違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

電気は電線を流れて届いている

米カリフォルニアの山火事、すでに昨年の約20倍の規模になっていて、オレンジ色に染まった空の映像を見た人も多いだろう。

 

直接の原因は気温の高さにあるようで、それと雨が少ないので乾いた熱波となり、それが原因するのか雷が多発するので山火事が多いと言われてるようだが、それ以外にも興味深い一因として電気を送る送電線も関係してるらしいのだ。

 

カリフォルニアの火災に関する記事を読んでると、火事を防ぐために計画停電を実施という記述がよく出てくることに気づく。

 

ついつい読み流してしまうのだが、1年前の山火事を伝える記事の中に次のように書いてあった。

 

 

昨年、PG&Eの送電線からの発火が原因で山火事が発生し、同州史上最悪の被害が出た。PG&Eは、計画停電は数日間は続く見込みと発表した。

 

カリフォルニアには強風の予報が出ており、計画停電は送電線が落下して山火事の原因となるリスクを防ぐために行われる。

https://www.bbc.com/japanese/49996111

 

 

カリフォルニアでは電線が火災の原因になることの理由の一つとして高気温と湿度が低いことがあるとすれば、高温でも多湿な日本には関係ないかといえばそんなことはないのだ。

 

 

日本でも2016年に霞が関の官庁街など都心で最大59万軒の大規模停電が起きていて、それは埼玉県新座市の送電線火災が原因であり、何が原因だったかというと。

 

全長1000km 東電管内に埋まるのは経年劣化の“火薬庫”だ

「OFケーブルは電線の外側に油紙(絶縁紙)を何重にも巻いて、漏電を防ぐ構造になっている。大容量の電気を安定供給するために、高度経済成長期に急速に普及した基幹ケーブルです。当初は劣化は緩やかだとみられていましたが、さすがに30年、40年が経ち、最近は経年による絶縁性能の劣化を指摘する専門家も複数いた。劣化によるトラブルも、実際に何件か確認されていたらしい。起こるべくして起こった火災とみる向きもあります」(電力業界関係者)

 

 

大容量の電線(大きな鉄塔に架けられてるような電線)は、きっかけがあればいつでも燃えるのだ。

 

生活インフラの中心が電力であり、停電自体がまれにしか発生しないと、あって当たり前になり、無意識の存在になりがちだが、日本人の多くが2011年の東日本大震災で意識改革を一回は迫られたはずだがもう忘れかけてるかもしれない。

 

東日本大震災で東日本の電力事情は不安定なものになった。

 

日本全体に及ばなかったのは、西日本と東日本では電力の周波数が違ったためだ。

 

2011年を境に節電、省エネ意識が広まり浸透していった。

 

 

1世帯あたりの電力消費の推移

 

 

家庭部門用途別電力消費の推移

日本の電力消費   電気事業連合会

 

 

2011年以降、最近は無意識に節電傾向が定着したことが感じられるとともに、今も昔も家庭での冷房はさほど電力消費量は大きくないことがわかる。

 

 

カリフォルニアの山火事を見てると、日本の夏は湿度が高いことで不快感が高いのだが、そのことが無用な火事を防いでくれていることも感じられる。

 

 

湿度が高いことで守られてるものもあるのだと思うと、改めて何事にもトレードオフがあるなと思えてくる。

 

来年の夏まで猛暑とも縁がないかと思うと、猛暑も思い出に感じられてくるようだ。

一期一会と行き当たりばったり

YouTubeで少し前(と言っても数年前)に検索した時には、ほとんど何も出なかったミュージシャンの曲が久しぶりに検索するとたくさん上がっていた。

 

ライブ音源なども多数あり、コンテンツは一気に充実するなと思ったが、何気なく見たコメントにありがとうという文字が多いのでよく見ると亡くなられていて、それをきっかけに音源を持ってる方達が一斉にアップしていたのだ。

 

