違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『作りたいから作る』が遠退いている

次の記事は芸能界の記事だが、日本のビジネス界で起きてることと同じ事が芸能界でも起きてることを教えてくれている。

 

中山秀征「『テレビはもう無理なことが多くて』と言ってしまってはダメ」 愛ある叱咤激励 9/23(金)

 

詳しくは記事を直接読んで欲しい、印象に残った部分を抜き出すが、本来はひと繋がりの文章なのだが三つに分割して引用。

 

 

 

かつて『新春かくし芸大会』(同)で大先輩のハナ肇さんがなりきった銅像を洗うお笑いコーナーがありました。出演者や若手アイドルが洗うと、ハナ肇さんが『痛え、バカヤロー』と怒る。このオチでみんなが笑うというものだったんです。小麦粉や胃薬をせっけんに見立てて洗っていました。

 

 

 

ところが、時がたって、同じコントを洗剤でやってしまったと聞きました。笑福亭鶴瓶さんが久しぶりにやった時に洗剤で洗っちゃったと大騒ぎになりました。

 

 

僕は、継承ができていないんだなと感じました。本来は危なくないように計算してやっていたものが、継承されていないがために、新しい人たちがやると危ないことが起きる可能性が出てくるわけです」

 

 

存続期間が長い企業、特にメーカーでは、アナログからデジタルへの移行のプロセスで、技術以前の価値観が途切れてしまったり、技術的に受け継げれてきたことがもう必要ないと突然断ち切れてしまったりが多数発生してるはず。

 

機械化、自動化、AI化と進化するにつれ、人間の手作業を自然と軽視するようになったことと無関係ではないだろう。

 

日本人は手先が器用だからモノづくりも優秀だという優位性はこうして失われたように感じる。

 

あったはずのものが無くなるのは、振り返ると一瞬だと気付く、間に受け継がないというプロセスが組み込まれた瞬間に消えるのだ。

 

逆にいうと、受け継いできた人たちは自分が必要とされてないことを一瞬にして悟るだろう。

 

文化の交替が一瞬になるのも当然だ。

 

さらにこんな話へと続く。

 

 

「それに、『熱湯風呂』なんかでも、本当に60度の熱湯に入るわけではありません。おでんもそうですよ。ちゃんと計算されているわけです。あれは、芸人やコメディアンの巧みな芝居で成り立っているんです。でも、それを視聴者に説明しちゃダメなんです。マジックの種明かしは絶対にしないのと同じです。なんでも明確に説明しないといけない、ということではネタが作れなくなっちゃいますよ。

 

 

 

部外者にノウハウを教えるということが、いつの頃からか当たり前になった背景には、テクノロジーが日進月歩と呼ばれるようになったことと無縁ではないはず。

 

古い技術とそのノウハウにしがみつくよりも新しい技術を学びそれをマスターする方が価値が高いと思われたからだ。

 

ノウハウの流出は、古い技術を見捨てたことでノウハウが切り売りや安売りをされた結果だ。

 

しかし、新しい技術の世界はあっという間にコストとパフォーマンスのバランスの限界に近付くし、その技術は誰が使っても結果は同じなので差別化も容易ではない。

 

 

困った時は温故知新だと思い直しても、もはや参考にできる温故が無いとなる、そんな状態が今の日本だ。

 

中山秀征さんはこうも言っている。

 

 

今のテレビ界は、コンプライアンスで言われていることより、さらに小さい範囲で作っているような気がします。『絶対に怒られないように作る』感じになっています。

 

 

作りたいから作る、したいからする、というシンプルな行動原則が遠くなっている。

マッチングの悲喜交々

お見合いが復活してるかもしれないという話を聞いた。

 

結婚に至る場合、出会いや始まりがどういうパターンであっても、恋愛として成立したから結婚に至ったのだから、多くの人は恋愛結婚だと主張するだろう。

 

しかし、出会いが友人や同僚などの紹介だったらそれは一種のお見合いだと言えないこともないし、最近はむしろアプリだ。

 

 

恋愛だけでなくビジネスでも出会いは、間に人や組織や企業を介してのものが主流を占めている。

 

もっとざっくり言うと、当事者のみの合意のみで事がスタートするというよりも、間に誰かや何かを介してのマッチングの比重がグンと高まっているのだ。

 

だから、お見合いが復活してるとしても不思議はないのだ。

 

