違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

信じる者は・・・

実際にあるかどうかよく分からないのにあると信じてるものがある。

 

 

 

 

運は、あるとかない以外に良い悪いと使うことも多い。

 

心もよく似てる。

 

運には他力本願の匂いもするが、実力や努力とも無縁ではなさそう。

 

実力や努力と関係するならば運は、天や神様がくれるものとも違いそう。

 

経験上、運と密接に関係してそうに感じられるものにはタイミングがある。

 

以下、経験上と何度か使うがこれは自分の場合もあれば身近にいた別の人の場合もある

 

 

タイミングは早過ぎても遅過ぎてもダメだし、忘れた頃に巡ってくることもありそう。

 

これまた経験上だが、運が巡って来て、その運を確実に活かせたような場合、人は謙虚になる。

 

信じて良いのだろうかという戸惑いと共に、これが運ならば、自分一人のせいで実現したとはとても思えないとでも思うからだろう、そういう意味で謙虚になる場合、身近な人に感謝を感じることがある、特に何かをしてもらったわけではなくても。

 

逆に言うと、運を掴んだかに見えるような場合に一人きりだと満足感や充実感は乏しいかもしれない。

 

 

人間のあらゆる肉体的な機能を理解してるのは専門分野を持たないベテランの解剖医だと言われる。

 

有能でベテランの解剖医ほど、脳や心臓を含めてどの臓器にも心の役目を果たすような機能はないという。

 

しかし、心が存在してることは一人一人が実際の自分に感じているはず。

 

心は一貫性があるようでも気分によって変動することも多そう、変動しながらもその変動には変動幅に中心点が感じられる。

 

そういう意味では、心にはやっぱりその人固有の要素が感じられるという点で存在を感じることができる。

 

一方で、説得や洗脳という外部刺激で簡単に変わることも少なくなさそう。

 

 

宗教の世界では「信じる者は救われる」と説くが、現実世界では「信じる者は騙される」という事件やトラブルが後を絶たない。

 

 

信じた結果騙される人が陥る心理には、「信じない者は地獄に落ちる」があるらしい。

 

 

自分のことだからといって簡単ではないのが、何を信じるかであり、何を信じないかだ。

感情を逆撫でするリスキリング

現在、人の感情を絶賛逆撫で中なのが「リスキリング」だ。

 

 

直訳すれば学び直しを意味するのだが、自分に対して言われたと感じる人々にとっては、自分の人生や積み重ねたキャリアを否定されたかのように感じる使い方を岸田総理はしてしまったのだ。

 

岸田総理のこのワードの使い方の不味さもさることながら、リスキリングが持つ意味も不快を煽っているのだ。

 

そもそも学び直しとは何か?

 

おそらく資格の取得のようなものを岸田総理は意味したのかもしれない。

 

資格を取るぐらいのことは厭うなよという本音が出てしまったのかもしれない。

 

うまく行ってない人は怠けてるからだという本音でもあるだろう。

 

一方、それを聞かされた一般大衆にすればそんなことは散々やり尽くしているのだ。

 

一般大衆の本音は、学び直し程度で活路が見出せるような状況ではないというものなので、「ああこの人(岸田さん)はやっぱり何も分かってない」ということを思い知らされてイライラしているのだ。

 

Twitterを見てると面白いことを書いてる方がいた。

 

その文面だけを記すと、

 

 

リスキリングとは、リストラ(事業再構築)と首切り(キリング)を組み合わせた造語で、中高年に再び(Re)、「技能」(スキリング)を持たせ、雇用を流動化する政策「リスキング」もその範疇にあります。

 

 

 

ただ、不満を論っても事態は改善しない。

 

一人一人が自分に合ったリスキリングを定義し、事態の改善を図る必要があることだけは間違いない。

 

そういうリスキリングが定義でき事態の改善が実現できるような場合には、その内容は自分にしか当てはまらないものになってるはず。

 

この作業は、考えたらできるというような簡単なものではないが、偶然やハプニングには大いに期待できるはず。

 

つまり、考えてもしょうがないが、考えなければもっとしょうがなくなるのだ。

 

ちなみに、リスキリングに似た意味合いのワードとしてはリカレントがある。

 

リカレントは、社会に出た人が改めて学びなおすという意味で使われ、学びとは循環であり終わりがないという意味。

 

リスキリングには、リカレントをものすごく薄っぺらくしたような雰囲気が漂う。

 

