違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

心ある日本人はきっと願ってる、オリンピックの大失敗を

2020東京オリンピックの開会式は今日の夜8時から。

 

さまざまな問題が直前まで噴出しまくったが、予定通りの開会式が行われる予定だ。

 

実際にどのようなオリンピックになるかはこれからだが、オリンピックの結果次第で日本は大きく変わるかもしれないし、全く変わらないかもしれない。

 

 

今の日本が続くことが幸せな人と、ガラッと変わって欲しい人に両極端に分かれているような気がする。

 

今の日本が続いて欲しいと願う人はきっとオリンピックの成功を望んでいるはずで、ガラッと変わって欲しい人は必然的にオリンピックの失敗を直接的にあるいは間接的に望むことになるだろう、自覚は乏しいかもしれないが。

 

今回のオリンピックだけは、参加することに意義があるとされた、選手が主役のオリンピックだとは言ってられないのだ、特に日本人には。

 

 

 

 

ツイート主はリプでさらに考えを述べているが、それとは違う趣旨の話をしてみたい。

 

戦後の日本は経済成長という観点から一つの成功パターンを成し遂げたと思われてるが、その一方で日本通のオランダ人カレル・ヴァン・ウォルフレンは、著書で『人間を幸福にしない日本というシステム』と指摘するような面が色濃いままだ。

 

 

人間を幸福にしない日本というシステムは、太平洋戦争が産み出した価値観でそれこそが日本の大失敗だったとすると、大失敗をリセットするためには大失敗を活用するしかないのではと思えてくる。

 

 

日本はこれまで何度も失敗してるが途轍もない大失敗はない。

 

しかし、幸か不幸か2020東京オリンピックで大失敗を冒すというチャンスに恵まれている、すでに中失敗は達成している。

 

 

今夜の聖火が、人間を幸福にしない日本というシステムを焼き尽くしてくれることを期待したい。

オリンピックのオワコン化は既定路線!

開幕直前になってネガティブエンジンがターボ全開フルブーストになってしまったかのような東京オリンピック。

 

トヨタですら見限ったと話題になっている。

 

 

わたしが東京オリンピックに興味を持ったのはコロナ禍で延期が議論されるようになった頃からで、それ以前も大会エンブレムの盗作などネガティブな話題のみ興味を持つという決して褒められたタイプではないのだが、今頃になって知って急に興味を持ってる出来事があった。

 

今となっては4年前、当初計画通りだと3年前に当たる2017年にマクドナルドがオリンピックの大会スポンサーを降りていたのだ。

 

 

そのことを知った経緯は、

 

 

 

 

 

 

 

検索すると、結構な話題になっていたことが分かった。

 

ちなみに、ここでいうマクドナルドとはアメリカのマクドナルド。

 

記事によって捉え方に違いがあるが、2016年のリオオリンピック以後にスポンサーを降りた世界的な企業は多数あるのだ、そして各社それぞれに固有の事情もある中で、共通した要素として上がっていたのが、

 

  • 世界的にオリンピック離れが起きている

 

  • スポンサー料は高騰するが行動の制約が大きい

 

  • IOCがハイテク企業を優遇する態度にシフト

 

 

これらのことはコロナが無い時期に生じていた傾向であることが重要だ。

 

この傾向にコロナがプラスされたのが現在だ。

 

コロナとは別途に進行する事情もある。

 

 

マクドナルドが抜けた直後にインテルとの契約が決まり、それがIOCのハイテク重視へのシフトを後押ししたようだが、インテルには不安材料が多い。

 

AppleがインテルのCPUをやめ、自社開発のCPUをリリースするなどちょっと前までハイテク業界で優位を保っていたが見通しは厳しいような気がする、そうなるとオリンピックのスポンサーに価値を見出せるか疑問だ。

 

 

当初は、開催されるだけで良しとしていたIOCだが、東京オリンピックが無観客で開催されることで、オリンピックのオワコンイメージはさらに強く世界に印象付けられそうだと気付いたら有観客に未練が出てきたようだ。

 

 

 

 

私たちのような下々の者は、俯瞰で事態を捉えたいと思っても実際には地べたを這いずり回るような視点しか持てないのかもしれないが、そんな視点からでもオリンピックのオワコン化が感じられる。

 

 

俯瞰で見ようが、底辺から見ようが、過ぎたるは猶及ばざるが如しなのだ。

思えば遠くに来たもんだ!

