違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

コロナのことを考えていたらコックリさんを思い出した!

コロナウイルスが怖いのか、それとも情報のキーワードとしてのコロナウイルスを怖れているのか?

 

一度目の緊急事態宣言では街から人が消えたが、二度目の緊急事態宣言では街から人は消えない、そんな様子を見てると、これが空気の違いなんだろうなと思えてくる。

 

最初の緊急事態宣言の時は、その直前の志村けんさんの死が空気の形成に大きく影響していたはずだ。

 

 

GoogleTrends『緊急事態宣言』『志村けん』

 

 

この時は、コロナウイルスは突然人の命を奪う悪魔だという空気ができたはずだ。

 

有名人であり、超お金持ちゆえに、最高峰の医療が提供されたはずなのにという先入観もあっただろうが、コロナウイルスにはそれが通用しないという空気だったかもしれない。

 

 

それ以降の事態の推移をみていると、コロナウイルスは怖いのか怖くないのかが分かりづらい存在として認識されるようになった。

 

身近に、実際に付き合いのある知り合いが罹患しない限り存在そのものを疑問視するようになって当然だろう。

 

コロナはオカルト的な存在であり、祟りのようなものですらあるような気がしてくる。

 

もっと言うと、ある程度以上の年齢の方だと子供の頃に経験したコックリさんで悪いお告げをもらったような場合と同一視するかもしれない。

 

1970年代にはつのだじろうの漫画『うしろの百太郎』の作中でコックリさんが紹介され、少年少女を中心としたブームになったこともある。子供たちが学校などで面白半分に行うケースが多発し、その時代を知る人々は、「絶対にやらないように」と強く警告を発しているケースも多々見られる。生徒への精神的な影響もあり、教師が保護者を含めて厳重注意することもしばしばある。

 

 

表向きはバカにして信じないように振る舞っていても、内心はビクビクするような状態が共通してると言えるし、ビクビクの度合いが酷くなると実際におかしな症状が出て社会生活に差し障る場合も起きていたことを思い出す。

 

あれもやっぱり空気が作り出していた現象なのだろうか。

 

わたしが通っていた中学校では、授業が中断されてコックリさんが議題になった職員会議が開かれたこともあった。

 

コックリさんに祟られたと精神病院に入院する子が出ていたらしいのだ。

 

しかし、そんな職員会議の最中にも教室ではコックリさんが行われていて、突然泣き出す女子や急にオロオロする男子が少なくなかったことが思い出される。

 

当時クラスに必ずいたのが霊感の強い子でほとんどが女子だった。

 

突然震えながら泣き出した女の子を見て、霊感少女が『〇〇君(わたしのこと)、あなたの学生服をその子の背中にかけてあげて』と指示した。

 

わたしは、『学生服に悪霊が乗り移らないか?』と聞いたら、『ちょっと待ってコックリさんに聞いてみるから』と言い、コックリさんに聞き、『大丈夫だから、早くかけてあげて』と指示された。

 

当時のわたしは、半分疑問に思いながらも半分は信じていて、この空気の流れに抗うことはできなかった。

 

その後しばらく、学生服を着るたびに背中がゾクゾクしていたことを覚えている。

 

 

 

コロナウイルスが本気でコックリさんのようなものだなんて思ってないが、二つの空気があるのだ。

 

コロナを意識した行動を取れという空気と、コロナなんて関係ないという空気だ。

 

どっちが正しいのかは未来の人が判断するのだろうが、現代人は新たな空気を無理やりもう一つ作ろうとし始めている。

 

主に自主性に委ねられていた対応策に対して罰則が検討されている。

 

 

コロナ対策に罰則必要? 「ムード便乗危険」―私権制約に慎重論・識者ら  2021年01月18日

「国家が強い対応を取れば、社会の目も厳しくなる。それは良いことばかりでない」とも指摘。「悪いのはウイルスなのに、『自粛警察』のような店への嫌がらせや、感染者への差別を正当化するムードが生まれないか不安だ」と懸念した。

 

 

 

空気が作り上げた束縛から罰則での束縛へのシフトが起きようとしているのだ。

 

 

コックリさんが議題で開かれた職員会議と、コロナで右往左往する国会がダブって見えるのは私だけだろうか?

