違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

スキャンダルは肥やしか?

芸能界やプロ野球界でスキャンダルが相次いでいる。

 

お金も絡んでいるのだろうが、それ以上にセクハラやパワハラのスキャンダル。

 

一時期流行ったかに見えたMeTooとは共通してるかもしれないが趣きの違いも感じられる。

 

 

昭和だったら罷り通る価値観に、スキャンダルは芸の肥やしというのがあったが、最近はスキャンダルはやっぱりダメージなだけになっている。

 

その理由は消えないデジタルタトゥーと誰でも情報発信できるせいだろう。

 

 

芸の肥やしと武勇伝はよく似ている。

 

狭い世界でしか通用しない誇大妄想と紙一重。

 

 

どちらも自分から語ると決してかっこいいものではないが、他人が羨望を込めて語るから過大評価されやすくなるが、行為としては赤の他人からは非難される種類が多い、だからこそのスキャンダルだ。

 

ところで芸の肥やしという表現の由来を調べると、歌舞伎役者が女形を上手に演じるためには女性の動きや振る舞いを知る必要があるというところから女遊びに関して言われ始めたらしい。

 

 

現代ではよほど閉鎖性を保てる環境がなければ、発信することは拡散するし、一旦拡散するともうどうしようもなくなる。

 

拡散すると言ってもほとんどは埋没してしまうのだが、発見されると、狭い世界の理屈は通用しなくなる。

 

 

狭い世界の理屈では許容されるかもしれない回転寿司屋での醤油ペロペロ系の悪ふざけも、当事者は芸の肥やしか武勇伝のつもりだろうが、世間様は許さないのだ。

 

その被害を受けるのは自分だと言わんばかりに反応するのは被害妄想だとしてもだ。

 

 

芸の肥やしや武勇伝のつもりならばやめといた方が賢明なことが増えている。

 

計画性vs衝動性

昨日は二つの訳が分からない事件が話題になっていた。

 

どちらも犯人はすでに警察の監視下にあり市民が心配する必要はないが謎は多い。

 

二つの事件の第一報に近いものは次のように伝えていた。

 

 

 

 

 

 

長野の事件の犯人は地元の市議会議長の息子で犯行後自宅に立て篭もったが、それが分かったのは第一報からずいぶん経った後。

 

 

福岡の事件では犯人は入院中で事情は全く不明。

 

 

 

さて、これらの事件にニュースで接したほとんどの人は、犯人に対して『どんな事情があったか知らないがそんなことするなんてバカだなあ』と思いながらも、どんな事情だったのかを知りたくて仕方ないだろう。

 

 

そして、それがどんな事情であっても『自分だったらやらないな』とも思うはず。

 

 

 

しかし、妙に寝付けない夜中に一人でいたとしたら、犯人と自分は大して違わないかもしれないと思うかもしれない。

 

 

自分の心の奥底にある不満や怒りはそれが何に対するものであっても、日常生活の中ではうまく折り合いをつけて眠らせているだけだと気付くと、きっかけ一つでそんな不満や怒りは目を覚まし明日は我が身かもと寒気を感じるかもしれない。

 

 

そんな寒気を意識し自覚したら、そしてそれを自力で払拭できなければ、何かに縋りたくなるはず。

 

縋るというよりも依存だ。

 

 

依存先は大きく二つだ。

 

 

ことばか薬物。

 

 

両方という場合もあるだろう。

 

 

ことばへの依存の場合、そのことばを発する人に対する個人崇拝的な依存でもあるだろう。

 

ことばには過去の偉人や歴史的な名言も含まれる。

 

 

自分自身で自分をうまくコントロールできない人の末路は依存になるのだが、依存するという選択が最良のコントロールだと思い込むから依存に至ることが恐ろしいし、だから洗脳と呼ばれるのだ。

 

 

一般的には依存の反対語は自立とされるが、現実的には依存の反対語は『別の依存』だ。

 

 

犯罪者でもなければ話題にされるような事件も起こさない人は、法治国家では法律に従わざるを得ないという意味で、法律に依存してると言えるのかもしれない。

 

 

更に言うと、スマホや防犯カメラなどあちこちで自分の知らないところで自分が画像映像として捕捉されてることへの自意識が防衛意識として法律への依存を増しているのかもしれない。

 

 

取り上げた事件はどちらも犯人には計画性よりも衝動性しか感じられない。

 

 

依存していても、その依存の持続性が成立してれば衝動性に基づく事件は起きなかったはず。

 

 