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

 

はてなのお題に乗ってみた、初体験だ。

 

 

インターネットに対する思いは年齢や世代によって違うだろう。

 

特にマニアックな人でもなければ1995年のWindows95とセットでインターネットは名を知られたはずで、いきなり登場したのでインターネットが何なのかもよく分からずにPCショップや家電量販店で『インターネット下さい』という人が後を絶たなかったと話題になっていた。

 

また、当時のインターネットは従量課金が基本で、わたしは最も安い契約をしていたので基本料金で接続できるのは月に60分あるいは90分だったと記憶している。

 

だから、この時間内で終えるように事前に何を調べたいかをメモに書き、情報はその場で読まずにフロッピーにダウンロードして内容に目を通すのは回線を切断した後だったが、当時の回線速度では文字しかダウンロードできず、写真やグラフや図などは見れないことが多かった。

 

基本時間を越えないように慌ただしく使っていたことを覚えている。

 

この程度でも、趣味の分野に関する限りは、市販の雑誌よりも内容が濃いと感じられるものが多かった、濃いというよりも本音が感じられたと言ったほうが相応しいかもしれない。

 

雑誌が売れなくなるかもと感じていて、事実そうなったし、生き残った雑誌もずいぶんページが薄くなった。

 

はてなが登場した20年前というのは、従量課金から常時接続に移り始めた頃だろう、わたしが常時接続に移行したのはもう少し後。

 

 

常時接続が当たり前になると無料の動画サイトが登場してきた。

 

改めて検索すると、YouTubeの誕生は2005年だったが、私を含めて周りでYouTubeをおもしろいと感じてる人は皆無だった。

 

それよりも同じタイミングで誕生したGYAOの方が話題になっていた、B級C級の映画やドラマをPCで見ることが、テレビで最新作や名作を見るよりもよっぽどワクワクするということに気が付いた。

 

PCで見てワクワクした作品をたまたまテレビで見かけても全然おもしろいと感じなかった。

 

うまく説明できないが、テレビはみんなのもので、PCは自分だけのものという世界観が感じられていたような気がする。

 

このことが不思議なのは、テレビはみんなのものだからつまらないと感じた意識は、最近言うところの共有意識に対する否定かもしれないと思うと、わたしは共有には馴染めないかもしれない。

 

ここまでは概ね2010年以前の話。

 

 

さて、それ以降となるとインターネットというよりもスマホであり、ブラウザよりもアプリが主要な舞台に移ったように感じられる。

 

 

できることややってることに大した違いがあるわけではないが、受ける印象はかなり違ってくるので、やってて楽しいか、気持ち良いかの差は結構あるはずだ。

 

 

もはやインターネットは裏方のインフラであり、日常生活では無意識に近い存在感で、あることのありがたさや好都合よりも、ない場合の不便や不都合を思い知らされることの方が印象に残りやすくなった。

 

最近のインターネットは、双方向のコミュニケーションとして機能することが中心になり、その双方向性が両極端化し、不特定多数を対象にする場合と特定の層だけを意識するものに分かれてるように感じる。

 

双方向性があるというのは受信もすれば発信もするということ。

 

 

インターネットが無かった頃、ほとんどの人にとって情報とは受け取るだけのものであり、発信するとしても手紙や電話を除けば特別な環境にいる場合以外は一対一での伝達の繰り返ししか無かったのだ。

 

特定であれ不特定であれ、一人で多数に向けての情報発信が可能になったことが最近10年のインターネットの大きな変化だという気がしてくる。

 

発信する人は同時に受信する人でもあるのだが、おそらく注ぐエネルギーは圧倒的に発信する方に向けられるはず。

 

インターネット以前は、世間には情報を受け取ることしかできない人がほとんどだったのに、現在では受け取るよりも発信したい人が大幅に増えてるとすれば、池の周りに鯉に餌をやろうとする人が鯉の数よりも多くいる状態に似てるだろう。

 

つまり、食べてもらえない。

 

今インターネットの世界では、そのことが課題になってるように感じられる。

 

 

無限の情報があるということが魅力に感じられた当初のインターネットはどこに行ったのだろうか?