 

不特定多数から特定少数へ

営業や取材などで強引な行動をする場合の象徴として、相手の都合を一切無視して行動することを夜討ち朝駆けという。

 

待ち伏せの場合もあれば突撃の場合もある。

 

当然ながらアポイントはない。

 

ここではたと思ったのが、20世紀ってアポイントは取らないことが多かったなあということだ。

 

突然訪ねて、相手が不在だと困る場合には前もって電話をかけるなどしていたが、相手の都合を慮ってのことではなく、自分の空振りを恐れての確認だったような気がする。

 

だから相手が法人ならば、朝9時から夕方5時の間なら空振りはないだろうと考え突然訪問するなど当たり前だった、相手の方も事前にアポイントを求められることに不慣れな人が多かったように思い出される。

 

突然訪問する、いわゆるアポなしが、当たり前だった時代には夜討ち朝駆けは熱意の現れだと理解され、迷惑だと感じたとしても止められるものだとは思えなかった時代があったことを覚えている。

 

しかし、少しずつ時代は変化していた。

 

家庭の玄関先に『訪問販売お断り』というシールが貼られたりするようになった。

 

その背景にあったのは当初は、『見知らぬ人に家を覗かれたくない』という思いだったように記憶しているし、押し売りを警戒してのものだったとも記憶している。

 

夜討ち朝駆けや押し売りに対抗するために、アポイントが静かに求められ始めたが、ITやインターネットがない時代だと口コミで伝わる情報にはとても価値があったので、アポイントがないからと一律に断るわけではなく、訪問者の身なりや口調で判断されていたように記憶している。

 

 

 

そして現在、アポイントは当たり前になった。

 

徐々に変わったはずだが、途中の経過の記憶は曖昧だ。

 

マナーとしての空気が変わったのだ。

 

携帯電話が影響してもいそうだ。

 

 

他にも変化したことがあるはずだと考えてみた。

 

アポなし訪問が当たり前の時代には、営業に携わる人はお客は無限にいると思えていたような気がする。

 

営業は断られることが嫌だが、無限の客がいる中で100人や1000人に断られても大したことないと、気持ち一つでモチベーションの回復を図ることはいくらでもできたような気がする。

 

しかし、アポイントが必要になると、とても無限の客がいるとは思えなくなってくる。

 

このようになってくると、不特定多数から特定少数へとターゲットが変化してくるのは当然だ。

 

つまり、リストや名簿が価値を持つようになるのだ。

 

今と違い、20世紀の電話帳はとても分厚かった。

 

誰でも使えるリストが電話帳だったのだ。

 

有料で各種のリストを売ってる名簿屋が大きな注目を浴びたこともあるが、大元になる名簿データは顧客データをこっそり名簿屋に売るという社員がいるから成り立っていたという背景も無視できない。

 

21世紀に入ると、詐欺の被害に遭った人のデータがカモリストとして取引されると話題になったこともある。

 

一度被害にあった人は二度と同じ失敗をしないように感じるが、実際には同じ人が何度も引っかかるらしい。

 

引き合いに出した事例が詐欺というのもなんだが、攻めの営業を展開したい場合は、現在は不特定多数をターゲットにするというよりも特定少数をターゲットにしてるのだ。

 

一方で、不特定多数を想定したビジネスの主流はネット上で展開されていて、釣りのように餌を撒いた後は待つだけというスタイルになる。

 

餌に対しての食いつきが悪い場合は、釣り糸を垂れた場所にそもそも獲物がいないか、餌が悪いか、釣り針のサイズと獲物のサイズの不一致がおきてるなどが想像できる。

 

このように考えると、ネット上であったとしても、ごくごく一部を除くと、ターゲットの絞り込みは必要になるのだ。

 

 

どんな商品やサービスを展開していても、頭で想像するよりもはるかにターゲット顧客は薄い層になってるはずだと思える。

 

 

井の中の蛙大海を知らず

 

 

この諺と逆のことが起きているのだ。

 

 

大海に乗り出してるつもかもしれないが、実は井戸でチャプチャプやってるだけかもしれないのだ。

 

 

 

