違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

新たなルネッサンスが始まる予感を『欲望の資本主義2020』を見て感じた!

ドラマから垣間見える世相や風潮がある。

 

 

1月期ドラマ「医療もの6本乱立」で視聴者のドラマ離れが加速?

この状況をドラマウオッチャーの晴川日月奈氏はどう感じているのか。

 

「各局がラインナップをギリギリまで公表しないから、企画がある程度重なるのは仕方ないとは思います。でも根本的な問題は、医療ものか警察ものを作っておけば大きく失敗することはないという、制作サイドの考え方にあるんじゃないかと思います」

 

特に医療ものは漫画原作も多く、企画が通りやすいという。

 

「医療監修の方から実際のエピソードを聞けるので、ストーリーも作りやすい。さらに病院のロビーは休日であれば撮影が可能。病室や手術室はセットで簡単に再現できる。室内シーンが多いので天候に左右されず、スケジュールも組みやすい。

そもそも、視聴者受けがいいから、視聴率もそこそこ期待できる。そういう思いを持ったプロデューサーさんが、今期たまたま多かったのかもしれませんね」

 

 

国によって、あるいは、自分の属する環境や境遇に拠って多少の違いはあっても、大きな流れで生じるその時代の世相という空気に、知らず知らずのうちに操られているのが私たちなのかもしれない。

 

 

 

 

昨夜寝る前に録画していた再放送番組を見た。

 

 

 

 

この数年NHKが新年に同じタイトルで特集しているシリーズだ。

 

欲望が欲望を生む現代。

 

評価を求めながら、評価から逃れたいとも望むようになっている。

 

 

冒頭の医療系ドラマの乱立の背景にもそれが感じられる。

 

医療系ドラマが乱発される背景には、作り手からすると自由度の高さが上げられていた。

 

自由度が高いとは、生産性が高いや効率が良いと似ていて、費用対効果という観点で評価の対象になりやすく、受ける制約が少なくなる。

 

受ける制約が少ない方に流れて行きやすいのが現代の特長なのだ。

 

受ける制約が少ないことが自由と解釈されている。

 

 

昨年の『欲望の資本主義2019』では次のようなことばがあった。

 

 

個人が国家の考えに左右されない自由こそが真の自由か?

 

全ての悪を消そうとすれば、多くの善も消える(トマス・アクィナス)

 

 

本来の「自由」とは、自らの「イメージ」を作り出せる可能性のことで、できることはその方法を見つけ続けることだけ。

 

 

 

今年の『欲望の資本主義2020』では、暴走する自由がテーマだった。

 

現代資本主義の最大の功労者であり戦犯がハイエク。

 

ハイエクのことば

 

 

前年の2019年でも指摘されていた。

 

今という時代は『自由の罠』に陥っている

 

技術に人間が仕えてはいけない

 

『自由』の最高の擁護者はハイエク

 

わたしの好きな経済学者水野和夫さんは、資本主義で豊かになれるのは全体の15%だから、資本主義とは15%クラブだと言っている。

 

1870年から2001年までの130年間は、高所得国の人口シェアが、ずっと15%で推移している。先進資本主義のグローバリゼーションとは、先進国の15%の人々が、残りの85%から資源を安く輸入して、その利益を享受してきた。言い換えると、地球の全人口のうちの約15%が豊かな生活を享受することができた時代である。この15%は、ヨーロッパ的資本主義を採用した国々で、当然アメリカや日本もそこに含まれるが、日本の「一億総中流」が実現できたのもこの時代

http://gendainoriron.jp/vol.03/feature/f05.php

 

 

しかし、急速に進んだグローバル化のせいで世界から残り85%が無くなってしまったのだ。

 

国家レベルで捉えると資本主義が成り立たないので、個人単位で評価するように移行し、豊といわれる国の中でも個人単位で見ると大きな格差が出来つつあるのが今なのだが、これで維持することも遅かれ早かれ行き詰まるのは目に見えている。

 

この行き詰まりは、一方向だけを向き続けた自由がもたらしたものだ。

 

本来の自由は、どこに向かおうとかまわなかったはずなのに、一方向にしか向かわなかったために急速に行き詰まっているのだ。

 

水野和夫さんは、「地理的・物的空間」が行き詰まった後に活路を求めたのがITと金融を結びつけた「電子・金融空間」だと言っている。

 