きっとどこかのコンサルにでも吹き込まれて使ったのだろう。

下手な考え休むに似たり

情報化社会とはデータ化社会、そう思わせる記事。

 

この記事はタイトルを見れば分かるように野球の話としてされてるが、ジャンルを問わずあらゆる分野で起きている現実であり真実なのかもしれない。

 

【独占】「だからつまらない」ダルビッシュ有が語るデータ野球への危機感 新たな取り組み“野球ノート”の中身

 

ぜひ全文を読んでほしいが、象徴的な部分を引用すると、

 

〜〜〜

イチローさん(引退会見)

 

 「(野球は)頭を使わなきゃできない競技なんですよ。本来は。でもそうじゃなくなってきているのがどうも気持ち悪くて、危機感を持っている人って結構いると思うんですよね」

〜〜〜

 

〜〜〜

ダルビッシュ投手:

 

 もう、答えが出ている状態。問題集と一緒で答えがあるじゃないですか、わからないでずっと(問題を)解いていくのが昔で、今は答えが横にあって「ああ、こういう感じで、じゃあ式はどうしていこうか」っていうところの話しになっているのであんまり面白くない。

〜〜〜

 

もうちょっと汎用性のある話に置き換えるときっと次のようになるのでは。

 

豊富なデータの分析から導き出された答えをまとめてマニュアル化すると、自己流で一生懸命考えるよりも確度の高い答えに辿り着く、と。

 

記事の中では、そんな状態をダルビッシュさんは『つまらない』と言ってるのだ。

 

いつの時代でも、考えることがデータの分析を越えるためには必要だと思いたいが、その追いかけっこが漸近線の限界に近い領域での争いになってるとすれば、データの分析を当てにする方がずっと楽なのだろう、少なくともプロ野球(特にメジャーリーグ)では。

 

これが成立するためにはデータが的を射てる必要がある。

 

データが的を射るためには、ライバルとなる分析対象者が安定して同じ行動を取ってることが前提になる。

 

同じ行動とまでは行かなくても、一定の誤差内に留まる行動や反応が必要になる。

 

これはレベルの高さを示しているので、野球に関してはレベルが高い争いだからこそ成立するのだ。

 

 

一般社会に目を向けるとビッグデータの活用はあまり活発ではなさそうなのは、平均的な人間というのはさほどレベルが高くないので高度なマニュアル化に馴染まないのかもしれない。

 

 

上記の記事を読んで改めて思ったことは、ただ考えるというのはもはや遅れた行動だということだ。

 

考えるためには、データに基づく分析がどのように為されてるかを知らなければ片手落ちで不十分なのだ。

 

 

結構考えているつもりでも、多くの場合で下手な考え休むに似たり状態なのが現代なのだ。

 

儲かってもストレスは消えない

ストレスと価格は深く関係している

、売ろうと買おうと。

 

売る側は、高く売りたい、多く売りたいと望み、買う側は安く買いたい得をしたいと望む。

 

 

値付けや価格設定には基本的な考えがある。

 

原価+利益=価格

 

原価をきちんと計算してるか、原価計算には必要な要素をきちんと網羅できてるかが重要であり、利益をどのように設定するかにはビジネスにおける様々な思惑が込められ表現される。

 

これを踏まえて実際の値付けや価格に関しては、もう一つの真実が隠れている。

 

安いものには理由があり、高いものには理由はない、だ。

 

安い価格を可能にするためにはそれを裏付けるだけの合理的な根拠が必要になるのに対し、高い価格には必ずしも合理的な根拠があるわけではない。

 

現代人は消費者でありながら生産者でもあるので、買う側の気持ちだけでなく売る側の気持ちも察することが可能。

 

 

高い価格の商品やサービスには、合理的な根拠とは全く違う種類の価値の演出が施されていて、もっとも重要なことはその価値がユーザーや消費者に受け容れられているということだ。

 

それは詐欺や洗脳と紙一重でもある。

 

貴金属のように相場が変動するようなものにはその都度高い低いという評価がなされるが、相場自体には透明性があるため極めて合理性が高い。

 

金やダイヤモンドのように付加価値が高いものでも相場という原則の枠に縛られる。

 

 

原価や相場という枠に縛られない価値を持てればストレスは大きく減るだろう、この場合儲かるというのは二の次だ。

 

 

 

