違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

GW明けは何かが起こる?

GW(ゴールデンウィーク)明けに注意しろという話が多い。

 

GW明けのメールには気を付けろ、であったり。

 

昔ながらの5月病も始まりはGW明けからだ。

 

長期の休みは良くいえばリフレッシュにつながり、悪くいうと生活のリズムを狂わせる。

 

狂ったリズムの方が心地良いことに気付いた人は悩みが増えることになるだろう。

 

今年のGWは、3年ぶりにコロナ自粛からの解放とも相まって、『これが本当の自分だ!』と充実できた人ほど今日からのギャップのある生活が憂鬱かもしれない。

 

一方で『ゴールデンウィーク、なにそれ?』とまったく休みなど無かった人もいる。

 

『おかげで儲かった、儲かった』という人は充実感を味わえてるだろうが、充実とは無縁だった人には、休みを満喫した人とは違う種類の5月病が迫ってくるかもしれない。

 

 

人々で賑わったGWの観光地のキーワードは満員や渋滞だったが、GW明けのキーワードにも満員電車が上がっている。

 

 

 

 

 

GW明けに5月病が現れるキッカケの一つが満員電車なのかもしれない。

 

 

 

昔と今の満員電車は決して同じではないだろうが、その時々で人々が感じる気持ちは大差なさそうだ。

 

 

GW明けに何かが起きる場合、満員電車がキッカケになってることは少なくないかもしれない。

 

 

満員電車には気を付けろ!

写真+コルクボードで気分転換を!

カメラや撮影が好きな人のどのくらいが実際にプリントしてるだろうか?

 

約7年前の日経新聞の記事があった。

 

写真のプリント「減った」84% スマホやデジカメ普及で 2015年8月2日

いま自分の家庭で写真をプリントしてアルバムなどを作ることがあるかどうかを聞くと(複数回答)、

 

「1枚ずつプリントした写真でアルバムを作る」が36.7%、

 

「フォトブックのサービスを利用して本にする」が11.6%、

 

「カレンダーやポストカードにする」が5%。

 

「写真をプリントすることはない」と答えた人が52.6%

 

に達しており、現代の家庭ではアルバムなどがあまり作られなくなっている実情が浮き彫りになった。

 

 

 

これ以降の7年間で、気に入った写真はブログやSNSに載せるだけで満足という人も多いだろう。

 

写真をプリントすることはサイズや質にこだわり始めるとコストがストレスになるレベルになるはずなので、データとして保存してディスプレイ上で楽しめれば十分という人も多いだろう、わたしもそんな一人だった。

 

自宅に小さな写真プリンターがある、Canonのcp1300という量販店で1万2000〜1万3000円ほどで売ってるもので、他に専用のプリント用紙(インクとセット)が必要になる。

 

1年ほど前にプリント用紙がなくなったので買い足したが久々に使ってみて思った以上に満足感が高かった。

 

 

サイズ的にはL版のごくありふれたサイズだが、RAW撮影した写真をiPadアプリのaffinity photoで彩度をマシマシにしてシャドウをいじったりすると、まるで小洒落た挿し絵のような雰囲気が出る。

 

それを何枚か部屋のクロス壁に押しピンで貼り付けると部屋の雰囲気も変わって満足感が高いことに気付けた。

 

この満足度の高さにはわたしの場合はRAW撮影が必須で、手持ちのカメラのdji pocket 2だけがその条件を満たしていた。

 

RAW撮影するために買ったカメラではなく、持っていaffinity photoがRAW編集できるアプリだったので遊んでみようと思って初めてその機能を備えていることに気付いたのでラッキーだった。

 

結果的に新規の投資はプリント用紙代だけだったのでコスパ的な満足度はとても高かったのだが、唯一の不満が壁に押しピンを刺すのが枚数が増えるとストレスになったことだった。

 

こうしてしばらく新しい写真をプリントすることが減っていたが、今日になって今更ながらコルクボードを使ってみようと思い立った。

 

早速ダイソーに行って買ってきた。

 

買ったのは46cmx32cmサイズで1枚200円を2枚。

 

これより大きいサイズもあったが300円だった。

 

 

L版サイズで最大9枚貼れる、レイアウトにこだわると枚数は減る。

 

今のところは棚に立てかけてるだけだが自由度の高さは感じられるので工夫の余地が大きいと思える。

 

 

ちょっと検索すると、コルクボードを使って写真を楽しんでる人が出てくる。

 

 

 

写真プリント+コルクボードで新たな楽しさが発見できるならコスパは抜群だと言えるだろう。

 

同じ映像をディスプレイ上で見るのとは明らかに気分が違い、悪くないのだ。

 