依存の持続性が破綻したから起きたのだとすると、事件にはもう一つのパターンが存在することになる。

 

 

依存の持続性が破綻した場合に、計画性に基づいて起きる事件だ。

 

 

事件を見る際に、衝動性が前面に出てるか、それとも計画性が前面に出てるかで分類すると推理が楽しめるかもしれない。

 

ナンバーワン争いの保険がオンリーワン

世界が進歩を目指す限りイノベーターの誕生は必要だ。

 

イノベーターに求められるのは、イノベーションの創造だけ。

 

それ以外は別の誰かが考え整えれば良い。

 

誰がイノベーターになるかもどうでも良いことで、イノベーションを創造できるのなら誰でも構わない。

 

上記のイノベーターやイノベーションの部分はあらゆるものに置き換え可能。

 

もし、人類の上に神がいて、人類をどのようにコントロールするかをあくまでも人類の自治に任せるならば、そのように考えるかもしれない。

 

一方、人類の側はどうだろうか。

 

上記で例に挙げたイノベーターの場合だと、賞賛と富と権力がセットで手に入るだろう。

 

あらゆる分野で、トップに位置する者には起きる現象だ。

 

 

そんなトップを目指す自由は、日本人なら誰でも持っている。

 

自由とは持ってる人には当たり前で、それだけではなんの得もないが、世界には持ってない人も多く、罪を犯せば持っていても奪われる。

 

 

誰でも持ってるわけではないといえば、トップを目指すために必要な資質や環境もある。

 

自由であることは必要な環境の一つであることは間違いなく、これがあるだけで、たった一人だけのトップという分野を創造可能になる。

 

 

ナンバーワンよりオンリーワンというフレーズが流行ったことがある。

 

 

その時歓迎されたのは、ナンバーワンには一人しかなれないが、オンリーワンなら誰にでもなれるチャンスがあるという価値観だった。

 

しかし、オンリーワンという価値観は消えたとは感じないが、薄らいだようには感じられる。

 

それは、きっと人間が比較する生き物だからだろう。

 

 

オンリーワンは保険のような存在で、ナンバーワン争いで傷ついた心を癒すものかもしれない。

 

オンリーワンで傷ついた心を癒したら、またナンバーワン争いに参戦するもありだろうし、オンリーワンを極めるのもありだろう。

 

極められたオンリーワンは、ちょっとやそっとの頑張りで真似できるものではないので、気が付くとナンバーワンになることもある。

 

 

本当はオンリーワンの存在でいたいのに、ナンバーワンという評価が付いて回ると追われるようになり、不毛な争いと無縁でいたかったはずなのに、不毛な争いという戦場に駆り出されることになる。

 

 

こんなことを考えていたら、歴史が繰り返すことがわかるような気がする。

 

現代人は説得されたり納得させられることを嫌っている

初めて自転車に乗れた時その理由は考えない。

 

初めて逆上がりができた時も同じだ。

 

その他多数あるだろう誰にだって、初めての時が。

 

 

後から振り返ってあの時なぜできたのだろうかと思うことがある。

 

思い浮かぶ理由は、誰だって似てるかもしれない。

 

  • たまたま偶然

 

  • 教え方が上手な人に教わった

 

  • 一生懸命練習したから

 

  • できるまで諦めなかったから

 

  • 自分に素質があったから

 

 

これらはどれも当たっているかもしれないが、全て間違っている。

 

答えは『できるようになりたいと本気で望んだから』だ。

 

『馬を水飲み場に連れて行っても水を飲むかは馬次第だ』と同じで、どんなに教え方が上手な人がいても、教えを実践できるかはやる気と練習次第だし、やる気さえ持続してれば独学や我流であっても遅かれ早かれできただろう。

 

 

現代のように何事も効率の良さが求められるようになると、失われていく価値観がある。

 

 

若い頃嫌いな言葉の一つに『技は盗め』というのがあった。

 

当時の私は『上手に教える能力のない奴に限ってそういう言い方をする』と思っていた。

 

そして、かなり長いことそう思い続けていた。

 

実際に教える能力の低い人が多かったからでもあるが。

 

 

そして最近、と言っても数年くらいの幅はあるが、教え魔という言葉を聞くことが増えた。

 

これはひとえに教える側(教えたがる人でもある)と教えられる側の意識のギャップを示しているのだが、これは効率重視の成れの果てではと思うと、そうとしか思えなくなった。

 

 

そうなると、一周回って『技は盗め』が価値を持ち出すように感じたのだ。

 