この世は予想と予測で成り立っている

野球を例にあげると、ピッチャーはバッターに打たれないように予測しながらボールを投げる。

 

あるいは打たれたとしても、ヒットにはならないように予測しながら投げる。

 

逆に考えると、バッターの実力や狙いを予想し予測してるのだ。

 

 

一方、バッターはピッチャーがどんなボールを投げてくるかを予測しながら待ち構える。

 

気持ちの上では、どんなボールが投げられても打ってやろうと意気込んでるかもしれないが、実際に打てるのは打ちやすい球が投げられた場合がほとんどになる。

 

ピッチャーが投げ損じをするように、バッターにも打ち損じがあるが、最も高度なプレーが展開されるプロ野球の世界では、バッターの打率が3割だとバッターの勝ちだと考えられる。

 

では、初めて野球をする場合はというと、ピッチャーにとって最も重要なことはバッターを打ち取ることよりも、ストライクが投げれることになる、そうでなければゲームが成立しないからだ。

 

バッターはバッターで、ただバットを振るという行為が簡単ではないことに直面するだろう。

 

ピッチャーもバッターもいろいろなことを考えているだろうが、その大部分は実力が付いてくるほどに、予想や予測が多くを占めるようになる。

 

それは経験を踏まえての意識的な備えとして始まり、練習や実践の繰り返しで無意識のレベルまで高まるし、レベルが上がると独自の勘も冴えるようになるだろう。

 

この場合の勘とは、当てずっぽうではない高度な予想や予測で、当人ですら理由は説明できないかもしれない。

 

スポーツは予想や予測で成り立っているのだ。

 

 

レスリングのように組み合って勝負する場合、相手の動きは見えてない場合があるだろうが、組み合ってる際の相手の微妙な力加減の変化で相手の状態や狙いが予想予測ができてるはずだ。

 

 

しかしながら日本では、このような予想や予測に基づく競争や争いは、気合や根性だとすり替えられる。

 

 

 

この理屈は、人間活動のほぼ全てに当てはまってもおかしくない気がする。

 

予想や予測と考えると、予知や予言をイメージする場合もあるだろうが、大きなことをド〜ンと言い切ってしまうような予知や予言とは違い、短時間に状況に応じて小刻みに修正が繰り返されるようなものをイメージしてほしい。

 

予想や予測とは、危機管理でもあるので、対処法は常に複数の想定が成り立つ。

 

最もオーソドックスなプランAに対して、機を見てのプランBやプランCなどだ。

 

 

 

予想や予測に基づいて行動してるつもりがないことでも、実は予想や予測に基づいてることがほぼ全てかもしれない。

 

予定を立てて行動することを予想や予測だとは誰も思わないだろうが、突然大地震があれば、いきなり事故や事件に巻き込まれれば、予定なんて気にしてる場合ではなくなる。

 

ほぼ同じような情報を持っていても、その情報に基づいて取る行動は人によって大きく違うことを私たちは経験で知っている、予想や予測が違っているからだ。

 

予想や予測の違いの前に、知識や経験や思考の違いがあるものだ。

 

人の数だけ人生があるのは、人の数だけ予想や予測が存在してるからだ。

 

予想や予測をする場合、そこには心が介入する余地が生まれる。

 

心が介入すると、予想や予測は、ポジティブかネガティブかという尺度が適用される傾向にあるが、もし危機管理的であることが求められるならばネガティブである方が正しいはずだ。

 

コロナ禍で、予想や予測が大きく狂った人が大勢いるだろう。

 

一般人であろうと、大企業の経営者であろうと、政治家であろうと。

 

 

コロナ後は、コロナ前に戻ることはない、と言われることが多い。

 

これも予想や予測だ。

 

では、どんな未来を予想予測してるかというと、コロナ前には戻れないと強く言い切るほど明確に示すことができ、且つなるほどと思える意見や考えの持ち主はいないように見える。

 

どうなるかが本当にわからない場合の予想や予測は、どこかの誰かが言ったようなことを真似することが多い。

 

このようなことを考えていると、歴史は繰り返すということばの意味がわかるし、さらにいうと、鴨長明が方丈記の冒頭に記したことばが沁みる。

 

 

ゆく河の流れは絶えずして、

 

しかももとの水にあらず

 

 

よどみに浮かぶうたかたは、

 

かつ消えかつ結びて、

 

久しくとどまりたるためしなし

難しいことは考えたくない人が増えている!?