キーワードはマッチングだと感じた。

 

GoogleTrendsでマッチングの推移を見ると、

 

 

やはり近年上昇が著しいと共に、このマッチングはデジタルでありネット上でが主流のはず。

 

お見合いが復活してると言っても、昔の両者双方を知る仲人を介してのものとは違うので、事前情報に対する認識のズレはかなり大きいはず。

 

おもしろい図があった。

 

 

図の引用は次のツイートから。

https://twitter.com/kurinohayashi74/status/1570098759501221889?s=21&t=csnsqRqBKfXvpWOktzlkvg

 

 

 

マッチングが重視される程に、ズレや誤解が悲喜交々のドラマを生み出しているだろう。

 

 

あの統一教会にもマッチングのズレはよくあるらしい。

 

 

このツイートへのリプはおもしろい。

 

『断れるの?』という問いに対しては、

 

 

 

マッチングの悲喜交々には医師(研修医)も振り回されてるようだ。

 

 

 

出会いの仕組みだけ見ると、統一教会も病院も大差ないのは興味深い。

 

これも日本のガラパゴスだろうか?

 

人と人、人と職場や組織の出会いがマッチングに頼れば頼るほど悲喜交々のドラマが絶えることはなさそうだ。

 

 

ゴールド免許でリセット完了!

昨日運転免許証の更新をした。

 

今回の更新で10年ぶりにゴールド免許に戻った。

 

ゴールド免許の制度が始まったのは1994年からだが、運転しなければ取得できる仕組みなので価値を感じなかったしバカにしていた。

 

免許更新前の5年間無事故無違反であることがゴールド免許の条件。

 

 

ゴールド免許保持者の多くは、ただ運良く無事故無違反だっただけで、法に則った運転を常にしてるわけではないというのは誰もが知ってること。

 

 

昔はスピード違反が心配だったし、捕まるのはそればかりだったし、逆にいうとスピード違反以外はしないと思っていた。

 

21世紀に入ってからは車やバイクはただ安全であることが大事だと思っていたので自然とスピードは出さなくなったので、価値は感じなくてもゴールド免許で当たり前だと思っていた。

 

今回以前の過去2回の更新ではどちらもしょうもない違反がネックになってブルー免許になっていた。

 

最後の違反は8年くらい前で、朝7時から9時まで侵入禁止の道路に、そこがそういう道だと知っていながら8時50分頃、まあ大丈夫だろうと入ってしまい捕まった。

 

その前の違反は13年〜14年前で、待ってる電話がかかって来て、実はすぐそばにパトカーがいたのに気付かずに電話に出てしまって捕まった。

 

言い訳としては『魔が刺した』と言いたくなるようでいて、心の油断を突かれたのだ。

 

理由はどうであれ、ゴールド免許が遠い存在になっていたので今回無事にゴールドで更新できて少しホッとしている。

 

 

大したことではないのだが、10年がかりだったこともあり、気持ち的にはリセット完了という気分なのだ。

 

 

免許の更新期間が5年になったのが2002年からだが、このせいでゴールド免許が遠いと感じてる人は意外と多いかもしれない。

 

沈黙が意味するのは?

次の話が出た頃、夏野剛(好きな人物ではないのであえて敬称略)を小バカにするツイートをよく目にした。

 

KADOKAWA夏野剛社長 ABEMA番組出演見合わせ 五輪汚職で会長逮捕受け 9/14(水)

番組冒頭で、進行役の平石直之アナウンサーが「出演を予定していました夏野剛さんですが、KADOKAWA会長の逮捕の対応のため、本日はお休みとなりました」と説明した。

 

 

出たがりで、強がりな性格の人物なので、メディアに露出して声高に持論を吠えたいはずなので、いつ頃どんな顔してどんな持論を吠えるかを、見たくはないが気にしていた。

 

 

今起きていることは東京オリンピックの汚職に関連しての捜査で、元電通の高橋治之が逮捕された件に関連してで、その流れがKADOKAWAの関与に移ったために起きていること。

 

ちなみに夏野剛がKADOKAWAの代表になったのは2021年6月で、それ以前に子会社のドワンゴの代表を務めた時期もあるが、KADOKAWAの代表になる直前には別の立場で活動してたのでオリンピック汚職に関係してる可能性はないはず。

 

 

 

今日(9月21日)の時点で最新のツイートが8月30日なので、それ以降ツイートしてないということになる。

 

 

 

この沈黙が意味するのは何だろうか?