役に立つからという理由だけではきっと技は身につかない。

 

そんな気持ちでやるくらいならChatGPTの方がよほどできるはず。

 

技を盗もうという動機は、その技を本気で身につけたいという気持ちがあって初めて成立するが、この気持ちには持続力がセットで求められる。

 

教えられる側の存在が、学ぶ側であることが大事になる。

 

 

今の時代の最も残念な点は、学生を除けば学ぶということはプライベートな時間を当てるしかないのだ。

 

じゃあ今の学生が学べることのありがたさを認識してるかというと、よく知らないが今の日本を見てると微妙な気がする。

 

 

学ぼうとする人を歓迎するのは、学びたいと思う人からお金を得ようとする人や組織であって、仕事や他のこととは両立しにくくなっている。

 

給料を得ながらだと教えられることはあっても、それは学びたいこととは限らない、だから教え魔なのだ。

 

教えられる内容は望んでるものではないのだ。

 

 

望むものとは、自発的なもので自分の内側からしか出てこない、しかしヒントは自分の外側に多数存在しても不思議はない。

 

自分の外側にあるヒントとの出会いは運に依存する割合が大きいかもしれない。

 

 

技は盗めが成立すると、背中で語るも成立する。

 

 

言わなきゃ伝わらないが当たり前の現代で、言った結果伝わってる多くのことはきっとどうでも良いことだらけのように感じる。

 

肝心なことはちっとも伝わってこないと思ってる人は多いはず。

 

 

 

肝心なことは自分から求めなければ得られないし、肝心な情報を持ってる人でさえその価値に気付いてない人が多いとすれば巡り巡って伝わってくることは稀なのだから。

 

 

空気を読むとか察すると似てるようで全く違う自発的な価値観に目覚めることが答えを模索する人には必要になってるはずだ。

 

 

現代人は説得されたり納得させることを嫌っているのだ。

 

 

教えられてであっても、学んでであっても、その結果気付けるかが問われているのだ。

 

 

 

周りの人を不愉快にさせることしかできない人はChatGPTを恐れた方が良いかも

『AIって何だっけ?、ああそうだ人工知能だ』、そんなことを思っていたのは2015年頃のように記憶している。

 

AIの賢さが人間を超えることをシンギュラリティ(技術的特異点)と呼ぶが、この概念が生まれたとされるのは1993年。

 

シンギュラリティをAIが迎えると何が起きるかというと、AIが人間の雇用を奪うとされている。

 

機械化、自動化、IT化、どれも雇用を奪ってきたが、奪われたら奪われたなりに別の何かが見つかっていた、その都度給料や待遇は悪くなったかもしれないが。

 

AIが仕事や雇用を奪うと、奪われた人に次の行き場はあるのか?

 

そんなことを考えながら思った話。

 

 

 

コロナ前からIT化の裏方として各分野にAIが浸透してることは誰もが感じていたが、それは単なるIT化の延長線上で予定調和なものだった。

 

 

しかし、2023年ChatGPTの急速な浸透で一気にAIが雇用を奪うということが現実味を帯びてきたと考え、ChatGPTを恐れる人が増えているように感じる。

 

ChatGPTを恐れてる人は、過剰にChatGPTが役に立たない、簡単なことを間違う、と声高にアピールしてる人に多いと感じる。

 

 

AIが仕事や雇用を奪うと考える場合、誰もが頭に描くイメージは、アウトプットが人間より優秀だからだろうということだが、個人的には少し違うイメージを持っていることに改めて気付いた。

 

アウトプットの内容やレベルとは別に、ChatGPTには心地よいコミュニケーションが感じられるのだ。

 

それは言葉遣いであり、質問や疑問を意図通りに解釈してくれてることに対してだ。

 

アウトプットそのものに関しては、やっぱり自分が頑張るしかないかと思うレベルでも、良き仲間とコミュニケーションを取った後のような気持ちが得られるのだ。

 

 

社員数の多い会社ほど、コミュニケーションに関して問題児はいるだろう、年齢や社歴や肩書きに関係なく。

 

極端に自我が強いが故にコミュニケーションに問題があっても超優秀な人ならば存在価値は保てるかもしれないが、能力が並若しくは並以下でコミュニケーションに問題があるような人ならばChatGPTの方が100倍マシなはず、周りの人を不愉快にさせることはないはずだから。

 

 

ChatGPTは不愉快の一掃には効果があるだろうが、だからと言って日本では簡単にクビにはできない。

 