水野和夫さんのこの主張は2014年の著書でされたものだ。

 

 

それから5年以上が経過した現在。

 

 

この流れの延長線上に「仮想〇〇」が出てくるのは極めて当然で、自由が生み出してることが分かるが、もはやアイデアとしては陳腐としか言えないので、何をやってもすぐに行き詰まりを迎えるのは必至だ。

 

『欲望の資本主義2020』では、明確な答えは示されなかったがその終章では、ノーベル経済学賞を取ったジョセフ・E・スティグリッツが次のように言っていた。

 

「30~40年後にどんな経済や社会を実現したいか――日本には非常に偉大な知性がいましたよね。私の先生の宇沢弘文氏です」

 

水野和夫さんも宇沢弘文さんを評価して次のように言っている。

 

宇沢弘文は経済学者の枠には収まらない。思想家と呼んだほうがふさわしい。ある時宇沢は「本来は人間の幸せに貢献するはずの経済学が、実はマイナスの役割しか果たしてこなかったのではないかと思うに至り、がく然」とし、そして確信する。「経済学は、人間を考えるところから始めなければいけない」

https://allreviews.jp/review/379

 

 

宇沢氏は晩年次のように言っていた。

 

二つのツイートを紹介、リンクされてる記事は同じもの。

 

 

 

 

 

行き詰まった時に起こるのがルネッサンス。

 

資本主義というのは中世のルネッサンス以降に始まっている、中世のルネッサンスが始まる前の時代は暗黒時代と呼ばれ、それを打破するために人間回帰として文芸に活路を求めたのがルネッサンスだ。

 

行き詰まった資本主義が、新たなルネッサンスを生み出しても不思議がない条件が揃いつつあるような気がしてくる。

紳助が言う『夏の虫』は睡眠不足が原因かも!

テレビで久しぶりに引退した紳助の映像が流れていた。

 

昨日そんな情報がタイムラインを流れていたのは気付いていたがわざわざ見に行ったりはしなかったが、今日の朝の番組でその映像が流れていた。

 

 

 

その中で相変わらずおもしろいこと言ってるなと思ったのが次のセリフだ。

 

 〜〜〜

「芸能人がバラエティー(番組)で規制がかかる。これ言ったらアカンとか、芸能人が浮気をしたらアカンとか、不倫をしたらアカンとか、女いたら 、やいや言われて、芸能人のなりてなくなるで、芸能人になるやつなんて、頭のいたいやつやねん」 

 

「頭のいたいやつが芸能人になる、夏の虫みたいなもの。明るいところに飛んでいくだけ。モテたい、お金持ちになりたい、目立ちたい、 有名になりたいとか、めっちゃ程度の低い話。それをやったらアカンって言われたらきつい」

〜〜〜

 

おもしろいと思ったのは太字下線の部分で、これって芸能人になりたがる頭のいたいやつだけに限った話ではなく、現代人の二大特徴の一つになっているような気がするのだ。

 

もう一つの特徴は、やっぱり紳助の話に出てきていて、下線太字に対してアカンという人達。

 

人の数だけ生き方がある、なんて言うことがあるが、目指していることや、やりたいことには、あまり違いはないのかもしれない。

 

ただ結果として、様々な生き方が存在してるだけで、本当はそんな生き方したくなかったと思ってる人が多いのかもしれない。

 

 

 

現代人が何か一つから悪影響を受けているとしたら悪者にされるのはスマートフォンだろう。

 

スマートフォンが普及する前だったらパソコンで、それ以前だったらテレビやラジオや読書だった。

 

これらはすべて情報の伝達で、スマホもパソコンもテレビもラジオも読書も、伝える情報はピンからキリだが、時代が進むほど双方向性が高まり、そのために要する時間の短縮化が進んだ。

 

ここまでは誰でも理解できるので、情報の質が大事になると思うようになる。

 

どんな媒体で流通してる情報なのか、どういう種類の人達の間で共有されてる情報なのかを含めて情報の選別や取捨選択が大事だと考えるようになる。

 

このような行動は情報処理と呼ばれる。

 

接する情報の質と、接した情報の処理の質、この二つを高めることでより高みにアプローチできると考えるのは自然なこと。

 

しかし、その結果が紳助が言うところの、

 

夏の虫みたいなもの。明るいところに飛んでいくだけ。モテたい、お金持ちになりたい、目立ちたい、 有名になりたい

 