 

上記でも書いたが、出たがりで吠えたがりの性格だから、沈黙を貫くのは苦痛のはず。

 

掘り返されたくない悪事でもあるのだろうか、そうであったらおもしろいなと思って色々検索するが何も出ない、もちろんわたしと同じく嫌いだという意見にはたくさん出くわすが。

 

そんな中に『そうかもしれない』と思わせる話があった。

 

 

ホリエモンは以下の動画で、捜査の成り行き次第では夏野剛がKADOKAWAの経営を完全に担う可能性があるのではと言っている。

 

 

www.youtube.com

 

 

ホリエモンの言う通りの展開だと夏野剛には棚ぼた的なラッキーなのかもしれない。

 

だとすれば沈黙は金だ。

 

吠えたさを堪えて沈黙してるのではなく、大笑いを堪えているのかもしれない。

 

 

だとすると、おもしろくない。

 

『循環』に関するあれこれ

地球温暖化やSDGsについて思いを馳せると循環に関心が移る。

 

循環するものに水がある。

 

水をイメージすると液体だが、環境次第で個体の氷にもなれば気体の水蒸気にもなる。

 

液体だと地球上を動ける範囲が限定的だが、気体になったり固体になったりできるとさまざまな移動が可能になるだけでなく、移動しないということも可能になる。

 

液体、気体、固体という変化では体積の変化も伴うので、破壊力も秘めている。

 

 

 

この循環するものとして人間を考えた場合、解釈は複数存在する。

 

一つは死んだ場合、これが一番わかりやすい。

 

生きてる人間が死んだ場合、土葬にすると時間を掛けて土に戻るという循環が感じられる。

 

火葬にすると、骨以外はなくなる、ということはきっと空気になっているのだろうと想像できる、呼吸してる空気の成分には誰か知らない死者の燃焼成分が混じっていても不思議はない。

 

船の事故などで、水中で亡くなった方の場合は海洋生物に食べられ、そんな海洋生物は人間をはじめとした陸上生物にも食べられていることを想像するとやはり循環が感じられる。

 

二つ目は、定住や移住あるいは引越しや仕事の出張のように生きて生活する場所としての移動が循環に感じられるというもの。

 

三つ目としては、関係する人間関係にも循環という視点は当てはまるかもしれない。

 

 

他にも、生き方として同じ過ちを繰り返すというのも何かの循環を感じる事ができる。

 

 

循環してるものを想像すると、水は世界中のどこにでも到達可能であるとともに、砂漠のように水の循環が感じにくい世界もあるが、そんな砂漠も境界は水の循環が感じられるものだ。

 

巡って来ないようでも、実は隣り合ってたりするのだ。

 

 

人間の欲望を駆り立てる循環するものとしてはお金が頂点だろうか?

 

日本には諺として金は天下の回り物というのがある。

 

この諺の由来を調べると、真面目に働くことを奨励するためのもののようで、あまり面白味は感じない。

 

しかし、現代のように格差の時代になると、神や天の摂理としてカネの循環があるように感じられる。

 

この場合の循環は、極端に偏ったものだ。

 

お金を水のようなものだと考えると、

 

植物が育たないほど水が循環しない砂漠のようにお金が循環してこないのは辛いが、洪水や津波が押し寄せて何もかも根こそぎ破壊されるのも辛い、ということは莫大なカネが循環してくると、想像よりも苦しいことが起きるのかもしれない。

 

もっとも莫大なカネと言われても、想像してる金額は人によってまるで違うだろう。

 

 

こういうことを考えていると、循環と言っても多種多様な循環があることが想像できると共に、循環に関しては不満があっても不満を露わにするよりも、ありのままを受け入れることの方が賢明に感じられる。

 

なぜなら、巡って来ないようでも、実は隣り合ってても何の不思議もないからだ。

『循環』に関するあれこれ

地球温暖化やSDGsについて思いを馳せると循環に関心が移る。

 

循環するものに水がある。

 

水をイメージすると液体だが、環境次第で個体の氷にもなれば気体の水蒸気にもなる。

 

液体だと地球上を動ける範囲が限定的だが、気体になったり固体になったりできるとさまざまな移動が可能になるだけでなく、移動しないということも可能になる。

 