自分のために備忘録的に整理した話。

 

テレビを見ない人が増えている、いわゆるテレビ離れが進んでいると言われるが、アプリやYouTubeなどでのテレビ以外でのテレビコンテンツの視聴もテレビに含めると、まだまだ多くの人がテレビから離れてないと思っていた。

 

同様に、ネット上のニュースでコタツ記事(ライターがコタツに入ってテレビを見ながら、その番組で聞きかじった話をちょろちょろとまとめたような記事)を多数見かけるので、ニュースソースとしてのテレビはまだまだ影響力が強いと思っていた。

 

 

だからこそ、テレビ界では視聴率が尺度として重要だと思っていたが、そんな流れにも大きな変化が始まっているらしい。

 

テレビのCMを見てると、金融機関のCMは少し前まで退職金をターゲットにしていたものが多かったのが、いつの頃からか相続をターゲットにしてるものにシフトしていた。

 

他にも、通販系の健康関連のサプリやグッズや介護や葬儀のCMも増えていく様子を見ていると、金持ちなのは年寄りだから、年寄りの財布を狙った商品が盛んに宣伝されてるんだろうなと思っていた。

 

さらに、テレビ番組をテレビで見るのは在宅率が高い人なので、視聴率の高い番組は年寄りの視聴者の割合が高くなってるはずだ。

 

このような解釈は、コロナ前だと半分常識化していただろう。

 

しかし、コロナに関係なくその常識は当てはまらないと思われるようになっていたようなのだ。

 

類似した商品が増え過ぎたことも関係してるかもしれないが、年寄りの財布の紐が固くなってきたのだろうが、視聴率が高いからといってスポンサーはCMの効果を感じられなくなっていたようなのだ。

 

視聴率の高い番組はCM料金も高いため、逆にスポンサーが嫌がる傾向が出ていたらしいのだ。

 

 

スポンサーは、漠然と視聴率が高いことよりも、自社の商品の購買層の人が見てくれるだけで良いのだという希望を主張するようになってきたのだ。

 

そこで従来の世帯視聴率に対して個人視聴率に比重が移ってきたのだ。

 

21世紀に入ると個人視聴率も一般的になってきたが、データの精度には疑問があったこととテレビ局側の反発が強いこともあって主流にはなれずにいた。

 

しかし、日本テレビが13〜49歳をコアターゲットと呼び、フジテレビは13〜49歳をキー特性と呼び、TBSは13〜59歳をファミリーコアと呼び、これらの層を重視する考えにシフトしてるのだ。

 

 

そしてこの流れに加えて昨年来のコロナのダメージのせいで、今年の春から大幅に番組が変わり、世帯視聴率が良かった番組でも上記の層を取り込めてないと判断された番組は続々と打ち切られるらしい。

 

 

 

「スポンサー企業がCMを入れたいと考えるのは、世帯視聴率が高い番組よりも、コア層の個人視聴率が高い若者向けの番組なんです。『メレンゲの気持ち』や『火曜サプライズ』も世帯視聴率は決して悪くはありません。ただ、これらの番組のメイン視聴者層はコアより上の人たち。特に『メレンゲの気持ち』はそうでしょう。そのため、3月の打ち切りが決まったといいます」(民放キー局ディレクター)

林修、池上彰の3番組が終了!?コロナとコアで教育系番組が終わるワケ!

 

 

 

 

この記事にはおもしろいことも書いてある。

 

この見立てがどこまで当たっているかは個人的には疑問なのだが。

 

 

視聴者は今、難しいことを考えたくない、複雑なことで頭を悩ませたくない、という状態なのではということ。

 

今人気なのが、何も考えずに見られるバラエティ番組。年末年始もネタ番組やコント番組が数多く放送されましたが、それは、視聴者が今、単純な笑い、面白さを求めているからなのではと見られています。

 

 

 

この傾向は日本人だけなのだろうか?

 

もしかしたら4年前、トランプ大統領を誕生させた時のアメリカに似てるのだろうか?