を目指させてるとすれば、あるいは、そんな動きに対してアカンとリアクションすることしかできないとすれば、それはもっと別の何かの影響を受けていると思えてくる。

 

 

情報と関わるとその処理にかかる時間が発生するが、その時間が単独で注目されることは少ない。

 

情報と関わるとその処理に時間を奪われるのだ。

 

そのトレードオフの代表が睡眠時間だ。

 

 

睡眠時間の推移を示すデータは探せばすぐ出るが、グラフで見てもピンとこないので記事を引用すると、

 

 

戦前、戦後、今と、時代の推移とともに睡眠時間は急速に減っています。NHKが1960年代から実施している「国民生活時間調査」のデータも参考に見てみましょう。

 

今、国民の9割がベッドに入っている時間帯は「深夜1時」です。戦後間もなくは「11時」。起きる時間は今より1時間早かったので、2時間早く寝て1時間早く起きる生活でした。つまり1時間長く眠っていたことになります。

 

高度経済成長期(1955~1973年)に入ると、寝静まる時間は「午前0時」に。起きる時間も1時間遅くなったため睡眠時間は差し引きゼロで変わりませんでした。

https://toyokeizai.net/articles/-/248095?page=2

 

この記事は2018年の11月のもの。

 

睡眠時間は平均レベルでは短くなってるがビックリするほどでもないが、睡眠時間の格差が拡大してることは想像できる。

 

睡眠不足が判断力に悪影響を与えるので車の運転をする場合には睡眠が大事とは言われるが、具体的な事例として多くを知ってるわけではないので検索すると、次のような睡眠不足と脳の関係を調べたBBCの記事があった。

 

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-40517239

オーウェン教授が、科学的に説明してくれた。「意思決定や問題解決、記憶で極めて重要として知られる前頭葉と頭頂葉の活動が、ぐっと減ってしまう」。

 

「睡眠不足は意思決定に、重大な影響を与えているかもしれない。家を買うとか、結婚とか、大事なことは睡眠不足の状態で決めない方が良いかもしれない」とオーウェン教授は言う。

 

 

 

現代人が、紳助が言うところの夏の虫みたいな行動を取るのは、接してる情報のせいだけではなく、それ以上に睡眠不足の悪影響なのかもしれない。

 

睡眠が不足して眠たくてしょうがない人はまだマシなのだ、眠りさえすれば解決するから。

 

厄介なのは、本当は睡眠不足なのに眠たいと思っていないので睡眠は足りてると思っている人々や、睡眠不足を自覚してるが寝ようとしても眠れない人々だ。

 

 

世間は8時間睡眠を一つの基準にするが、これは必ずしも絶対ではないので、自分に合った睡眠時間は試行錯誤で見つけるしかないのは厄介な点で、寝る前に質の高い睡眠とはなんて考えるだけで睡眠不足になりそうな気もする。

 

じゃあ考えるのやめようかと思ったら、ああそうかこれが夏の虫の生き方だと気付いた。

 

睡眠不足をナメてはいけない!

『ブログのオワコン化』を分析!

ネット上には事実ではない詐欺情報が多数あるが、末端の個人や業者がやってるだけとは言えない面がある、そういう話が暴走するネット広告には書いてある。

 

 

 

ここからしばらくは長い前置きが続きます。

 

 

あまり昔に遡ってもしょうがないが、ネット上の詐欺情報はスマホの普及と大きく関係してるだろうと想像でき、日本でのスマホの普及は2011年3月11日の東日本大震災の際に電話回線は規制されて使い勝手が悪かったのに対しインターネット回線は設備が生きていればそのまま使えたために、非常時に役に立つのはスマホだと一気に認知が進んだことが関係してるので、その頃の詐欺情報の状況を確認してみた。

 

そんな2011年頃から認知が進み始めたことばにステマ(ステルスマーケティング)がある。

 

GoogleTrendsで確認すると2011年の夏頃から検索されるようになっていることと、ステマという短縮形で使われていることが分かる。

 

GoogleTrends 「ステルスマーケティング」「ステマ」2004年以降

 

ステルスマーケティングの起源を調べるとソニーが使う手法だと出てくる。

 

1970年台後半にソニーがウオークマンのプロモーションで使った手法が元祖で、昔ながらの日本によくあるサクラ行為をお手本にしたものとする説と、それよりもずっと以前にアメリカにトランジスタラジオを売込みに行った際に取った手法だとする説が出るが、いずれにしても元祖はソニーらしい。