液体、気体、固体という変化では体積の変化も伴うので、破壊力も秘めている。

 

 

 

この循環するものとして人間を考えた場合、解釈は複数存在する。

 

一つは死んだ場合、これが一番わかりやすい。

 

生きてる人間が死んだ場合、土葬にすると時間を掛けて土に戻るという循環が感じられる。

 

火葬にすると、骨以外はなくなる、ということはきっと空気になっているのだろうと想像できる、呼吸してる空気の成分には誰か知らない死者の燃焼成分が混じっていても不思議はない。

 

船の事故などで、水中で亡くなった方の場合は海洋生物に食べられ、そんな海洋生物は人間をはじめとした陸上生物にも食べられていることを想像するとやはり循環が感じられる。

 

二つ目は、定住や移住あるいは引越しや仕事の出張のように生きて生活する場所としての移動が循環に感じられるというもの。

 

三つ目としては、関係する人間関係にも循環という視点は当てはまるかもしれない。

 

 

他にも、生き方として同じ過ちを繰り返すというのも何かの循環を感じる事ができる。

 

 

循環してるものを想像すると、水は世界中のどこにでも到達可能であるとともに、砂漠のように水の循環が感じにくい世界もあるが、そんな砂漠も境界は水の循環が感じられるものだ。

 

巡って来ないようでも、実は隣り合ってたりするのだ。

 

 

人間の欲望を駆り立てる循環するものとしてはお金が頂点だろうか?

 

日本には諺として金は天下の回り物というのがある。

 

この諺の由来を調べると、真面目に働くことを奨励するためのもののようで、あまり面白味は感じない。

 

しかし、現代のように格差の時代になると、神や天の摂理としてカネの循環があるように感じられる。

 

この場合の循環は、極端に偏ったものだ。

 

お金を水のようなものだと考えると、

 

植物が育たないほど水が循環しない砂漠のようにお金が循環してこないのは辛いが、洪水や津波が押し寄せて何もかも根こそぎ破壊されるのも辛い、ということは莫大なカネが循環してくると、想像よりも苦しいことが起きるのかもしれない。

 

もっとも莫大なカネと言われても、想像してる金額は人によってまるで違うだろう。

 

 

こういうことを考えていると、循環と言っても多種多様な循環があることが想像できると共に、循環に関しては不満があっても不満を露わにするよりも、ありのままを受け入れることの方が賢明に感じられる。

 

なぜなら、巡って来ないようでも、実は隣り合ってても何の不思議もないからだ。

嵐を呼んだのは矢沢永吉なのか、それともファンなのか

台風14号が九州を縦断するのではと17日に予報され出すと、続々と公共交通機関が18日の運行停止を発表し始めた。

 

 

 

一方で、三連休を当て込んでのイベントは判断に苦しんだようだ。

 

 

 

 

そんな中で、賛否両論巻き起こしていたのが矢沢永吉。

 

 

 

 

 

 

矢沢永吉は嵐を呼ぶ男だなと完全に他人事だった。

 

 

そしてコンサート終了。

 

 

飛んだとばっちりは関係各位に波及。

 

 

 

 

電車が止まることは予めアナウンスされていたし、矢沢永吉からファンに対しては『自身の判断で安全を確保でき帰路を確保出来る方のみ参加ください』と呼びかけられていたが…。

 

 

ファンに対してはというか、世間に対する言い訳は発されていたが、身内とも言える一部のスタッフそれも弱者に対しては…。

 

 

 

当然の如く、来るべくして来たファンが取った行動は…。

 

 

 

 

 

 

 

中には、ホテルの予約客から予約を横取りしようとする者までいたようだ。

 

 

 

探せばたくさん出てくる。

 

ツイートを引用させていただいたのは、こんなことも起きてたんだと驚いたものの一部。

 

 

間違いなく昭和だったら美談で済まされたはず。

 

昭和だから許容されたわけではなく、昭和にはこんな事が起きてるということを知る術が無かったし、伝える術を持ってるメディアは儲けになるように美談にすり替えるから。

 

 

軸がブレずに独自の路線を歩んでるように見えた矢沢永吉だが、今回の件で一つの時代が完全に過去になったなと実感した。

 

 

ファンが来るからコンサートを開催したのか、コンサートが開催されるからファンは来たのか、どちらにしても破れ鍋に綴蓋の関係だ。