突然表舞台から消えるミュージシャンは珍しくないが、それが大好きな人だったら、ずっと魚の小骨が喉に刺さったままのような感じが残るが、久々に接した情報が訃報だとしんみりとさせられる。

 

ただ曲を知ってるだけだったのだが、そのことが一期一会に近かったのかなと思えてくる。

 

 

 

一生に一度だけの機会を一期一会と呼び、その由来は茶道の心得で今でいうおもてなしに近い意識とされる。

 

字面からは、人との出会いに使われる印象が強いが、素晴らしい人間関係は継続の上に成り立つとするなら、一期一会は人間関係には当てはまりにくい。

 

一期一会とは、再現性がないから成り立つことであり、かつその瞬間や最中にはそれが一期一会だとは気付けずに、後から振り返って『あれは一期一会だったんだ』としみじみ思うもののはず。

 

 

わたしは、これまでに二度の一期一会を経験している。

 

どちらも風景であり景色への感動だった。

 

出会った時には、再現性があると感じるので、必要だと感じた条件をリストアップし、その条件を満たすタイミングを狙う。

 

しかし、どちらも再現できなかった。

 

景色や風景は大して違わないはずなのに、受ける印象はまるで違う。

 

このような経験を何度かし、数年経ってふと『あれは一期一会だったんだ』と思うようになる。

 

わたしの場合、二度の体験はどちらも全く予期してないタイミングで出会ったものだった。

 

最初の一期一会はただの風景で知識は持っていたが、初めてであり突然だったから感動できたように感じてる。

 

二度目の一期一会は、人が織りなす街の景色だった。

 

街にいる人全員の気持ちが一つになったかのような気持ちになれたことがあった。

 

どちらも条件が満たされてほぼ同じ状況が再現されても、もう感動は得られなかった。

 

 

一期一会のために必要な条件を強いて挙げるならば、期待しないことであり予期や予想をしないことだろうと感じられる。

 

 

現代人は、何事も事前に情報を収集し、予定や計画を立てることが多いが、そのことが感動を減らしているのだと思える。

 

 

感動の頂点が一期一会にあるとするならば、行き当たりばったりも悪くないかもしれない。

上手の道具調べ!

もう11年前の出来事になるのが、スーパーコンピュータをめぐる事業仕分けの際に蓮舫さんが言った『2位じゃダメなんですか?』。

 

日進月歩と言われる技術の世界だが、ユーザーレベルではそこまで劇的ではないが、買い替えを検討する際にはより高性能を求めることは当たり前で、わたしは次の買い替え時期が最低でも3年以上はスペックが現役として通用して欲しいと願う。

 

10年前には買い替え後5年は現役であって欲しいと思っていた。

 

現役にもさまざまあり、史上最高も引退間近もどちらも現役だ。

 

 

 

最新の最高スペックの最高としての賞味期限は、どのくらいなのだろうか?

 

お気に入りのメーカーが決まってるならば次のモデルチェンジの時までとなるだろうが、メーカー問わず最高を求めると、現実的には半年程度なのかもしれない。

 

スペックが違うと体験はどの程度変わるのかは、買い替えを検討する際の最大の関心事で、体験の質が変わらないなら1位や2位どころか順位なんかどうでも良くなる。

 

しかし、最高スペックを手に入れるためにはそれなりのコストが必要なので簡単には手が届かないことと、最高スペックを使いこなせるだけの環境というお膳立ても必要になることがハードルとなる。

 

そう考えると、最高スペックを手に入れても、宝の持ち腐れで終わることの方が現実には多いのだと思える、スーパーカーのように見せびらかして自慢するためだけの最高スペックというものも多そうだ。

 

 

見えそうで見えないのが、世の中には最低でも最高スペックが必要になるという状況があるということだ。

 

次の話がおもしろい。

 

 