 

気分転換に使えるので、是非オススメしたい。

ラッキーなニアミス、不幸なニアミス

航空機が飛行中に異常接近することはニアミスと呼ばれる。

 

航空機のニアミスは、結果的には衝突は回避できたという意味では良かったことだが、そもそも起きてはいけないことでもあるので原因は追求される。

 

ニアミスは、人間同士にも使われる。

 

コロナの接触確認なんて、コロナ陽性者とのニアミス警報だったと分かるが、この場合はトバッチリを受けたことになる。

 

共演NGの芸能人が、周りのスタッフがそのことを承知して対策してるにも関わらず接近してしまうような場合にも用いられる。

 

一般人であっても事件や事故等の報道で、ほぼ同じ時刻のほぼ同じ場所に自分がいたことを後から知ることがある、そんな場合にも運が悪ければ自分は被害者だったかもしれないという意味でニアミスと使われる。

 

一般的には、不幸や不都合をギリギリで回避できた場合に使われるのがニアミスだが、ギリギリでチャンスやラッキーを逃した場合にも当てはまる。

 

 

2019年9月に行方不明になった小倉美咲ちゃんのものと思われる骨や靴や衣服の一部が、最近になって見つかり始めている、行方不明当時に大捜索が行われた範囲の中で。

 

大勢の人々が小倉美咲ちゃんを見つけようと山をかき分け捜索したのだが、出会うことはできなかった。

 

誘拐や拉致も取り沙汰されたが、今回の発見物には人為的な痕跡が無いらしいと伝わってくる。

 

だとすると、大捜索が行われた当時に不幸なニアミスが起きていたのかもしれないのだ。

 

当時の捜索の現場で一体何が起きていたのかと考えると改めて胸が痛くなる。

 

知床の遊覧船沈没の乗船者捜索でもニアミスは起きているはずだ。

 

 

 

出会いたいのに出会えないニアミスもあれば、できることなら出会いたくない、せめてニアミスで回避したいと思っているのに出会うことが避けられないということは、世間では日常茶飯事だろう。

 

 

今日もどこかでラッキーなニアミスや不幸なニアミスが起きている。

 

 

ニアミスは運命的でもあるし謎のような不思議さもある。

意外と根強いプリクラ人気

あまり過去に遡ってもしょうがないが21世紀になって22年、それ以前から傾向としてはあったがより顕著になったのが大画面化だ。

 

テレビの大画面化に始まり、毛色が違う分野で言うと写真を多用する雑誌もサイズの大型化が進んだ。

 

ガラケーも大型化にシフトし、その後のスマホもだ。

 

モバイル性が重要でポケットサイズが理想とされながらも、結局大型化が進んでいる。

 

パソコンだってだ。

 

モバイルパソコンも大画面化にシフトしてるし、モバイル性を考えると自ずと限界サイズがあるが、その限界サイズの中でベゼル幅を減らしディスプレイサイズを拡大させるという方向に進んでいる。

 

そしてこの大画面化は画質の高精細化とセットで進んでいる。

 

現代における正常進化の一つが大画面&高精細ディスプレイで、現代人はその上で文字や写真や動画といったデジタル情報に接している。

 

当然ながら、表現される文字や写真や動画だって高画素で高画質に対応するようになっている。

 

ディスプレイ上でさらに拡大表示しても鮮明さが損なわれないほどになっていて、私たちはそんな環境を当たり前だと思っている。

 

ここまでは前置き。

 

今朝ふとそういえばプリクラって流行ってたなと思い出した。

 

Twitterで検索すると顔加工が派手にされたものが多数上がっているのが分かったし、GoogleTrendsで見ても衰えてる印象はない。

 

 

 

それなりの進化が感じられるしシールであることも関係してるだろうが、小さなサイズであることを考えると孤軍奮闘してるようにも感じられた。

 

それと同時に、もしかしたら高精細な写真を大画面のデータとして見るよりも、小さくて精細さで劣っていても実際に出力された写真の方が人を惹きつける魅力が高いのかもしれない、とも感じられる。

 

プリクラの写真は当事者が楽しめれば十分なはずで、写真として何らかの評価を求めたいわけではないだろう。

 

それに比べたら、実際に出力しないデジタルデータの世界では、ディスプレイ上での評価を求めて一喜一憂するという本末転倒が感じられる。

 

デジタルとして大きなサイズで精細さや高画質をもっともっとと求めることと、小さくても精細さで劣っていても実際に出力してアナログな存在にして楽しめることとでは、次は何をしようかと考える時に意識することは大違いなはず。

 

 

これはこれでインプットよりはアウトプットが大事という話に通じる気がする。

悪党は嘘を吐く

ここ最近何かと話題になってる高校の不祥事は結局関係する大人が悪かったとなった。

 

 

少し前には、

 

 

 

この流れだけでもウンザリなのだが、この物語はプロローグも凄かった。

 

校長がエロ爺さんだったのだ。

 

 

 

 

悪党は嘘を吐く、昔から言われ続けてることだが、その割には意外と罪が軽くで終わる。

 

なぜだろうか?