 

考えなかったことの代償を4年間負い続けたアメリカでは多くの人が考えることが増えたはずだ。

 

 

答えは欲しがるけど、そのために考えようとしない人が増えてるのかもしれないと思うと少しゾッとする。

 

コロナは犯罪の質を変えている!?

世間一般では、コロナが流行したことで犯罪が減っていると言われている。

 

人の外出がコロナ前と比べると減っているので、犯罪に関しては被害者と加害者の遭遇率は確かに下がりそうな気もする。

 

あるいは、犯罪もテレワーク化して潜在化いるのかもしれない。

 

いずれにしても、コロナによって否応なく変えられたライフスタイルによって犯罪は件数もさることながら、その質を変えていてもおかしくない。

 

給付金詐欺というのがある。

 

古典的なものとしては、『給付金が受け取れますよ、その手続きを代行します』と、そのための手数料と称したお金を搾取するというものがある。

 

コロナ禍では、もちろんこのパターンもあるのだが、給付金の受給要件を満たさない人でも受給できるように手続きを代行するというパターンが暗躍してるという事件が起きていた。

 

この場合は、個人や法人の名義が使われるが、騙す大元のターゲットは給付金の支給を行う国や自治体になる。

 

弱い人から奪い取るのとは違うので、首謀者に対して怒りが湧くとしたら、『うまいことやりやがって、俺にも回せ!』的なやっかみや僻みに似たものであったり、易々と騙される国や自治体に対して『しっかりしろよ』的なものになる。

 

犯罪も少し雰囲気を変えているように感じられる。

 

少し最近の見出しを探ってみた。

 

 

「コロナで帰国できず生活費を稼ぐため」 ベトナム人グループの自転車窃盗 約60台被害か

 

 

日本に来ている技能実習生や留学生は、コロナ禍でその身分や立場でいることですでに被害者になってる人が多いのだが、救済の仕組みが少ないことで加害者に転じてるケースがある。

 

少し前には、農家が被害になるケースが目立ったが、背景には事情通の冷遇された技能実習生の恨みや復讐が動機としてあったことを思い出す。

 

 

被害者が加害者になるという意味では、新しいパターンが生まれたと言えるかもしれないという見出しが次だ。

 

帰国・入国時の自己隔離 違反者の氏名公表可能に 外国人は強制退去も

 

 

氏名が公表されるということは容疑者として扱われることだ。

 

 

そしてさらに、容疑者から犯罪者への昇格要件も緩和されるようだ。

 

 

政府、入院拒否のコロナ感染者に懲役刑想定 2021/1/13

 

 

 

よ〜く考えるとおかしなことなのだが、感情的には支持されやすそうだ。

 

 

犯罪は、明確な目的や明確な悪意に基づくものと、突発的な衝動性で起きるものだという典型的なイメージがあるが、コロナによって増加した抑圧されたストレスが動機になっているのかなと思えそうな事件も増えてそうに感じられる。

 

友人に熱湯、女子大生を容疑で逮捕 書類「完成度低い」と激高

女は昨年夏から友人に大学院の出願書類の作成を手伝ってもらっていたが、「完成度が低い」と激高し、10月ごろから暴力を振るうようになったという。

 

この事件は珍しいかもしれないが、思い通りにならないことに対して不満を感じてるのは誰でもなのだが、そのことに対する許容能力の低さゆえに犯罪者になる人も増えていそうだ。

 

煽り運転に代表される、ちょっとしたことでムカつくというメンタリティはコロナ前から傾向としてあったが、コロナで生活が不安定になったことで許容能力が大幅に低下した人が増えていても不思議はない。

 

 

また、『コロナに関して』といえば大義名分が立つかのような心理的な落とし穴も間口を広げているようで、お金に絡む詐欺以外でも利用されている。

 

女児に「コロナの検査、警察だから安心して」…車庫に連れ込み下半身触った男逮捕 1/9(土)

 

 

日本の話だけにするつもりだったが、日本以外の国でも、犯罪の趣が少し変化してるように感じられる見出しが出ていた。

 

 

米国の大都市で銃犯罪が急増 コロナ拡大とともに治安悪化か 2021/1/12

昨年ニューヨークで起きた銃撃事件は約1500件で一昨年の倍。殺人は約460件で5割近く増えた。シカゴでも銃撃と殺人は一昨年に比べてそれぞれ5割以上増、ロサンゼルス、首都ワシントンも同様の傾向だった。

