったりしてると命が危険に曝されるからだと言っていた。

 

 

『なるほどな、おもしろい』と感じた。

 

過去にも二種類ある。

 

知識や経験や知恵は過去の賜物だが、ここで言う過去はそのようなことではなく、思い出や郷愁や栄光だったりだろう。

 

 

ラジオでは、鳥の視点を持つシチュエーションとして飛んでる状態と言っていたが、この場合の飛んでるとは飛行機に乗っているような場合ではないのはもちろんだが、飛行機を操縦する人は当てはまりそうだが旅客機のパイロットが好天で操縦する時には過去が現れるかもしれない。

 

バンジージャンプやスカイダイビングやハンググライダーなどをイメージするとピンと来やすいかもしれない。

 

今風に考えるとドローンの操縦も含めて良いかもしれない。

 

考えを進めていくと、飛んでる場合だけでなく、スポーツとして歩いたり走ったりしてる場合も当てはまるかもと思えてくる。

 

歩いたり走ったりしてる時に、過去が気になり出したら、おそらく脚は止まるような気がする。

 

歩き続けたり、走り続けるためには、過去を振り払う必要がありそうな気がしてくる。

 

だとすると、過去に囚われてる状態とは、飛んでないのはもちろんとして、走ってもいないし歩いてもいない状態だと言えるのかもしれない。

 

現在では、時間とは過去→現在→未来へと流れると誰もがなんの違和感もなく理解してるが、歴史を遡ると時間という概念は宗教との絡みから徐々に定着し、それを数学的物理学的に理論づけられて今に至っているが、成り立ちを考えると人間だから感じ、理解してるのが時間で、とりわけ特殊な存在なのが『過去』なのだ。

 

『過去』に囚われるという状態は極めて人間的だと言えるかもしれないし、生きるか死ぬかという状況では弱点になるのだろう。

 

人間は宇宙に目を向けイノベーションに夢中になってるような一方で、歴史的な建造物や芸術や世界遺産などと過去への執着の度合いも高まっている。

 

 

今、人間は『現在や未来』と『過去』を巡って大きく二分してるような気がする。

窓は額縁、額縁は窓!

窓から外を見ていて景色がキレイだと外に出てみたくなる。

 

しかし外に出ると、窓越しに見た景色は魅力的だったのに、外に出て見る景色は途端にありふれたものに感じられる。

 

あるいは、良い景色や風景だなと思って写真や動画を撮ると、撮ってる最中は結構盛り上がるが後で撮ったものを見ると、「こんなんじゃなかったんだけどな」と思う自分がいたりする。

 

このような違いは誰でも感じているのだろうか?、と思いながらも自分のことくらい自分で理解できるようになる必要があるなと思い考えてみた。

 

 

キッカケとなったのはこの記事。

 

イギリスの画家 デイヴィッド・ホックニーが iPhoneとiPadで描いた画集 TASCHENから登場

120枚もの絵をiPhoneとiPadで描いたそうで、彼のヨークシャーの家の窓から見える四季の移ろいを表現している。

 

ここに掲載されていた絵を見ていてふと思ったのが、『窓』が景色を魅力的にしてくれるのかなと思った。

 

〜〜余談〜〜

 

テレビのCMでも聞いたことがあるように『窓』に課税していた時代がある、日本ではなくイギリスだが。

 

そんなことを書いているブログがあった。

 

窓もどき!天下の悪法、窓税が作り出したへんてこりんな建物の数々

 

 

なぜか、『窓』には郷愁を誘う力が潜んでいるように勝手に感じられてくる。

 

〜〜余談終わり〜〜

 

日常生活で窓からの景色を見る時には窓の存在を意識しないことが多い。

 

景色が魅力的に感じられる時の景色とは、窓の向こう側の景色だと思い込んでしまう。

 

無意識に存在を無視してしまう窓だが、景色を絵や写真にする場合窓も含めるとグッと魅力を増すのだ。

 

 

絵や写真を額縁に入れると魅力を増し、まるで価値が上がったように感じられるのに似ている。

 

『窓は額縁』と検索して、『画像』を見ると、

 

Googleで『窓は額縁』と検索すると

 

 

 

似たようなことを感じてる方の投稿がズラっと出てくる。

 

窓というとガラス面を意味するかもしれなが、むしろ窓枠だ。

 