 

 

思えば遠くに来たもんだ!

 

 

アメリカvs IOC

2020東京オリンピックではさまざまな見苦しい不祥事が続出してるが、それらは日本国内の自浄能力では解決できずNBCの鶴の一声の結果、見苦しさの張本人が排除されてきた。

 

 

 

 

そこだけ見ると、NBCは正しいことをやってるように見えるが果たしてそう単純な話なのだろうかという話をしてみたい。

 

 

Wikipediaによると、オリンピックが商業主義的になったのは1984年のロサンゼルス大会からで、儲かりまくったロサンゼルスを見てオリンピックに立候補する都市が増え始めたらしい。

 

リアルタイムで知ってたはずだが、そのような認識は持っていなかったのは、わたしがボケーっと生きてたからだろう。

 

今ではその影響力が強大になったNBCがオリンピックの放映権を最初に獲得したのが1964年の東京大会。

 

露骨にオリンピックの運営にまで介入し始めたのが2008年の北京大会から。

 

北京大会ではアメリカのゴールデンタイムで放送できるように、主要な競技は北京時間の午前中に開催された。

 

さらに2020東京大会が猛暑の梅雨明け直後のタイミングに開催されることもNBCがアメリカ国内でのNBAやNFLの開催のタイミングと重ならない時期を求めたためだ。

 

 

一般にオリンピックと呼ばれるものは近代オリンピックと定義され、始まりは1894年でヨーロッパを中心に生まれたもので、思っているよりも遥かに歴史が浅いのだ。

 

 

そんなオリンピックは、商業的な転換を迎えた1984年のロサンゼルス大会以前は地味なスポーツ大会であり、アスリート中心のようで政治やイデオロギーに振り回されがちだったが、そこまではヨーロッパを中心に回っていたのだ。

 

 

ロサンゼルス大会以降、オリンピックには明らかに華やかさが加わり、ファッショナブルにすらなった。

 

1984年を境目に、オリンピックはヨーロッパ的なものからアメリカ的なものに変化していたのだ。

 

アメリカ的な変化を下支えしたのがNBCで、実質的にはIOCの上位に位置するようになっているのだ。

 

今のオリンピックは実質的にはアメリカ中心なのだが、それでも由来的にはヨーロッパ発祥となっている、このことがアメリカには不満なのかもしれない。

 

 

度重なる東京オリンピックに関連して噴出する不祥事に対してこんな論調の記事がアメリカで出てきた。

 

 

 

 

訳してくれた方がいた。

 

 

 

 

 

長文なので引用しませんので是非ご一読を。

 

 

実質的にはアメリカのものになっているオリンピックだが、歴史的にはヨーロッパのもので、そのヨーロッパ的な存在の象徴がIOC。

 

おそらくIOCにとってNBCの存在は打ち出の小槌的だが、いつ寝首を掻かれるか分からない恐怖の対象でもあるはず。

 

NYタイムズの記事を読むと全米あげてIOCに代わるものを狙いに行ってるように感じられた。

 

 

だとすれば、NBCを頼りながらもジレンマを感じてるバッハ会長のあの発言がいかに意味深か想像できる。

 

 

 

 

日本では、日本をバカにしやがってと解釈されてるこの発言だが、真意はアメリカやNBCの思い通りにはさせないぞという気持ちと、中国にもっと頑張ってほしいというメッセージを込めたような気がしてならない。

 

 

2020東京オリンピックは、あらゆる意味において転換点を象徴するものになりそうな気がする。

 

 

