違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

ヒーローになり損なった佐々木朗希さん

メジャー入りが嘱望されてるロッテの投手の佐々木朗希さん。

 

嘱望されてると言うよりもすでに意中のメジャー球団から内定が出ているとも噂されてる、それが事実なら背後で動いている人や組織も多そうだ。

 

そんな佐々木朗希さんだが、私のスマホもiPadもMacでも「ささきろうき」と入力しても変換候補には「佐々木朗希」はでない「ろうき」が変換されないのだ。

 

私の環境ゆえの現象なのかそれとも誰でもなのか?

 

まだアルゴリズムからは有名人認定されてないことは確かなのだろう。

 

disる話なので書こうか書くまいかと少し躊躇したが、視点を変えることができればと思い書くことにした。

 

きっかけは次の記事。

 

【ロッテ】佐々木朗希の〝虚弱体質〟に募る不満 地元・岩手でも雄星、大谷、麟太郎との違いに嘆き節

 

 

野球で活躍してる同郷の他選手との比較で佐々木朗希さんにだけ付くことばが「虚弱体質」や「残念」。

 

実力があるであろうことは誰も疑ってないが、コンスタントに実力を発揮できないという点に誰もが不満を持っている、さらに言うと実力を発揮しても自分が消耗するだけで自分という商品の価値を落とすことになるとすら考えているのだろうと見えてしまうのだ。

 

そしてむしろ、そういう考えや振る舞いは佐々木朗希さんに高値が付くことを望むロッテ球団以外の取り巻き人種のせいだと思われていることの方が嫌われているのだ。

 

活躍する選手は自然と愛されキャラになるのに対し、すっかり嫌われキャラになっている。

 

よく考えると、印象的な投球はするが活躍してるというほどではない。

 

 

虚弱体質と揶揄される背景には過保護がある。

 

 

少し思い出すことがある、始まりは過保護ではなく正当な保護だった。

 

2019年7月25日に行われた第101回全国高校野球選手権岩手大会決勝戦において、佐々木は登板することなくチームも花巻東高校に2-12で敗れ、大船渡高校はあと一歩のところで35年ぶりの甲子園出場を逃した。試合後、大船渡高校の國保陽平監督は佐々木の登板回避について、「3年間で(佐々木が)一番壊れる可能性があると思った。故障を防ぐためですから。私が判断しました」と登板回避の理由を説明したが、これに対して大船渡高校には2日間で250件の苦情が殺到した。一方、当時は学童野球の試合で球数制限が適用されるなど、選手の「投げ過ぎ」が問題視されていた時期とも重なったことから、佐々木のその起用法を巡っては有識者やファンの間で賛否両論が巻き起こり、社会現象となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/佐々木朗希

 

 

太字にしたのはわたし

 

 

この当時、高校野球における投手の連投に次ぐ連投に対してもっと身体を労わる仕組みづくりが必要と言われていたので、決しておかしな始まりだったわけではない。

 

それから5年後が今だ。

 

中学生が大学生になったようなものだと考えると人によって思いは様々だろう。

 

 

ただ、その結果が冒頭の記事につながっているとしたら、決して昭和の価値観や根性論の押し付けではなさそうにも感じる。

 

なんだかよく分からないが佐々木朗希さんにだけ「佐々木朗希ファースト」が罷り通ってるようにも感じる。

 

全く関係ない話なのだが、過保護による〇〇ファーストの悪しき事例として次の事件がある。

 

<ススキノ首切断事件>田村瑠奈被告「首、拾った」と父親に…黒い袋には“小ぶりのスイカくらいの大きさのもの” 裁判で明かされた衝撃的発言 遺族は悲痛「一家全員の極刑を望む」 北海道札幌市

 

いびつな親子関係「瑠奈ファースト」

 

 

 

佐々木朗希さんが犯罪に関わるなどとは全く思わないが、とんでもなく大きなボタンの掛け違えが起きているとは感じてる。

 

佐々木朗希さんがメジャーに移ったとしても活躍するイメージも浮かばないし、もっと浮かばないのはヒーローになるイメージだ。

 

ファンはおろかチームメートとも仲良くできるイメージが浮かばないし、日本の報道が追いかけるイメージも浮かばない。

 

競技としての野球が好きな人と推し的な意味で野球が好きな人は視点も違えば論点も違う。

 

ヒーローはその両方から愛される必要がある、両方の期待に応える必要がある。

 

 

大谷翔平さんが現役で存在する現在ヒーローの枠には余りはない。

 

ヒットさせるつもりで作ってるはずのドラマが全くヒットしないという最近よくある話のような展開が予想される。

 

 

佐々木朗希さんの今後がどうなるかは分からないが、ヒーローの道だけは無くなったと感じてる。

 