藤井聡太二冠「自作PC」の値段にパソコンマニアもびっくり

「大学などの研究機関や、動画編集を業務とする企業が使うようなパーツです。一般の家電量販店ではまず取り扱っておらず、ウチのような専門店じゃないと手に入らない。ましてや藤井(聡太、18)さんのように将棋ソフトのために購入した人は見たことがない」

 

 

将棋界で快進撃を続ける藤井二冠は棋譜の分析のためのパソコンを自作することで知られているが、9月10日付の中日新聞に掲載されたインタビューで、〈最新のはCPUに「ライゼンスレッドリッパー3990X」を使っています〉と明かした。

 

「CPUの性能で読みの速さが変わります。家庭用パソコンのCPUが1秒間に約200万手読むのに対し、藤井二冠が使っているCPUでは30倍の6000万手読めます。短時間でより多くの局面を検討できるので、効率よく研究できます」

 

 

6月の棋聖戦第二局では、藤井二冠の妙手「3一銀」が、将棋ソフトが4億手読んだ段階では悪手なのに、6億手読むと最善手になることが話題となった。

「普通のCPUなら10分以上かかるが、藤井二冠と同じものなら10秒で導き出せます」(同前)

 

 

 

 

この1ヶ月前藤井聡太さんはこんなことを言っていたらしい。

 

藤井聡太2冠が「Abema―」でチームを優勝に導き、自らは3連覇 賞金で「パソコンのパーツ集めます」 8/22(土)

チームとしての優勝賞金1000万円を3人で分け合うことになるが、使い道については「パソコンを(自作で)組みたいと思っていますので、パーツを集めたいです」と語っていた。

 

 

藤井聡太さんにとってのPCは道具に当たるのだろうと思うが、そこで思い出されるのが『弘法筆を選ばず』という諺。

 

技量が優れてる人にとっては、発揮するパフォーマンスは道具に左右されないという意味だが、この諺は現代では通用しないように感じられる。

 

反対の意味の諺として『下手の道具調べ』があるが、現代は『上手の道具調べ』が全然別の存在として成り立っているように感じられる。

 

 

私事だが、庭木の剪定を脚立に乗ってする場合など、ハサミのキレが良い場合とそうでない場合の違いは安全面にも大きく影響する。

 

道具は値段が高ければ良いってものじゃないと思って始めた剪定作業は奥が深かった。

 

メンテナンスとしての研ぎ方の差で生まれる切れ味の違いだけでなく、材質としてのハサミの強度も切れ味には関係する。

 

切れ味が違うと、作業中の体力の消耗までもがまるで違うのだ。

 

ハイスペックの度合いはともかく、良い道具は、使う人の体力や集中力というリソースの無駄遣い(≒ストレス)を減らす効果も高いのだ。

 

 

このようなリソースの無駄遣いを減らす場合は、道具の違いが作業のプロセスの質や結果にも大きく影響することが分かりやすいが、一方で人気Youtuberがハイスペックなカメラを使っているのはコンテンツの質を高めるためだと言われてもピンとは来にくい。

 

同様に、藤井聡太さんが使ってるCPUを用いたPCを使って作業してるからというだけでは、スーパーカーを持ってるだけの人と大して違いはないように感じられる。

 

 

道具のスペックと得られる結果の関係を考えていると、もう一つの諺が浮かんできた。

 

失敗は成功の母。

 

下手の道具調べで始まったことでも、継続してると失敗は成功の母となり、やがては上手の道具調べになるのではと思えてくる。

 

 

 

このような結論に達したので、今後は予算が許す範囲でスペックにこだわった道具選びをしていきたい。

 

なんでも短くなっている!?