来年には北京で冬季オリンピックが開催される。

 

 

アメリカvs IOCの構図に中国がどう絡んでくるのか、今から楽しみだ。

小山田圭吾の炎上に油を注いだ太田光

小山田圭吾という名前を聞いたことはあったが、よく知らない人物だった。

 

ミュージシャンであることも知らなかった、数日前までは。

 

いきなり炎上したことで嫌でも目に止まるようになった。

 

炎上した理由は検索すればわかるし、あえて書くと不快になるだけなので書かない。

 

この炎上に対して真正面から向き合うこと以外に、少し斜めから見てみたいという思いも芽生えていた。

 

私がよく知らない小山田圭吾なる人物は世間ではどの程度の認知度なのだろうか、そしてその認知度は今回の炎上でどのように変化したのだろうかという興味になっていた。

 

そこでGoogle Trendsを見てみた。

 

検索可能な2004年以降で見ると、一昨日(17日土曜)に見ると、昔の方がよほど検索されていて、想像とは違った反応だったのでその時のグラフはキャプチャーしなかった。

 

そして、今日(19日月曜)の朝にもう一度Google Trendsを見るとこうなっていた。

 

GoogleTrends『小山田圭吾』2004年以降

 

 

2日前とのあまりの違いに驚いてしまった。

 

グラフの左側の小さな山の方が圧倒的に大きな山だったからだ。

 

何処を境目にこんなに変化したのだろうかと、さらに時間を絞って見てみた。

 

直近1週間。

 

GoogleTrends『小山田圭吾』直近一週間

 

きっかけは日曜の10時にあるのだ。

 

さらに直近1日で見てみると。

 

 

GoogleTrends『小山田圭吾』過去1日

 

 

これを見るとわかる人はすぐにピンとくるだろうが、サンデージャポンのせいなのだ。

 

昨日、小山田圭吾の話題の多くはサンデージャポンでの取り上げ方が目立っていた。

 

ゲスト出演のカズレーザーの考え方に同意する声が非常に多いのに対して、司会の太田光の小山田圭吾擁護に終始する態度に不快感を感じる声が非常に多かったのだ。

 

私はリアルタイムでは見てなかったので、夜にYouTubeで見たが世間の反応は間違ってないなと感じられた。

 

私には、太田光は自分の意見を言っているのではなく、誰かの意を受けて発言してるように見えた。

 

直近1日の場合の、関連するトピックやキーワードとしてはこのようになっていた。

 

 

GoogleTrends『小山田圭吾』過去1日 関連するトピック・キーワード

 

今朝になって再度盛り上がったのは朝のテレビで取り上げられたりや昨日の余韻を引きずってのもので新しい何かが出てきたわけではなさそうに感じる。

 

 

昨日のサンデージャポンでの太田光の発言には無理を通せば道理が引っ込むを感じていたが、そんなことをすればどうなるかはわかっていたはずだとも感じられると、わざとあのような発言をすることで世間の怒りを煽り立てたのかもしれないとも思える。

 

小山田圭吾の擁護をする太田光の声は気持ち弱々しく自信なさげで、いくらなんでもこれは無理があるなと思いながら言っていたようにも感じられる。

 

ただ、いずれにしても太田光のせいでというかおかげでというか、小山田圭吾の知名度は全国区になってしまったことだけは間違いないだろう。

Cool Japanの象徴が東京オリンピック!

2015年の7月、2020東京オリンピックに関するさまざまなケチの付き始めの最初だったような気がする。

 

 

大会エンブレムのデザインの盗用や不明朗な選考過程が取り沙汰され白紙撤回されたが、白紙撤回されたのはそれだけではなく新国立競技場の建設が着工3ヶ月前に中止された、莫大な建築費に対する世論の反対を受けてだった。

 

世間の不快感は大きかったが、利権を巡る構造の中で起きた出来事だったので、『ああ、またか』『やっぱりね』という気持ちを感じた人も多かっただろう。

 