 

 

個人的には、トランプ氏が大統領選で負けたことも関係してる気がする。

 

 

シンガポールの接触追跡アプリが方針転換、犯罪捜査でも利用可に

パンデミックに対するシンガポールの取り組みはこれまで、接触追跡技術に関してだけでなく、多くの面で強引だ。例えば、公の場所でマスクを着用していないところを見つかると、高額な罰金を課される。

 

 

コロナに関連することはプライバシーに密接に関連するし、コロナ前から近年の犯罪傾向としてプライバシーを含めた個人情報は大きなテーマでありターゲットだったが、コロナに関しては大義名分が立ちやすくかつ例外なく網をかけれるので、警察や取締り当局にとっては美味しい情報のはず。

 

 

プライバシーや個人情報は、企業でいえば機密情報になるとすれば、コロナに関係なく行われているのがスパイ活動。

 

 

コロナワクチン開発公表後、不審アクセス急増…日本のトップメーカーに海外から 2021/01/01

同社は対応を強化しており、情報の流出は確認されていない。

 

 

サイバーセキュリティーに詳しい慶応大の土屋大洋・総合政策学部長は「システムに侵入しようとする動きは、本格的な攻撃の準備段階だ。攻撃者は執拗に攻めてくるが、社会全体で防御を固めなくてはならない」と語る。

 

 

 

犯罪に関して私たちの目につく変化は、本格的な攻撃の準備段階だとすると、記事のように被害が顕在化しなければ攻撃を受けていると公表される出来事が、被害が顕在化すると公表されずに隠蔽されることになり、表面的にはそのようなことは起きてないことになるのだろうと思える。

 

これからの犯罪は、起きてることがわからなくなるのかもしれない。

 

 

プライベートは非合理的に!

何かを判断する時には、正しいか正しくないかを基準にしたくなる。

 

わたしの場合の話だ。

 

正しければ、失敗しないと思いたくなる。

 

しかし、そう思いながらもかなりの場合に、好きか嫌いかという基準の介入が避けられない。

 

すごく良さそうな情報であっても、伝えてきた人を好きになれそうにない場合は敬遠することが多い。

 

自分でも、もったいないことしてるなと思うことがあるが、そういう性分だからしょうがない。

 

条件を箇条書きにして優先順位を付けて選択して判断することには合理性があるように感じられるので、ビジネスの場ではこういうやり方が多いのは当然だが、そういう方法でいろいろなことが進んでいくことをおもしろくないなと感じてる人も多いはずだ。

 

合理性とは、最良の選択や判断をしているはずだと思えるから成り立つのだが、それは失敗した場合にもっとも通りやすい言い訳を前もって準備してることでもあるように感じられる。

 

 

日本では、政治や大企業は一般には失敗の責任を取らないことが多い。

 

失敗であったことを認めることすら少ない。

 

具体的な例は多数あるが最近だったらコロナを巡ることでも思い当たることは一つや二つではないだろう。

 

こういう時に、責任を取らない場合は、聞いていて納得できない、ああまたかと思えるような言い訳がつきものだ。

 

一方で、合理性というよりは好き嫌いに基づいて行動して失敗した場合には、潔く謝罪することが多いように感じられるし、そのような場合には判断に非があったことを素直に認めることが多い。

 

それは自分の行動の全てに、失敗はあったが嘘はなかったから、だと思える。

 

このように思い当たると、合理的に判断して失敗した場合に謝罪はしても責任は取らない場合は、やはり自分に嘘をついていたからなんだろうなとなりそうだ。

 

日本の政治に付き纏う合理性は、利害の損得に対する大義名分が支える。

 

政治家には、政治に関わって得をしようと寄って来る人しか見えない。

 

寄ってくる人々もギブアンドテイクで政治家に得を与える必要がある、それは選挙における一人一票プラスαに他ならないはずだ。

 

政治に限らず、会社の経営や組織の運営など政治性が介入することにはこの傾向が強いはずだ、日本では。

 