ごく普通に生きてると、無自覚なままに縛られることを選ぶことは少なくないし、それは常識とも言われる。

 

 

一皮剥けたければ常識を覆せとはよく言われるが、その考え方すら何かに縛られていることは少なくない。

 

価格や値付けに関して少なくないことには次のようなものもある。

 

少数生産のブランド品や希少価値の中古品や骨董品の場合には、原価や相場という合理性が全く感じられない価格や値付けが成立することは少なくない。

 

現代人は大量生産や相場がある世界が生み出す商品やサービスに囲まれている。

 

思考の原則も自ずと縛られたものになる。

 

縛られると、どんな場合であってもやがては閉塞感に陥る。

 

自由ではないのだからしょうがない。

 

そんな気持ちを誤魔化すために求めるのが儲かるということだが、儲かっても儲からなくても閉塞感は付き纏うのでストレスは消えない。

 

儲からないからストレスを感じてると思ってる人は、儲かってもストレスは消えないだろう。

石橋を叩いて〇〇

人間が自分に都合の良いストーリーを組み立てるのは生きていくために必要。

 

だからこそ夢や希望を描くことができるし、夢や希望を描ければこそ絶望を乗り越えることもできる。

 

しかし、覚えておかなければいけないことはギリシャ神話のパンドラの箱の話だ。

 

この世のありとあらゆる罪悪を封じ込めたパンドラの箱が壊され、この世にありとあらゆる罪悪が蔓延し世界が絶望に満ち溢れた時に、パンドラの箱には一つだけ世に出なかった罪悪があった。

 

こんな絶望に満ち溢れた世界に一つの罪悪が加わってももはや大した違いはないと最後の一つも放り出した。

 

その最後の一つの罪悪が『希望』だった。

 

希望があることで罪悪に満ち溢れた世界でも人は生きられるようになったという話。(実際には諸説あるようだが)

 

そんな話を思い出させるような出来事が伝えられていた。

 

 

“無料モニター”のはずが…残された“健康被害”と「高額ローン返済」 銀座の歯科矯正めぐり集団提訴

 

 

詳しくは記事を読んでほしいが、この詐欺事件にはいくつかのキーワードが揃ったことで希望も強くなったような気がする。

 

  • 実質無料

 

  • 銀座

 

  • コロナ禍

 

実質無料は得をしたいという希望を煽り、銀座の店舗ということで期待や信頼が煽られ、コロナ禍であることが「今のうちに」という気持ちを煽ったのだろう。

 

実質無料が最大の落とし穴なのだが、他の要素も加わったことで希望は強固に補強されたことだろう。

 

希望はあやふやなふわふわしたものから、幸せへと続く石の橋のような実態感を感じたはずだ。

 

金銭的な得はともかくとして、歯科矯正そのものには疑いを持ってなかったはず。

 

このように感じたことは非難されるべきではない。

 

全ての人にとって明日は我が身の話なのだ。

 

 

ただ、思い出したいのは『石橋を叩いて渡る』という諺だろう。

 

この諺を強く意識してる人は、石橋を叩き過ぎて壊してしまうなどとも言われることがある。

 

 

プロセスがどうであれ結果が出ると、他人は運が良かったとか悪かったとか、もっともらしい余計なことしか言わない。

 

信用する前に疑うことは必須で、疑問に対しての答えに確信が持てないものは選んではいけない。

 

それでヒビが入ったり壊れるような人間関係ならばどんどん壊したほうが賢明だ。

 

そのくらいの割り切りが必要な時代なのだ。

 

 

三浦瑠麗氏の失脚は自浄作用の結果か?

国際政治学者を名乗る三浦瑠麗氏の話題が賑やかだ。

 

なんだかよくわからない存在だが妙に露出が多く、いわゆるインフルエンサーの一種なのだろうが、政治に関係する討論番組や報道番組への露出のせいかインフルエンサーの枠を越えた影響力を持っていたようだが、その神通力ももはや風前の灯のようだ。

 

三浦瑠麗氏の落日…詐欺容疑で夫に告訴状 特捜部の自宅・職場ガサ入れ「この時期」のナゼ

 

三浦瑠麗氏、夫の10億円投資トラブルでテレビ追放の危機…成長戦略会議では「太陽光発電」押しまくり発言

 

三浦瑠麗 夫が家宅捜索…『めざまし8』出演見合わせで現実味帯びる“テレビ界追放”の危機

 