ケチは付いてもそれは選手や競技に向けられたものではないので、オリンピックが始まれば競技だけでなく景気の点でも盛り上がるのは確実だった。

 

 

しかし、さらに追い討ちをかけたのがコロナウイルス。

 

オリンピックの開催が一年延期されたことで、その一年の間にもはや呪われているのかもと思えることが起きた。

 

利権などではないケチが次から次へと付き始めた。

 

これらのケチは、一年延期されなければ付かなかったケチだが、火種は存在していたのだ。

 

そういう意味では、コロナウイルスに感謝すべきかもしれない。

 

もともと失言癖があった大会組織委員長の森喜朗の女性蔑視発言に対して海外からNoが突きつけられオリンピックの最大のキー組織であるNBCが『森氏は去らねばならない』と発言するに至った。

 

森氏の後任人事を巡っても過去の流れを踏襲しようとして世間の不快感を煽っていたが、ほぼ同じタイミングで開花式の演出責任者が女性タレントを豚に見立てた演出を予定してることも発覚した。

 

 

この辺りでも、ドメスティックな日本の出来事としては予定調和的に罷り通っていたであろうことが、国際的には許されないこととして顕在化したように感じていた。

 

ここまでで十分にオリンピック関係者にとっては呪われた東京オリンピックとなっていたはずだが、開幕間近のここに来てトドメを刺すように海外にも報じられる不快な出来事が発覚した。

 

 

小山田圭吾の開会式楽曲担当続投、英紙でも報道 テレグラフ電子版

「障害のある同級生を虐待し、性的な行為を強要した日本の作曲家は、開会式に関与し続けている」という見出しで報じた。

 

 

 

 

7年前の話を思い出した人も多いだろう。

 

 

 

 

コロナがキッカケで付いたケチは、選手や競技にもネガティブな視線を投げかけさせている。

 

 

伝統と膿みは紙一重のようだ。

 

 

 

世界から見たら日本はやっぱりCool Japanだと印象付けた東京オリンピックなのかもしれない。

 

 

梅雨明けした日本だが、オリンピック関係者は冷や汗も凍る思いだろう。

大海を知っても、井の中の蛙は井戸から出ない!

井の中の蛙大海を知らず、

 

この諺を知らない日本人は少ないだろう。

 

ずいぶん昔から使われてることばのようで、興味ある方はこのリンクを参考にして欲しい。

 

 

この諺が生まれ伝わった大昔では、生まれ育った場所以外を知ることなく人生を終えることは珍しくなかったように感じるが、歴史を振り返ると内陸で生まれ育った人でも海を身近に感じれるようになったのは比較的最近のはず。

 

 

こんな書き出しで始めたのは、大海を知ってるはずの現代人に井の中の蛙を感じることが少なくないなと思い当たったから。

 

 

次の話は何度か取り上げた記憶があるが、突然この話と井の中の蛙が結び付いたのだ。

 

「2分の1成人式」で語った10歳の夢「社長に気に入られる社員に」

「僕は、将来は社長に気に入られる社員になりたいです!」

と堂々と言ったのです。

最初は冗談を言っているのかと思いましたが、周りの大人たちは笑うどころか拍手しているのです。しかも、そんな発言をしたのはその男の子だけではなく、ほかにも5、6人いました。私は、その子供たちの親御さんの顔を見ました。すると、恥ずかしそうにしているそぶりもなく、満足げな表情だったのです。私は思わず主人と顔を見合わせました。

 

 

この記事が出たのはは2021年3月。

 

 

おそらく家庭内教育の賜物なのだろうが、それは親の人生観の反映でもあるはず。

 

その親をdisりたいわけではなく、大海の存在を知った上で井の中の蛙を選択することもあると再認識できると、この話はむしろサーカスの象の話に近いなと思えてくる。

 

 

 

 

サーカスの象が鎖を引きちぎったら秩序が保てないと考える人が、自ら井の中の蛙を志願するのだろう。

 

他におもしろい表現が出来ないかなと探すとあった。

 

 

 

 

大海を知っても、井の中の蛙は井戸から出ない!