 

その後、当然の如く日本の大手広告代理店が芸能人を使って展開するようになるのだが、日本人には馴染みが深いから、騙されても気がつかない人も多いかもしれない。

 

ステルスマーケティングが問題になり出した2011年〜2012年頃は一流芸能人とは言えないが有名な芸能人を活用して展開されていて、テレビの通販番組と共通する雰囲気が漂っていた。

 

しかし、2012年に発覚して大きな社会問題になったペニーオークション詐欺事件以降は芸能人はステルスマーケティングには警戒するようになり、露骨なことは表面上は減った。

 

代わりに台頭したのが、今で言うインフルエンサーと呼ばれるカリスマ性を持った一般人や、アクセス数の多い情報メディアに移って行った。

 

そして嘘の情報が次に大きな社会問題になったのが2016年の末の

WELQ(ウエルク)問題

 

welq謝罪

 

 

 

根拠が無かったり、明かに虚偽の健康関連情報を多くのライターに報酬を与えながら書かせてアクセス数を稼ぐことをやっていたことが上場企業のDeNAで発覚したのだ。

 

そして、この流れを受けて嘘の情報はフェイクニュースと呼び名を変えて勢いは衰えを見せずに続いているのだ。

 

末端の個人を騙すイメージがあるフェイクニュースだけでなく、法人も騙そうとするのがアドフラウド。

 

アドフラウドとは、個人だけでなく法人も騙す広告詐欺を指す。

 

アドフラウドという聞き馴れないことばをGoogleTrendsで見ると、

 

 

GoogleTrends「アドフラウド」2004年以降

 

 

ピークは2018年の9月。

 

この時何があったかというと、ヤフーがアドフラウドの対策強化を打ち出したのだ。

 

ヤフー、アドフラウド対策を強化

https://about.yahoo.co.jp/pr/release/2018/09/20m/

 

 

業界全体で対策が必要なことは意識されてるが、モグラ叩きといたちごっこを繰り返しているようにも見える。

 

 

以上が暴走するネット広告を読んでの前置き。

 

 

これらの現象から感じられることや見えることを語ってみたい。

 

 

デジタルは中間に存在する業務をゼロにする(していく)ので、中間に存在していた事業は成り立たなくなるというか成り立たなくさせてしまう。

 

現実社会の格差も、格差の拡大や両極端化という観点で見るよりも、中間層の消失という観点で捉える方が的を射るような気がする。

 

 

『趣味や遊び(自由)』『仕事やビジネス(義務)』、という無限のグラデーションも中間が消失してるとすれば、どうなっていくだろうか?

 

すべてが、体裁上は自由(化)に向かってるように装いながら、実際には仕事化ビジネス化し義務化されたものにシフトしてるようにも見えてくる。

 

つまり、遊びや趣味を含めて全ての人間活動が事業化し、そんなつもりがあろうが無かろうが全ての人が事業者にならざるを得ないのかもしれないと思えてくる。

 

 

そして更に、そんな中間に存在する消滅を余儀なくされる事業(者)が生き残りを模索する時に何を考えるか?

 

おれおれ詐欺のような存在が手を替え品を替え無くならないことや、つい最近話題になったドコモショップのような存在は、増えこそすれ減ることは無いだろうと思えるのは、中間に位置する存在が必死でもがいているからだ。

 

来店客を“クソ野郎”と侮辱する不適切メモで炎上した「ドコモショップ市川インター店」を運営する兼松コミュニケーションズとNTTドコモが謝罪 

証拠の画像を投稿した桝本氏も『画像からは独自回線ではない子回線契約を「クソ野郎」とみなしていること、出費に無頓着、言い換えれば「騙しやすい」と思われていることが読み取れます。』として『これは一業者のミスではなく、業界の意識をよく表しているメモだと思います。』と合わせて投稿していました。

 

 

今世間で起きてることは、そんな中間層が模索する動きだとすれば、少々混乱してるように見えるからと目くじらを立てても、結局いたちごっことモグラ叩きを繰り返すことにしかならないと感じられる。

 

 

例えばブログ。

 

好きでやってる趣味や遊びのようなものだとを謳いながらも実際には義務化したものが非常に増えているように感じられるのも中間が減ってることの現れに見える。

 