大まかな流れとして短いものがますます好まれるようになっているのかもという話。

 

 

このツイートに寄せられてるリプも参考にすると、最近はYouTubeすら長過ぎていて、そのせいでTikTokのようなものが出ていると思わせられるし、そのことのせいかマンガの展開ですら4ページ以内のセリフ少なめという傾向があるらしい。

 

個人的には最近の音楽にはほとんど縁がないが、傾向としてはイントロは短めで、イントロ無しも増えてるらしい。

 

 

そういえば自分にも当てはまるなと感じるのは、昔の2時間ドラマが好きだったので再放送されてると見るが、展開がもっさりとしてるなと感じることが多い。

 

CATVなどで昔の映画を見ても同じことを感じることがある、『このシーンは無くてもいいんじゃね?』と感じたり、『むしろ、無い方が良い』と思えたりすることが多く、見終わった後の印象として、昔見ておもしろかったという記憶があるのに、『なんでこれがおもしろかったんだろう?』と感じるものすらある。

 

おもしろくないと感じる場合の多くは、展開のテンポやリズムに原因があるように感じられる。

 

映画は、映画館で映画を観るしかできない環境でなければ真に楽しめないものになってるのかもしれない。

 

テレビで放送される映画では、かつては途中で入るCMがジャマだったはずだが、最近は切れかけてる集中力をリセットする効果すら感じられる。

 

表面的な文化は、どんどん短くなる傾向にあるのかもしれない。

 

 

産業の傾向ですら重厚長大から軽薄短小であるように。

 

 

短いといえばミニスカートが浮かぶが、今はミニが標準で長いとロングだなと感じる。

 

Wikipediaによると、日本でのミニスカート元年は1965年とされてるようだが、

 

 

 

 

大まかな流れとしては、時代の傾向が短いに向かい始めて50年以上が経過してるのだ。

 

今生きてる人の多くは、その傾向にどっぷりと浸っているので、全ては無意識なはずだ

 

特に時間の短さが顕著だが、その短さに適応すると長いものは冗長(≒ムダ)に感じられる。

 

 

短くするために削っているのが何なのかがこれから問われてくる。

 

短いことは便利と結び付きやすい。

 

ドコモ口座を使った出金詐欺は、短いことが生み出す便利がセキュリティという安全マージンを削ったから起きたのだと思えば、諸刃の剣と気付く。

 

 

だとしても、当分は短いことを求めて世間は動きそうな気がする。

 

名前を呼び間違える心理

菅(すが)総理を頂点とする新政権がスタートした。

 

新政権の副総理で財務大臣の麻生さんが自身の派閥の会合でこんな発言をして話題になっていた。

 

 

 

これに対してネット上の意見は大きく3つに分かれていた。

 

  • 漢字を読み間違えるのは麻生さんのいつものこと

 

  • ウケを狙った

 

  • 本当は菅さんと仲が悪い

 

 

世間一般では、相手の名前を間違えることは失礼だと教えられながら育つことが多い。

 

だから、許されるのはよほど親しい間柄か、間違える側の立場が相当上に位置してるかだが、そのような場合でも間違い方次第ではしこりが残るはずだ。

 

仕事で営業をやってる人の場合、1回しか会ってない相手や数回会ってるが記憶に薄く暫くぶりに会うような人に対して、顔と名前が一致してるかはちょっとした心配事になることがある。

 

ビジネス本では、相手の名前を呼び間違えた場合に災い転じて福となすための詭弁が紹介されたりするが、『覚えてくれてないんだ』と相手は白けるだけだろう。

 

名前というのはアイデンティティそのものなので、親しき仲にも礼儀ありが求められることが多い。

 

 

一方で間違えてもなんの不快感もない間違え方もある。

 

身近な例で挙げると、姪(妹の娘)の名を母(姪の祖母)は妹(姪の母)とよく間違える。

 

最初は笑いながら間違いを指摘していたが、そのうちに『またやってる』と思うだけで指摘しなくなるが、間違われた本人も全く不快ではなさそうにしている。

 

子供が多い家庭では珍しくないだろう。

 

改めて考えると、このような場合には悪意や不注意や軽率さがないことがわかるから許容できるのだろうと感じられる。

 

このような場合、血がつながっているという意識がプラスに作用してることも感じられる。

 