直接見る窓にはそこまで魅力を感じないのに、絵や写真では窓枠が描いてあると魅力的に感じられるのはなぜだろうかと考えていたら思い出したのがオー・ヘンリーの最後の一葉

 

この話は窓や窓枠がなければ映像として成立しないし、感動にも繋がらない。

 

 

絵や写真に限らず、核心に迫ろうとする時についついその存在を無視したり、軽視しがちなのが窓(枠)や額縁だ。

 

今自分が見つめてるものには全て、目には見えてないかもしれないが、窓(枠)や額縁があるはずだと思ったら、新しい発見があるかもしれない。

 

 

osmopocketで撮影した空港の夕景のタイムラプス

昨日の夕方、天気がすごく良かったので夕日が沈むタイムラプスでも撮ってみようかと思い、osmopocketで約3時間のタイムラプス撮影をしてみた。

 

できるだけ障害物が無い場所はと考えて空港に行ってみた。

 

空港の周りで撮影場所を探して自転車でぐるりと回ってみたら何ヶ所も良い場所があったが、その中でも夕陽を真正面に捉えられる滑走路の端っこが気に入ったので、そこにosmopocketをフェンスの有刺鉄線に絡めながら設置した。

 

osmopocketをフェンスに設置

 

夕陽が目的だったが、目の前で飛行機が離発着する様子が見えるので、ついつい飛行機も映るアングルを探したが、osmopocketは広角ではないので微妙に両立が難しく、夕陽を少し外して空のグラデーションの変化が撮れれば良いやと妥協して撮影を開始した。

 

と言ってもただほったらかしにしているだけ。

 

その映像がコレ。

 

撮れてる範囲でキレイな映像で見て欲しかったのでYouTubeにアップしたが撮って出しの無編集。

 


osmopocketのタイムラプスで撮った空港の夕景


 

 

日が暮れる頃に離発着する方向が逆になったことが分かるだろうか?

 

カメラの画角をパスするように離陸する飛行機が上を通り過ぎているので映らなくなっている、広角じゃないことの弱点の一つだ。

 

わたしが撮影してる近くでは、同じように撮影してる方が何人もいたが、中にはすごく大きなカメラにバカでかいレンズをつけて脚立持参で高い位置にカメラをセットしてる本格的な方もいた。

 

日が暮れ始めると吹き曝しの空港は実際の温度以上に寒さが感じられ、日が暮れる頃には撮影をしてるのはわたしと本格的な方の二人になっていた。

 

その本格的な方がわたしに話しかけてきて、少し話をしてると急に「ごめんなさい、話しかけて」と言い、「録音の邪魔になってませんか」と言ったので、「大丈夫ですよ、タイムラプスだから音は録ってません」と言うと、「わたしもタイムラプスなんですよ」と言い、そこからタイムラプス談義に少し花が咲いた。

 

話の焦点は、タイムラプスのインターバルが中心。

 

わたしが「osmopocketは最短で2秒だから飛行機のように動きが早いと多分少し不満を感じるかもしれないと思うけど、空のグラデーションには十分だと思う」と言うと、

 

その方は「わたしは飛行機が目的だけど、カメラ本体の機能では2秒が最短だから、外部からシャッタスピードを制御して被写体に応じて1秒とか0.5秒のインターバルで撮ってます」と言っていた。

 

 

知らない方と触れ合うのは楽しかったが、結果的にosmopocketに対して小さな不満を抱えることになった。

 

まもなくわたしのバッテリー(本体+モバイル)が尽きそうだったが、その方はこの後もしばらく撮影し続けるとのことだった。

 

帰宅後、タイムラプスのインターバルを短くする方法がないか調べるとあったのだ。

 

あったと言うよりも、最初から備わっていたのだ。

 

ハイパーラプスと呼ばれる設定にするとインターバルが短い設定になるのだ。

 

しかも嬉しいことに、タイムラプス撮影の時は画角を固定するのが基本なのだが、ハイパーラプスではカメラを動かすことが前提なのだ。

 

だとすると、カメラの画角を動かせるので広角じゃないという弱点もカバーできるはず(かも)!

 

まだハイパーラプスを使ってないので、頭に描いてるイメージと実際の映像のギャップを確認できてないが、なんだか楽しみが増えたようで嬉しくなる。

 

 

今日も天気は良さそうなので夕方空港に行ってみたい!