いつの頃からかブログのオワコン化という声を聞くようになった。

 

GoogleTrendsで『ブログ』『オワコン』を見ると、

 

GoogleTrends 「ブログ」2004年以降

GoogleTrends 「オワコン」2004年以降

 

※この2つを同時に比較すると圧倒的に『ブログ』が多いので別々に表示したが注目して欲しいのは時間的な経過の方

 

 

ブログは安定して高い推移を見せてるがピークは2013年頃で、オワコンは2011年に入って急速に上昇し始めた。

 

ブログがオワコン化したと言われるようになったのは、趣味や遊びで普及したブログがいつの頃からか事業として収益を上げる対象として捉えられるようになったからだと思えてくる。

 

つまり、儲かると思ってブログを始めた人が儲からなかったら、「もうブログは儲からない、オワコンだ」と言っても不思議はない。

 

 

デジタルが本当に中間を消滅させるならば、世の中にはモノ(サービスやコンテンツも含む)を作る人と、モノを消費する人の二種類だけになる。

 

もっと正確に言うと、作る人は消費もするので、作るだけの人は存在しなくなるが、逆に作ることなく消費のみを繰り返す人は存在することになる。

 

よほどの金持ちでない限り、中間が無くなれば、何かを作る(造る、創る)に関わることが必要になる。

 

このように考えると、オワコンと言われてるものの中には本当に役割を終えたものもあるだろうが、実際にはサーフィンをするように波を乗り換えているだけで、乗り捨てた波をオワコンと呼んでるだけで、その乗り捨てた波は、別の人にとってはこれから乗る波だったりするのが珍しくなくなるのだ。

 

 

今、何を作っているのか?

 

これから、何を作るのか?

 

そういうことを意識するのが重要になっている。

2020年の地震展望!

大地震の兆候が出てるらしい。

 

【巨大地震】村井俊治・東大名誉教授が警鐘!「東日本大震災の約2か月前と同じ兆候が現われました」

村井教授は「11月中旬、東日本大震災の約2か月前と同じ兆候が現われました。震災以降初めての出来事で、2020年は東日本大震災と同規模の地震が起こる可能性があると危惧しています」と述べ、昨年後半から大きな地震の兆候が出てきたと指摘。

 

1月下旬頃に警戒するように呼び掛けていました。

 

 

 

wikipediaの地震の年表_(日本)を見ると、日本では常にそれなりの規模の地震が起きていることが分かるが、リアルタイムで経験する震度5を越えるような地震は体験者にトラウマ級の一生の記憶として刻まれるだろうが、歴史という観点からすると(村井教授の話によると)記憶に残るのは死者1000人以上と位置付けられるらしい。

 

文章である程度状況が詳しく残されてる最も古いものが400年ほど前になるらしい、

 

それ以降の400年間で1000人以上が亡くなった地震は30あるので、統計学的には13年に1回起きるという言い方が成り立つが、実際の発生は全くランダムなので、村井教授は地震予知に統計学的な読み方は全く無意味だと主張する。

 

 

1000人以上が亡くなった比較的最近の地震の発生は、

 

関東大震災が1923年、

 

北丹後地震(京都、兵庫)が1927年、

 

昭和三陸地震(三陸沖地震)が1933年、

 

鳥取地震が1943年、

 

東海南地震(静岡〜三重)が1944年、

 

三河地震(三重)が1945年、

 

南海地震(中部地方〜九州)が1946年。

 

※1939年〜1945年は第二次世界大戦の時期とも重なっている

 

 

短い期間に頻発してることが分かるが、この後しばらく途切れることになる。

 

そして、次の死者1000人越えの地震は記憶に新しいものになる。

 

50年ぶりに発生した阪神大震災の1995年、

 

阪神大震災から16年ぶりの東日本大震災は2011年。

 

 

これらの事例は統計学的にみた13年に1度が如何に当てにならないかということを説明するとともに、死者を多数出す地震は何らかの条件が重なると短い期間に頻発する可能性が高いと気付かされる。

 

頻発する地震は連動して起きると考えた方が良いかもしれない。

 

 

南海トラフ大地震の恐怖を煽る話は多く、政府も情報を発し、NHKでも番組が作られるほどだが、情報が増えたことで逆に警戒心は薄れてるかもしれない。

 

童話の狼少年の話に似た状態になっているかもしれない。

 

統計的なデータに踊らされると疲れてしまうだけだ。

 

 

村井教授は地震予測ができるかどうかは、前兆現象を掴めるか掴めないかで決まると言っている。

 

 

 

 

2020年の1月は要注意月間と言えるかもしれない。

 

新たな動きがあれば村井教授はTwitterに情報を上げてくれるだろう。

 

二匹目のドジョウ!