このような枠から全く離れて自由でいることはなかなか難しいが、もしできるとすればプライベートな生活になる。

 

 

プライベートな面では、合理性よりも好き嫌いを重視することで心が開放されるかもしれない。

 

好き嫌いによく似た基準には、合う合わないというものもある。

 

 

心のどこかで、嫌いだし合わないと感じることや人は、避けて生きた方が心には優しいはずだ。

 

嫌いや合わないという気持ちに蓋をするのが、往々にして合理性だったりするから要注意だ。

 

赤信号みんなで渡れば怖くない、というのは一つの真実だが、自分の心を偽る場合の言い訳にもなることをお忘れなく。

 

 

ピラミッドから文鎮へ

今朝おもしろい記事が出ていた。

 

“切れ者の官房長官”じゃなかったの? 菅首相のコロナ対応がこんなにもお粗末な理由

〈「みなさん、こんにちは。ガースーです」――インターネット番組でこう自己紹介する菅義偉首相の姿を見て“これが一国の宰相か”と、全身から力が抜ける思いがしました。安倍政権を官房長官としてあれだけ長く支えてきたのだから、推進する政策の是非は脇に置くとしても、少なくとも“カミソリのような切れ者”だったのではなかったのか、とこれまでの認識も裏切られました〉

 

 

この記事はTwitter上でトレンド入りしていていろいろな意見や感想がでていた、それらを読んでいて記事との関連性は直接はないが、思いついた話。

 

〜〜

 

IT技術とインフラの発達と普及がテレワークやリモートワークを支えている。

 

その一方で印鑑が否定されるようになり始めた。

 

このような流れは自然な流れに感じられるが、これは実質を伴った変化なのだろうか?

 

なんとなくイメージを持っていることと、実際の間にはギャップはないのだろうか?

 

 

 

 

先入観で持つヒエラルキーの構造はピラミッド状のものになりがちだ。

 

だからだろうか、序列を設けることが必要な場合もピラミッド構造になりがちだ。

 

これは、歴史を振り返ると、必要な指示や命令を伝達するために必要な構造だったと考えると納得できる。

 

アナログな方法で大勢の人に、コンセプトに基づく指示や命令を伝える場合は、重要度が高く内容が複雑になるほど一度に伝えられる人数は少なくなるからだ。

 

 

しかし、ITを活用することで一度に大勢に伝えることは充分に可能になった。

 

このような伝え方の場合、受け取る側のリテラシーが求められるので、差がつくとしたらリテラシーの差が原因になることが増える。

 

ITを前提にすると、組織はピラミッド構造よりも文鎮構造の方が機動性は高くなる。

 

文鎮構造の組織はフラット化組織ともいわれる。

 

 

どちらの構造にしても、人間のやることは最終的には人の質の問題に行き着く。

 

わたしが最初に文鎮型の組織という話を聞いたのはバブル景気が崩壊した後の90年台の前半から半ば頃にかけてだった。

 

中間管理職が組織から活力を奪うという意味で文鎮型の組織が理想として語られ始めていたのだ。

 

当時ITは全く普及してなかった。

 

その頃から25年が経過してるが、日本企業のイメージはピラミッド構造のままだ。

 

しかし、ふと思いついたのは別のところで文鎮型の構造が浸透してるのではということだった。

 

いいねを求めたり、フォロワーの数や再生回数を競ったりという人気の獲得競争における序列でだ。

 

もちろん数字だけに目を向けるとピラミッド構造のような序列を示すのだろうが、実際にはある一定レベルを下回れば、序列上は全く同じ扱いを受けてるのではないだろうか。

 

 

この人気の序列と持ってるお金でつく序列も似てるのかもしれないと思えてきたのだ。

 

 

ピラミッド構造の場合、序列は相対的なので一目瞭然になる。

 

自分の位置付けが容易なので露骨に振り回されるようになる。

 

一方、文鎮構造の場合、序列は分かるようで曖昧になりがちなために目標が定めづらくなる。

 

つまり、相対性に関心が強い人はモチベーションの維持が課題になり、逆に自分のマイペースが大事な人にとっては雑音が減るので心が穏やかでいられることになりそうな気がする。

 

 

時代は静かに文鎮型の構造にシフトしてるかもしれない。