接頭辞「ア」が付く多様性

今日目についた次の記事を読んで初めてアセクシャルなるワードを知った。

 

独身は職場で半人前扱い…「指輪」のために恋愛・セックス無しの"友情結婚"をしたアセクシャル女性の8年後

千紗さんは自身を「アセクシャル」という、恋愛や性行為などの性愛関係を必要としないセクシャリティの人間だと自覚する。そんな千紗さんが選んだ「結婚」が、恋愛・セックス無しの、通称「友情結婚」だった。相手は、自称ゲイ。

 

 

ChatGPTに聞くと、LGBTQとセットで普及した概念がアセクシャルらしく2000年代後半から2010年代に掛けて普及したようだがLGBTQは聞いたことがあってもアセクシャルは初めて聞くワードだった。

 

 

検索のレベルで認知が進んだのは比較的最近なのかもしれないことがGoogleTrendsの動きから感じられる。

 

 

 

次のツイートのように選挙に絡んだ動きの中でも伝わる人には伝わっていることが感じられる。

 

 

 

 

Twitterでアセクシャルと検索すると対のように使われてるワードとしてアロマンティックも目についた。

 

調べると、他人に恋愛感情を抱かない性癖と出る。

 

 

アセクシャルやアロマンティックに関してはNHKでも取り上げていたのが2022年、ドラマの番組宣伝と言えなくもなさそうだが。

 

知っていますか?“アロマンティック・アセクシュアル”

“他者に恋愛感情を抱かない“(アロマンティック)

 

“性的に他者に惹かれない”(アセクシュアル)

 

この言葉を初めて聞く方も多いのでは。

 

アロマンティックやアセクシュアルの人の中には

 

「一人で生きていくのが楽しい人」

 

「自認に迷っている人」

 

「ロマンティック・アセクシュアルの人(他者に恋愛感情を抱き、性的に惹かれない)」

 

「同居はしていないパートナー関係」

 

など様々な人がいる。

 

 

 

『ア』は英語の接頭辞で「a–」、「an−」によって「無い」や「否定」を意味し、元々はギリシャ語に由来するとChatGPTが教えてくれた。

 

 

人間はシンプルな存在なのかそれとも複雑な存在なのか、ますます分からなくなる。

 

鳥肌には従え

お題を頂戴したような気になる記事があった。

 

「鳥肌」はなぜ存在するのか。寒さから身を守る?意味がない?“鳥肌研究”の解説で感服の鳥肌がたった

 

 

~~~以下引用~~~

 

確かに、鳥肌そのものはかつての機能を失った名残としての反応なのかもしれません。しかし、未だに恐怖や感動で鳥肌が立つということは、こうした強い感情が生じるメカニズムと鳥肌との間の関係が、今でも現役バリバリで私たちの中で機能しているということです。

 

そうだとすると、鳥肌の仕組みを調べることは、感動のような私たちにとって大切な心の働きを解明するための、言わば「覗き窓」になってくれるのかもしれません。そうした期待を持って研究を続けていています。

 

~~~引用ここまで~~~

 

 

以下は個人的な思いで証拠やエビデンスはないが、確信は強い。

 

鳥肌の正体やその役目を考えることは、『心』って何?、に通じる話だと思っている。

 

単純に言い切ると人間が備えてるアンテナやセンサーがその人自身に最適化された結果の出力の一つだ。

 

主な役割としては、寒さの感知に代表される忍び寄る危険や危機の察知であり、良い意味でも悪い意味でも隠し切れない感動が押し寄せてるということの察知のため。

 

悪い意味での感動とは憎悪や嫌悪で、鳥肌が立つほどでなければ自分の憎悪や嫌悪をオブラートに包んで大人な振る舞いができる余地があるが、鳥肌が立つほどだと無理にオブラートに包んでも自分自身がかえって闇堕ちするだけになる、そんな境界を鳥肌は教えているのだ。

 

良い意味での感動を青臭く感じて、恥ずかしさで隠そうとする場合があるが、これも自分自身がどんな種類の人間かを示す重要なポイントになるので、『わたしはこんな人間だ』ということを周囲に知らしめるためには有効だ。

 

そんな振る舞いをした結果がマイナスに作用する場合はそんな人とは関わるなということを示すことになる。

 

しかし、現代人は鳥肌に正直に反応できない人の方が多いかもしれない。

 

おそらく自分の心に嘘をつくような場合にも鳥肌が立つ場合があるはず、それは嘘も方便の領域を超えるような場合だ。

 

寒さであれば長時間耐えることは無理だが、心のサインとしての鳥肌に耐えるとやがて別人に変化する。

 