昨日のブログで紹介した暴走するネット広告を読むと言いたいことがたくさんあるような気がしてくるが、その前に気持ちを整理する必要があるなと感じたので、備忘録的に整理してみた。

 

 

起きて欲しいことや望むことがあると、その再現性や再現率が気になる。

 

こんなこと考えているのは世界で自分一人くらいだろうと思えれば、再現なんて考える必要はないので、ガムシャラに突っ走ってしまうことが似合うが、再現性とよく似た実現性が頭に浮かんでしまうと、費やされるであろう時間やコストを天秤に掛けるようになる。

 

再現性や実現性を考える時には、無意識に確率めいたものを考えようとする。

 

そうなると、確率を高めることが、生産性の高さであり効率の良さとなるのだ。

 

再現性や実現性として考える場合は、対象になるのは比較的ポジティブに捉えてることに対してなのに対し、確率として考える場合には良いことにも悪いことにも当てはめてしまう。

 

 

病気が心配な人は、病気の死亡率を気にすることが多いが、そもそも人間に限らず生き物は100%死亡するので、死亡率は100%なのだ。

 

それを踏まえてネットを検索して、根拠や裏付けはさて置き、いろんな確率を拾ってみた。

 

シートベルト非着用者の死亡率は、着用者の14倍。

 

俗に寿命が尽きたと捉えられる死亡は世に多数あるのだろうが、現在の日本では死亡理由が必要になるので、なんらかの病気というか原因が当てはめられる。

 

寿命が尽きた人の死亡は、心臓が止まった心不全と病名が付けられる。

 

 

日本の場合ではなく世界の場合だが多い順にあげると。

 

寿命が尽きた以外の心臓病で亡くなる方は、5人に1人。

 

ガンで亡くなる方、7人に1人。

 

脳卒中、23人に1人。

 

ちなみに世界で最も人間を殺す生き物は、ダントツでなのだ。

 

蚊が媒介するマラリアが原因だが、今後地球温暖化の加速で日本でも警戒しなければいけなくなる可能性が高いだろう。

 

 

蚊は2016年のデータでは年間85万人を殺し、2位の人間の58万人を大きく引き離している。

 

 

少し脱線気味になったが、確率で考えることは縁起でもないことがよく似合うのは、起きて欲しくないことは起こりやすいというマーフィーの法則を思い起こすからかもしれない。

 

宝くじに当たるような起きて欲しいことは、確率通りには再現されないように感じられる。

 

欲に対してポジティブな人は、再現性にこだわる。

 

再現したいのは成功事例で、二匹目のドジョウを追いかけることだ。

 

特に二匹目のドジョウに執着するのが投資の世界の末端にいる人達に多そうだ。

 

日本では、欲が見え隠れする舞台では、イノベーションを起こすことを目指すよりも、成功体験や成功事例をなぞることを選ぶ傾向が強い。

 

だから、二匹目のドジョウはいるのか、いないのか?、そのことが重要になる。

 

 

暴走するネット広告を読むと、オレオレ詐欺に共通するものが感じられるが、オレオレ詐欺は100%個人が被害に遭うのに対して、広告の世界では個人だけでなく法人も被害者になる。

 

個人は、再現性のない広告内容に踊らされ、

 

法人は、流して欲しくない媒体に見えないようにされた広告を流され、広告宣伝費を詐取されている。

 

この本の中に描かれてる人々の多くは、加害者側であろうと被害者側であろうと、

 

自分にできることには限界があると訴え、まるで当事者ではないような態度を見せた。

「薄められた悪意」とも言うべきものがネット広告の闇の中に堆積し、広がっているというのが取材者としての実感だ。

 

 

と書かれてる。

 

 

ことわざとしての『二匹目のドジョウ』は、狙っても起きないという教訓なのだが、現在の日本ではそれを狙うことが王道化してるように感じられるのは、上記の引用にあるように、薄められた悪意が当事者意識も希薄にしてることにあるような気がする。

 

この流れに身を委ねることが賢いのか、それとも逆らった方が良いのか?