そうは言っても、明らかに居場所を追われるはずだ。

 

最近の日本では仕事の多くは誰がやっても同じようなものだろうから、それこそChatGPTの得意分野だろうし。

 

 

主張ばかりで協調性のない人は、少しは振る舞いを変えた方が良いかもしれない。

睡眠は日中の損傷を修復回復させている

起きて行動や活動を継続することは、それが遊びであろうと勉強や仕事であろうとそれなりに体力を使うことだと多くの人が認めるし、その継続の度合いによっては努力と評される。

 

一方で、ずっと寝続けることは何もしてないと思われ、サボってるとか怠けてるとかだらしないことだと思われがち。

 

睡眠がいかに大事かが知られるようになっても睡眠を多く取ることは他人からはあまり評価されない。

 

 

しかし、大谷翔平さんの登場と活躍のおかげでかなり空気は変わってるはず。

 

オフシーズンには睡眠時間10時間に加え昼寝も2時間取っているらしい。

 

10時間ベッドや布団でゴロゴロした経験を持ってる人でも、睡眠時間10時間はなかなか取れない。

 

寝続けるのも楽ではないのだ。

 

楽ではないと言っても、起きて活動するのとは違うのでカロリーの消費は少ないので、睡眠の間に能動的な何かが行われてる実感が乏しいのも睡眠にネガティブなイメージを与えるのだろう。

 

睡眠で体力が回復することを実感することはあるが、それ以外に何が行われているのだろうかと思いChatGPTに質問してみた。

 

その答えを要約すると、睡眠が担っているのは修復と回復だ。

 

逆にいうと起きて活動することは損傷を促進する行為になるのだ。

 

 

体力とざっくり言ってるが守備範囲が広く、神経系やホルモン分泌や免疫系なども起きて活動してる日中に傷ついているのだ。

 

 

これはケガをしてるような自覚を伴うものではなく、もっと無自覚な種類だ。

 

睡眠による損傷からの回復や修復は成長でもあるので、赤ちゃんや子供の睡眠時間が長いのは当然だ。

 

一見バリバリ頑張っている人ほど睡眠時間を取っていないことが多いが、真に発揮してるパフォーマンスに目を向けると、結果が出せてるのはコネを持ってるからだけが理由で、パフォーマンスなどとは別の種類の恩恵によるものであることがほとんど。

 

睡眠時間が少ない人は結果は出せても、発揮するパフォーマンスは低いのだが、世間はパフォーマンスよりも結果だけを欲しがる傾向が強いので、評価されがちなことは不都合な真実だ。

 

 

簡単なことではないかもしれないが、不都合な真実からは目を逸らしてはいけないし、その種類によっては抗うことも大事になる。

 

 

睡眠を軽視する人に振り回されることは人生の大きな損失だし、たっぷり睡眠を取る前提であれば、日中はクタクタへとへとになるくらいの活動がちょうど良いのだ。

補完力

正しく判断するには情報が不足する時、人が発揮するのが補完力。

 

補完力は、創意工夫のための想像力であり推理力でもあり仮説の構築力でもあるが、誤解や錯覚の元でもある。

 

補完力の中でも脳が勝手に補完する癖は、手品やマジックのタネにも利用されるように、誤解や錯覚であっても補完した情報の方を信じる気持ちの方が強いという場合がある。

 

事実関係を正しく捉えようと場合には補完力は必ずしも良いとは言えないが、映画やドラマや小説など情緒的な鑑賞をするためには感情を大きく盛り上げるためには役立つ。

 

 

アナログからデジタルへシフトし、デジタルテクノロジーが進化すると、人は自らが持つ補完力を評価しなくなった。

 

評価しなくなったのは必ずしも当てにならないからで、二言目には『エビデンスはあるのか?』と言う人が増えたことでも分かる。

 

 

補完力が衰えた人には情に訴える話は通じないので、騙されないという意味では良いことだが、良い意味での感動を感じることも減ってるはず。

 

 

不満や物足りなさを感じてるからこそ生まれるのが補完という意識だが、補完に完成度を求める気持ちが強いと補完力は失われる傾向が強い。

 

それは、自分でなんとかするというよりも、自分の外側に答えを求めるからだ。

 

 

自分の外側といってもリアルな知ってる環境よりも、自分の知らない世界や人間関係に活路を求めることが増えたのはデジタルテクノロジーが発達したらだ。

 

 

デジタルテクノロジーの発達によって本当は持ってるはずの補完力を失っている人はどんどん増えているだろう。