その変化が好ましければ良いが、そうでなければ持っていた良さを失うことになるし、関わる人間関係も変化してるはず。

 

根性論では鳥肌なんかに負けるなとなるが、そんな根性論はもはや流行らない。

 

『鳥肌に負けるな』は負けたのだ。

 

鳥肌には従った方が賢明だ。

 

敵対関係やライバル関係や無関心のパラドックス

お金の使い方を考える場合大きく三種類に分かれる。

 

      1. お金をそのまま保つ貯金や預金
      2. 欲しいものや必要なものを買うという消費
      3. さらにお金を増やすための投資

 

巷でよく言われる勉強や経験という自分自身への投資は消費に該当する、これを投資だと思い込むのは大きな勘違いだ。

 

しかしながらもっと大事なことは、三つのどれを選ぼうと、それぞれの分野から何を選択しようがすべて商品の購入になるのだ。

 

銀行に貯金をするというのは、現代は昭和と違い金利も付かないのでお金を増やす行為だとは認識されないが、銀行側からすると普通預金ですら金融商品で、口座を設けそこに貯金するというのは金融商品の購入をしてることになる、実際の意識は金庫のようなつもりでも、リスクの有無で言うとリスクはとても小さいので商品を購入してるという意識が乏しいのが盲点になる。

 

最大の盲点は貯金に回った金額分だけ可処分所得が減ることになるので他への出費ができなくなる。

 

現代では消費は愚かな行為で増やすための投資こそが賢い選択だと説く意見が大きいが、投資のほとんどは貯金や預金と違って元金が保証されない金融商品の購入になる。

 

2.の『消費』の一部にも3.の『投資』に相当することが含まれる、例えばより高値で売るための仕入れに該当するような消費だったり、限定品や少数生産で販売後に価値にプレミアムが付くことが期待できるようなものへの消費などは投資によく似てるが、結果を手に入れるためには余計な手間が一つや二つは必ず発生する。

 

 

三つの使い方のどれを選択しようが実際にやってることの違いは思ってるほど大きくはない。

 

しかし意識は大きく違うので、互いの選択の違いを理解できないことが多く、そんな時は互いに相手がバカに見える。

 

どれを選ぼうと良い結果になる場合もあれば悪い結果になる場合もある。

 

『そうなると分かっていたから(分かっていれば)やった』あるいは『そうなると分かっていたから(分かっていれば)やらなかった』のように。

 

 

健康や人間関係に対する選択肢と取る行動にも共通する。

 

やってることも結果も大きく違うと、まるで敵のように感じることもあるかもしれないが、考えようによっては似た者同士とも言えるのだ。

 

 

世の中には正反対を感じているのに同じが隠れていたり、同じだと思っていたらまったく違っているということはよくありそうだ。

 

このように考えていると、無関心ですら興味の現れのように思えてくる。

 

人間の営みに逆説やパラドックスが多いのは、結局は似た者同士だからなのかもしれない。

 

情報化時代の盲点

真に忙しい人は退屈する暇などない。

 

退屈できるくらいならその時間は睡眠に当てたいはず。

 

今で言うところのブラックな環境にいる人は退屈とは無縁なはず、時間的にも心理的にも。

 

 

逆に考えると、退屈を感じる人はそれがどんなレベルであろうと真には忙しいわけではない。

 

真に忙しいわけではない人が余念がないのは情報収集。

 

ビジネスに限らずオタク活動やサブカル活動を含めてあらゆる分野に共通する。

 

情報収集の中身や内容はピンからキリで様々あるが、情報収集に余念がない人は暇だからこそできるのだ。

 

本当の暇人か社会的に地位が高い人の特権でもある。

 

時間を持て余してる人ほどその退屈を紛らすのが情報収集に熱心だし、情報の吟味にも熱心だ。

 

バカにしてるわけではなく、昔から経営トップが忙しくしてる会社には戦略がないと言われているように、考える時間、いや考えようとする時間は結構大切なのだ、名案が浮かばないとしても。

 

考えるためには考えようとする習慣が必要。

 

考えるためのヒントや材料を求めての情報収集は決して退屈だからやってるとは言えないが、情報収集と称した行為の多くは退屈だからやってる暇つぶしに過ぎない。

 

情報収集が悪なのではなく、退屈だからやってる情報収集が悪なのだ。

 

退屈だからと情報を集めても、その情報を活かすことにはほぼ繋がらず、もっと良い情報はないかと無限ループに陥るだけ、しかし取り組みは真剣なので、退屈だからやってるとは気付けない。

 

そして、変な情報に引っ掛かる。

 

情報化時代の盲点だ。

探し物は擬似体験

映画やドラマでは、目の前のスクリーンやディスプレイで展開されるストーリーを鑑賞する、展開される映像は与えられたものになる。

 