 

名前や顔は知っているが、何をしてるのか、あるいは実績はというと、なんだかよくわからない。

 

 

一体どんな人なのかと過去に遡って色々検索する中で大きく二つのことが関係してると感じられた。

 

  • 安倍晋三(with菅義偉)

 

  • NHK

 

この二つは根は同じだ。

 

 

ちなみに三浦瑠麗とGoogleTrendsで検索すると、

 

2015年の年明けから反応が増えてるのが分かるが、その理由はウィキペディアを見て納得できた。

 

 

初めてのテレビ出演は、友人の古市憲寿が司会を務める2015年元日放送の『ニッポンのジレンマ』(NHK)で、パネリストとして出演。その放送を観た『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)のスタッフから古市の紹介で連絡があり、同月下旬に『朝生』に初出演した。以降、『朝生』ではレギュラー出演するなど若手世代の代表的な論客として注目を集め、様々な討論番組やニュース番組に出演している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/三浦瑠麗

 

 

 

 

初のテレビ出演がNHKだからと言ってこの時点ではNHKとは結びつかない。

 

世間では、三浦瑠麗氏が安倍政権に上手に擦り寄ったと見る向きも多いようだが、私にはむしろ安倍晋三氏のお気に入りになったと感じられた。

 

そして、そんな二人の共通点として「反知性」を挙げる声も多い。

 

 

反知性の一つとして「既存メディアの論調」にはとにかく抵抗すると指摘する声も多い。

 

 

さらに遡って色々検索すると、2006年第一次安倍内閣が始まった頃から安倍晋三氏(with菅義偉氏)のNHKに対する野心の発生が見えてくるが、これはご存知のように安倍政権が長続きしなかった。

 

 

メディアや放送を牛耳るためには経営や運営を牛耳ることと、発するコンテンツを牛耳ることの異なる二つがある。

 

経営や運営には政治力が有効だが、発するコンテンツは露骨なことが行われたら世間は受け容れない。

 

そのためには都合よく使える代弁者が便利だ。

 

2012年末からの第二次安倍政権下ではコンテンツへの野心が再燃したことを感じる人も多いだろう。

 

象徴的なのは2016年のリオデジャネイロオリンピックの閉会式にマリオの格好で登場した時だ。

 

 

 

三浦瑠麗氏のテレビへの露出が増えたのが2015年から、この頃から中身は薄っぺらいのに安倍政権を擁護し代弁する人たちが露出を増やしたことを多くの人が感じているだろう。

 

それもこれも後ろ盾として安倍晋三氏がいたからだろうが、昨年7月に暗殺されて以降神通力は消えているのだろう。

 

暗殺されたということで神格化の恐れもあったが、どうやらそれはなさそうで、最近になって虎の威を借りてのさばっていた者が排除され始めているようにも感じられる。

 

 

この動きを自浄作用と喜んで良いのだろうか?

 

 

水道管凍結

10年に一度と警報が出されていた今回の大寒波は取り敢えず峠を越えたようだ。

 

報道では取り上げられない程度の被害を受けた方は少なくないかもしれない。

 

個人的には水道管の凍結を一番恐れていた。

 

冬になると水道管凍結は風物詩とも言えるが、世間が水道管凍結であたふたしたのは2016年が記憶に新しいし、わたしも自宅の蛇口のパッキンを二箇所交換することになった。

 

GoogleTrendsで検索可能な2004年以降で『水道管凍結』を見ると、

 

 

 

グラフの推移から、2016年1月以降『水道管凍結』の検索が顕著に増えてるのはトラウマになったからかもしれない。

 

車を運転せざるを得ないような人ならば路面凍結を恐れるだろう。

 

『路面凍結』も加えてを比較してみると、

 

 

 

 

路面凍結への警戒心は、運転しないということで回避できることを考えると、避けられるかどうかの不安は水道管の凍結の方が大きいことが感じられる。

 

 

水道管の凍結に関してはおもしろいツイートがあった。

 

 

 

このツイートのリプを読むと雪国の方や水道管凍結が頻繁に起こりうるような地域に住んでる方はその答えを生活の知恵として持ってることが分かる。

 

 

今回は給湯と水を合わせて7カ所ある蛇口のうち洗面台の水の蛇口だけが凍結したが、それも何の被害にもつながらなかった。

 

 

とりあえずホッとしている。