 

きっと日本は悪党の本質が見抜けないか、取り締まったり、裁く側がそれなりに悪に染まっているからだろう。

 

そう思っていたらこんなツイートがあった。

 

 

 

 

日本では悪党が嘘を吐き通すのは、その方が得だと分かっているからだ。

 

ネット社会はマイブーム発表会

世の中にはどっちが先なのか分からないことが多い。

 

例えば、病気の発生が先で後から病名が付くのか、それとも病名を先に命名したことでその症状を訴える人が増えるのかなど。

 

昔は病気や症状が先だったと思われるが、現在では病名の命名が先の病気が増えてるように感じられる。

 

その症状や現象を示す言葉があるかないかで、コミュニケーションとしての伝わりやすさが大違いということは多いはず。

 

ブームというと、それなりの一定数によって構成されてるはず。

 

日常生活の中ではマイナーな存在でも、イベントなどで一堂に会すると世間で話題になるほどの大人数が集まり、ブームとして認識されたりする。

 

それなりの数を背景に成立するのがブームだが、たった一人でもブームとして成立可能にしたのがマイブームという言葉の誕生によってだ。

 

Wikipediaによると、マイブームという和製英語の登場は1994年に漫画家のみうらじゅんさんがタモリさんの『笑っていいとも!』に出演した際のタモリさんとの会話の中でらしい。

 

そして1997年に新語流行語大賞を取るに至っている。

 

そんな経緯を今頃知るくらいすっかり社会に定着している。

 

このマイブームという言葉があることは、マイナーな存在であることに免罪符を与えるだけでなく、むしろ熱い自分語りができることで誇らしさすら漂うほどだ。

 

他人からは理解してもらえそうにない趣味を持つことになんの引け目を感じる必要もなくなった。

 

みうらじゅんさんが定義するマイブームとしてWikipediaには次のようなことが書いてある。

 

 

「自分だけのブームだけで終わらせず他人に広めること」

 

 

 

なるほど、SNSを始めとしたネット社会のコンテンツはマイブーム発表会だと考えると納得できる。

手応えのある夢だと感じているのは、足の裏の米粒か靴の裏のガムかも

Twitterはおもしろい。

 

Twitterは勉強になる。

 

三人寄れば文殊の知恵を実感できることがある。

 

 

 

このツイートは次のツイートに対する返信で、おそらく主旨には賛同してると感じられる。

 

 

 

足の裏に付いた米粒と聞いて思い出したのが、靴で歩いていて落ちてるガムをうっかり踏んだ時のこと。

 

汚いということよりも、勝手に取れてくれないし、付いたままだと意外に抵抗が大きくて歩きにくいことが気になるから、何とかして取ることになる。

 

 

博士号に限らず、人間の執着心の多くは抵抗の大きさから生じる摩擦熱のようなもので、熱いから熱意があると思い込んでしまうのは錯覚なのだろうなと思えてくる。

 

改めて検索すると2016年に次のようなツイートがあった。

 

この話が語り継がれてることが感じられた。

 

 

 

 

別のことで例を探してみようと思い、思い出したのが特許だ。

 

日本ではかつて一般人がアイデアをなんでもかんでも特許にするということが流行った時期がある80年代から90年代にかけてだと記憶している。

 

特許を取って億万長者になろうと本気で言ってる人が身近にいたこともある。

 

その知人は、車内に付けるカーアクセサリー的なもので特許を申請し、特許を取った暁にはカー用品メーカーにその特許で商品を提案して億万長者になるんだと張り切っていた。

 

80年代後半の90年になる直前の頃で、弁理士に60万円支払ったと言っていたことを思い出した。

 

もしかしてと思い、特許や実用新案や著作権に関する本を読んだことがあることも思い出した。

 

結局、わたしは本を読む以上には行動はしないうちに冷めていた。

 

今にして思うと知人は弁理士に踊らされていたんだろうなと分かるが、夢を描けていたのも事実だ。

 

60万円で、脳内夢実現映画の主人公の役をゲットしたのだと思うと微妙だが妥当にも感じる。

 

 

煩悩と夢はほぼ同じで、それは足の裏の米粒であり、靴の裏のガムなのだ。

 

 

だから取らずにはいられないのだ。