小説を読むことは脳内のスクリーンにストーリーの展開を映し出すが、その映像は自分の脳が作り上げるもの。

 

映画やドラマの脚本やシナリオが小説と全く同じだとしても映像が目の前にあるのと脳内にあるのでは描かれてる世界は同じにはならない。

 

その中間にマンガがある、アニメではない、アニメは映画やドラマの側に位置する。

 

マンガの場合、映像イメージは与えられるが脳内ではその補完も行われているはず。

 

 

どれであろうとストーリーの展開は擬似体験として機能し感情移入の対象になる。

 

描かれてるストーリーは一つでも、その解釈としての擬似体験から何を得るか、何を感じるかは人それぞれだ、気分によってすら変わるだろう。

 

感想を語るような場合は、主要なイメージは記憶という脳内イメージになるので、その時点でも人の数だけ思いは分散するだろう。

 

細部に目を凝らすと決して同じではなくても、大筋で肯定的あるいは否定的という思いが一致するなら価値観は同じに近いと言えるだろう。

 

 

現天皇が皇太子になる数年前つまりまだ昭和の頃、『どんな結婚相手が良いか?』と聞かれ『価値観が同じ人が望ましい』と答えその一例として『自分が美しいと思うものに対して同じように美しいと思える人であってほしい』というようなことを答えていた。

 

 

 

価値観は、擬似体験であってもいや擬似体験だからこそストレートに現れるかもしれない。

 

情報化がますます加速する現代では真実かフェイクかすら判断が難しい時代になった。

 

つまり無自覚な擬似体験で溢れその影響を受けているのだ。

 

自分のことだとグッと反応することを堪える人も他人のことだと抑制が効かなくなるというの不思議なことだが、そういうことは多い。

 

ますます過敏になる人もいれば鈍感の極みに達してる人まで様々だ。

 

人それぞれの価値観や人生観や処世術が反映された結果の振る舞いのはず。

 

 

擬似体験は作られたものばかりではない、日常で起こる様々な事件や事故も擬似体験だ。

 

今の自分は擬似体験でできている、そんな人は思ってるより遥かに多いだろう。

 

そして多くの人はそんなことに気付いてないはず。

 

 

人は自分を魅了する擬似体験を探す生き物なのだ。

体験の質

相撲を見ていると、今も昔も土俵は大して変わらないなと感じる、実際に変わってないのか変わってるけど気付かないだけかは不明だが、それに対して野球は球場自体が大きく変わったと感じる、プレーするフィールド自体は大きく変化したわけではないがプロ野球の場合ドーム球場が増えたのでより変化を感じる。

 

パ・リーグの場合6チーム中4つだ。

 

長年プロ野球を見てた人ならば分かるはず、どれだけドーム球場が観客動員に貢献してきたかを。

 

野球を見ようというだけでなくドームに行ってみようという観客動員も少なくなかったからだ。

 

何が言いたいかというと、建物が変わると体験の質が変わるということ。

 

スポーツの場合、フィールドで展開される選手のプレーは大して変化するわけではないが、観客の観戦体験は大きく変化するし、時には観戦を目的にしてた場合でも別の体験の方が心に残る場合すらあるだろう。

 

同じことは百貨店やモールや量販店にも当てはまるはず、根本的な商品には大きな差がなくても建物に魅力があるかないかで行きたくもなれば行きたくもなくなる。

 

おそらく気持ち的には強く思うというよりもなんとなくのレベルで。

 

なんとなく来る人が減ってくると、建物をリニューアルしようという意欲は薄れるだろう、建物のせいだと思えないとコスパが悪すぎるから。

 

実は建物がお客を呼び寄せたりお客を遠ざけるという考えは、売ってる商品やサービスで勝負してるつもりの人には盲点になる。

 

単純な老朽化が原因の場合もあれば周りやライバルの建物に比べて見劣りするような場合もある。

 

 

同じ理屈は人間にも当てはまるだろうか?

 

当てはまると感じる人はきっと対策に余念がないはず。

 

美容や筋トレやファッション、なるほどなと感じる。

 

箱物と違って人の場合、自分を新しくすることはできないので古く見えないということが大事になる。

 

古く見えないという意識が外見に向かうか、あるいは内面に向かうか、それとも発揮するパフォーマンスに向かうか、どれも気になり始めたらキリがない、何しろ老朽化は進む一方なのだから。

 

 

見た目だけでも体験の質は大きく変わる。

 

逆に考えると、体験の質を良い意味で変化させることは意外と簡単にできる盲点が潜んでいる可能性が高いと言えそう。

 

 

大事なことは気付くということだ。

 

気付けない人はいつも残念な結果に終わる。