 

どんなに関係が近くても、血がつながらない恋人同士や夫婦の場合、名前を呼び間違えることは致命的に関係にダメージを与えると言われる。

 

圧倒的に男性が犯す間違いが多いだろうが、寝ぼけてる時など油断してる時に起きがちだ。

 

 

ところで、名前を覚えるという作業は脳内では人間関係のカテゴリーごとに分類されてるらしい。

 

名前の呼び間違いは、そのカテゴリー内でしか起きないと言われる。

 

名前が似てるから間違うというよりも、分類してるカテゴリーが一緒だから間違えるらしい。

 

名前の呼び間違いには、まだまだ謎と不思議が多く隠れているように感じられる。

予約は束縛!?

Twitterのトレンドに予約戦争とあった。

 

 

この話題を巡って購入希望者と転売屋の間に戦いが起きているらしいのだ。

 

購入希望のエンドユーザーにとっては予約が取れるかどうかはとても重要なのだが、他の購入希望のエンドユーザーがライバルなのではなく、ライバルは予約合戦に参加する転売屋なのだ。

 

 

もし、予約を受け付けるという仕組みが無かったとしたらどうなるのだろうか?

 

 

昨日のニュースで東京都中央区での商品券販売が区役所のみで行われて大混乱になったと報じていた。

 

 

他の地域で類似したことが行われた際にはここまで混乱したことはなかったらしい。

 

何が違うかというと、

 

  • 他の地域では予約を受け付けていた

 

  • 販売場所は複数設けていた

 

 

要は、集中を防ぎ分散させることが無用な混乱を避けるためには大事だということ。

 

 

繁盛したり流行してることの象徴が行列だが、行列は嫌われる要素でもある。

 

たまたま通りかかって行列に気付く場合と、大人気で混雑してるのは当たり前だと知ったうえで見る行列は、受ける印象がかなり違うはずだ。

 

知らずにたまたま通りかかった人にとっては、その行列は新鮮な驚きだろうが、いつもの光景だと分かってる人は店に対しても列に並んでる人に対しても『もっと上手にやれば良いのに』ときっと思うはずだ。

 

ちなみにわたしは手続き等で行列や予約を受容れるしかない状況以外では、行列も予約も避けたいタイプだ。

 

性格だからとしか言いようがないが、行列を見た瞬間に気持ちが冷めてしまう。

 

めんどくさいことに、だからと言って予約するのも好きじゃないのだ。

 

 

それは、予約をすることも行列に並ぶことも、わたしにとっては束縛を強いられることだから。

 

予約も必要なく、行列や混雑が無い(もしくは許容範囲に収まる)時には、自由を満喫できてるような気になれる。

 

自由とは束縛がないことだが、これが結構不自由なものだと、昔オートバイに乗り出してから気付いたが、これが性に合っていたのだろう、オートバイに乗らなくなってずいぶん経つがこの性分だけは何事にも出てくる。

 

 

ところで、行列や混雑に上手に対処することの一つが予約なのだろうが、ビジネス的な言い方をするならば、需要の先食いとなるのだろうか?

 

人気のあるホテルや飲食店で、ずっと先まで予約で埋まってるという話はコロナ前は珍しくなかった。

 

そのような場合、予約につながる評価の高さはどこに宿っていたのだろうかと興味がある。

 

 

予約を需要の先食いだと捉えるとあまり良い印象はないが、投資家が投資を考える場合には重要な指標になる。

 

予約の絶えないビジネスにすでに投資をしてる投資家は、最後は利益確定のために高値での売却を考えるだろうが、予約が多いことは売却額にプレミアムを付ける効果がある。

 

予約が絶えないビジネスは、テレビや雑誌でも取り上げられることが多いが、この辺も投資家やその意を受けた広告宣伝業界との結びつきが感じられる。

 