 

それとも上手く折り合いをつけた方が良いのか?

 

 

今日書いたことは前置きで、また暴走するネット広告を読んで感じたことを書いてみたい。

 

 

『幼児性』というキーワード!

今、静かにネット広告のあり方が変化しようとしている。

 

 

ネット広告「クッキー離れ」広がる 10兆円市場変調も  :日本経済新聞 2020年1月7日

クッキー離れ 日本経済新聞 2020年1月7日

 

 

ネット上でしばしば話題になるフェイクニュースは、上記の図の広告会社・データ分析会社の周辺で起きている。

 

フェイクニュースはクッキーを使うことよりも悪質だが、クッキーを使いことでフェイクニュースに誘導しようと仕組まれるので、それぞれ別の役割だが車の両輪のように連動して機能することが多い。

 

昨年出版された暴走するネット広告には、NHKのクローズアップ現代が取材した悪質なフェイクニュースの事例がその舞台裏への取材も含めて詳しく書かれている。

 

内情を知る者への取材ができたのは、良心の呵責があったからで罪滅ぼしになればと思ったからだというようなことも書かれていておもしろい。

 

 

 

 

 

 

フェイクニュースは詐欺と同列に扱われるが、手法は古典的でもあり、手口は時代に応じて変化するが根底には今も昔も共通する心理学が働いている。

 

暴走するネット広告を読むと、今の日本で情報商材と呼ばれてる分野の仕組みがよく分かるので、興味がある人は読むとおもしろいだろう、一部の世界でインフルエンサーやカリスマと呼ばれてる人種がトカゲの尻尾であることがよく分かる。

 

 

現代は自己責任の時代と言われる。

 

逆にいうと、世間は騙される奴が悪いと思ってしまう。

 

そして、自分や身内や仲の良い人が騙されたと分かった時だけ怒る。

 

無関係な人が騙されても痛くも痒くもない、自分には関係ない話だから。

 

ということは、意図的なグレーな騙しは増えていると思った方が賢明だろう。

 

 

従来フェイクニュースの扱いを受けていないものにもフェイクニュースはありそうだ。

 

例えば塾や予備校など受験と関係した世界では、合格すると錯覚させることで生徒集めという事業が成り立ってるところは多いだろう、教育分野に幅広く当てはまるだろう。

 

同様に、ネット上で目立つ『必ず儲かります』や『絶対痩せる・きれいになる』のように悩みを解決します系のものはフェイクと大して違わない世界観が漂う。

 

同じ謳い文句でもピンからキリまであり、まさに玉石混交だが、仮にお宝情報と出会えてもそれは活かされなければ結果は0(ゼロ)という意味では、最後は自分次第だ。

 

この最後は自分次第というのが曲者で、そこをフェイクニュースにつけ込まれているのだ。

 

最も大事な自分の頑張りを、お金を払うことで省略したいと思うのだろう、別の言い方をすると効率的に外注して生産性を高めてるつもりなのかもしれない。

 

お金を払うというのは簡単だが、そのお金を稼ぐのは簡単ではない。

 

お金を払うということは、自分の頑張りを示していると錯覚が起きることは不思議なことではない。

 

サービス業の基本は痒いところを掻くことの手助けだから、事業者はニーズに気付いたら放って置かないのは当然だ。

 

古典的な心理学が駆使されているのだ。

 

 

テレホン人生相談でお馴染みの加藤諦三先生は相変わらず含蓄のある話をしてくださる、自身のサイトで詳しく書いておられるが無断転用禁止と書いてあるのでリンクを貼っておきます、おもしろいです。

 

https://katotaizo.com/news/2020-1-1

 

 

〜〜1月11日追記〜〜

 

このリンク先のページ削除されてます、どうしたんだろう?

 

大人の事情が感じられます。

 

〜〜追記ここまで〜〜

 

 

 

今の時代のキーワードは幼児性と言って良さそう。

 

自己責任という大人の振る舞いが求められるが、その根底には幼児性があるのが現代人だ。

 

情報商材が次から次に生まれ、そのたびにその情報商材に騙される人が後を絶たないのは幼児性の為せる業だ。

 

幼児性を加速させるものに広告がある。

 

広告の煽りに反応するのが幼児性である。

 

 

世界に蔓延してる行き詰まり感や飽和状態感がそうさせているようにも感じられるが、ゆっくり動いてる大きな振り子が振れ切って動きが止まりかけてるようにも感じる。

 

 

幼児性を加速させる、時代という振り子の動きは、一旦止まった後は向きをどこに変えるかは分からないが、向きを変えて力強く動き出すはずだ。

 

 

振り子のように真反対とは限らないだろうが……。

 

 

幼児化した大人は、次はどこに向かうのだろうか?