キャパシティ以上のものを受容れることは出来ないので、オーバーフローは予約という形で先延ばしで受容れる現代のシステムが、過剰に投資家や株主に振り回された結果の、予約ビジネスの真実なのだろうと思えてくる。

 

そんな仕組みを利用するエンドユーザーの価値観と一致してる限りは何の不都合もないが、わたしのような予約や行列が嫌いな人間からすると、先の予定で自分を束縛まみれにすることがそんなに楽しいだろうかと疑問に感じてしまう。

 

東京23区の飲食店の時短営業が緩和されたことを受け、一部で予約は活性化すると思われるが、コロナのせいでそもそものキャパシティが下がったことを考えると、投資家にとっては予約ビジネスはもはや魅力を感じられないのかもしれない。

出版界と消費税の一般人には見えない戦い!

大きな書店に行き、膨大な数の本を見てると、これらの本はどのくらい売れてるのだろうかと気になる。

 

出版不況と言われて久しい上に、ネット上のコンテンツも膨大であることを考えると、誰がこの本を買うのだろうかと思える本ばかりが目につく。

 

これは、逆にいうとわたしの守備範囲がいかに狭いかということを示してもいる。

 

 

目的を持って本を買いに来た人にとっては、膨大な選択肢の中から目的の本を選ぶことは満足度が高い気もする。

 

売れてる本しか置いてない場合、本屋に入って探すまでもなく目的の本が目に入ると、その本は色褪せて見えるような気もする。

 

大きな書店が膨大な本を陳列する理由の一つに、ほっといても売れる本をさらに売るためには引き立て役になる本がたくさん並んでることも必要なんだろうなと勘ぐりたくなる。

 

引き立て役になってるように見える本でも需要はあるのだが、わかる人にしか分からないし、出版界の中の人しか分からないのかもしれない。

 

 

 

ところで、そのことと本の価格の表示をめぐって今、一部で論争が湧いていることをご存知だろうか?

 

 

 

 

 

出版界にとっては消費税が導入された際やその後の税率変更は、その度に本の売れ行きを悪化させていたらしいのだ。

 

このことがマイナー本をますますマイナーに追い込んでいると、業界の中の方たちは感じているようなのだ。

 

 

 

 

 

 

こういうことって一般人はなかなか気付かないし、本の売れ行きが芳しくないと聞かされると、Amazonやブックオフがどうのこうのと語ったり、インターネットがどうのこうのと結論付けたくなるが、上記のように違う見方があるらしいのだ。

 

 

総額表示の義務化は今に始まったことではなく、最初にスタートした頃から出版書籍業界にとってはとりわけ辛いシステムと映っていたらしいことを伝える話があった。

 

書籍が総額表示にできない3つの理由  2004年4月28日

●理由1 点数が多い。

●理由2 メーカーが価格を決めている。

●理由3 長期にわたって流通する。

 

 

 

詳しくは本文に目を通していただきたいが、確かに本というのは他の商品に比べて異常に商品寿命が長いという特徴があるため値引きして処分という販売形態が馴染まないということはなんとなく理解できる。

 

価値観が多様化したと言われ、何事も裾野の拡大が話題になることが多い中で、ひっそりと裾野を閉じている分野もあるのだ。

 

廃墟化された建物や廃線になる鉄道は、明確な需要の減少が顕在化するからだが、細々とした需要で保っている分野は少しの経費の上昇が採算性を破壊するのだと分かる。

 

少し前まで本屋の天敵は万引きだと言われていたが、今や消費税の、しかもその表示のさせ方を巡ってだと言われていることが、重症化したコロナ患者のようでもある。

 

大半の人にとっては、どうってことなく過ぎ去ることが、とんでもない大問題になる場合があるのに似ている。

 

大半の事業にとって消費税は税率が負担や障害になることはあっても、表示を巡って問題化することは稀だろう。

 

 

今、本屋を含めた広い意味での出版書籍業界は、他の業界の方には共感を得られにくい問題に直面している。