ゴーンさんの会見と睡眠学習と初夢!?

不思議な夢を見た。

 

知人と法律が絡むトラブルを起こし、追い込まれているシーンで目を覚ました。

 

目を覚ます直前のシーンは、トラブルを起こしてる相手に勝ち誇ったように「今、検察からコメントが出た、それを読み上げる」と携帯を見ながら読み上げてるもので、このシーンで目が覚めた。

 

目が覚めると、枕もとに置いていたiPadから同じ文句が聞こえてきた。

 

瞬時に事態を悟ってホッとした。

 

 

 

昨夜、カルロス・ゴーンさんが逃亡先のベイルートで会見をしてるのが中継されていた。

 

少しだけ見たが、長くなりそうだったし、通訳が喋っているので分かりづらいこともあり、すぐに消して寝てしまった。

 

そしておそらく深夜3時頃だがトイレに起きて、その後で何気なくiPadでAbema TVを点けたら、ゴーンさんの会見の再放送と思しき番組を流していたので、点けっぱなしでベッドに入り少し聞いていたがやがて寝てしまった。

 

目が覚めたのは6時過ぎだった。

 

 

目が覚めた時に枕もとのiPadからはゴーンさんの会見に基づく番組が続いていて、その中で「今、東京地検の見解が出ましたので読み上げます」と言っていた。

 

 

と、結果的には笑い話だったのだが、夢の不思議の一端を見た気がしたのだ。

 

難しい理屈はさて置き、明かにゴーンさんの会見のやり取りが記憶の何かと結びついて、それが夢になっていたのだ。

 

結びついたというよりも勝手に一人で暗示にかかったと言った方が相応しいような気もする。

 

しかも、おそらくiPadから流れる音声を聞くと同時に夢と連動していたようなのだ。

 

ゴーンさんの会見を覚醒した状態で聞いたのは実際には短時間なのだが、起床後報道で会見の要約内容を確認するとその中に、裁判が遅々として進まないことへの不満があったが、その部分の影響が夢に強く出ていたような気がする。

 

夢の中でわたしは知人とトラブルを起こし、それを法的に解決しようとしてるのだが、相手が上手を行っていてわたしは自分が不利になっているのを感じ、だったらさっさと終わらせたいと思うようになっていた。

 

争いの原因など細かい部分は全く覚えていない(理由など不明のまま争っているところから夢が始まったような気もする)。

 

 

夢から覚めた時、ああ何も無くて良かったという夢はこれまで何度も見たことがあるが、そのほとんどがなんでこんな夢見たんだろう、何がきっかけだったんだろうかと思うものばかりだった。

 

普段は意識してないけど深層心理に刻まれていたのかななどと思うことばかりだったが、今回初めて、耳もとで実際に聞こえている音声の影響を受けていたんだと実感することができた。

 

すごく不思議な体験だったような気がするとともに思い出したのが、そういえば睡眠学習ってあったよなということだった。

 

日本では1960年代に枕にテープレコーダーを組み込んだ睡眠学習機器が発売され、1970年代には大ヒットとなり累計50万台を売り上げた。だが、この勉強法の場合ではテープに覚えたい事を吹き込む過程などで眠る前に記憶する事はあっても、睡眠中に聞くだけでは記憶する事はできないという認識が広まった事から睡眠学習機器は市場から姿を消した。

 

Wikipediaにはさらに続きがあって、世界では21世紀に入っても睡眠と記憶の研究は続いていると分かる。

 

睡眠と記憶の関係は、夢と現実の関係に似ている。

 

良い夢であれば問題はないが、気分の悪い夢を見た場合、呪われてるような恨みを買ってるような気持ちになってしまいがちだが、今回のような経験をすると、夢の中では何かの外的刺激がきっかけで、全く無関係な記憶の何かと無理に結びついて悪夢となっただけだと分かったので、良い経験だったと言えそうだ。

 

そう言えば、今年は初夢なんて考えもしなかったし、見もしなかった。

 

これが、実質的な今年の初夢だったのだ。