違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

ありそうで無いのが目的

人間の行動には『目的』が付きもの。

 

目的があるから動機が生まれる。

 

人間の行動の中で脊髄反射などと呼ばれる反射的な行動の場合で、動機があるとは思えないような場合でも、瞬間的に嫌なことから逃れるためという目的の存在は感じられる。

 

そういう意味では、目的には動機が伴うとは必ずしも言えなそうな場合があるがそれは例外なのだ。

 

目的の設定には、時間と思考が必要で、簡単に決めたものは目的として機能しない気がする。

 

 

では、現象の場合はどうか?

 

自然現象のような場合、例えば天気。

 

人間が天気によって(応じて)目的を設定する場合はあるが、天気そのものに目的があるとは思えない。

 

地震なども目的があるとは現代人だったら思わないだろうが、科学が発達する前の頃だと、神のような存在をイメージしながら、その存在の目的を探ることで現象を理解しようとしただろう。

 

巨大地震や津波の被害を目の当たりにすると、誰がこんなことをするんだと人間が思うのは自然だし、その答えは大抵の場合で神か悪魔だ。

 

しかし、現象には目的はない、神様がいたとしても神様が起こしてるわけではない、たぶん。

 

目的とは、因果関係などで説明ができるものではなく、意思や自覚を伴うもの、そういう意味では人間及び人間に近い一部の動物しか持ち得ないのかもしれない。

 

 

人間の行動に意味や価値を与えるのは世間的には行動の結果だが、自分自身に意味や価値を与えるのはたぶん目的だ、いや良い(納得できる)結果を伴う目的だ。

 

目的とは関係なく結果だけが得られたような場合、世間の賞賛は得られても、自分自身の心は意外と虚しいかもしれない。

 

 

いつの頃からか承認欲求を満たすことが目的化するようになったが、目的が目的として成立するために必須なのは、自分自身の内側から自発的に生じるということ。

 

承認欲求の目的化は、自分自身の外側にしか存在しないものを内側に置こうとする誤解や勘違いによって起きてる場合がほとんど。

 

 

テクノロジーが発達し、表面的な価値観が多様化すればするほど、目的の存在は薄くなってるように感じられる。

 

 

だからだろうか、目的と目標をほぼ同じように使っている。

 

本来的には目的があればこその目標だが、現代では先に目標を掲げその進捗に合わせて目的を設定するというように。

 

 

目的が薄くなればなるほど目標が濃くなる。

 

目標は一定だが、目的はコロコロ変わる。

 

いや、それ以前に目的も目標もあるようで無いというのが最も多いのかもしれない。

 

 

 

肝心なものほど、ありそうで無いのが現代人なのだ。

 

 

人気はあっても愛されない人

今日の昼12時26分に首相が次のツイートを発信、ちなみに同じ内容に関しての記者会見などはない。

 

 

 

 

最近の高市首相は官邸に篭りっきりで、しかも隠し部屋を作っているらしく、頼りになる側近の2〜3名以外とは誰とも話さないと噂されている。

 

 

 

 

ところで冒頭で紹介した自衛隊の戦車での暴発事故は現在まだ詳細は不明で、3人乗りの戦車で4名の被害者が出てることも謎を呼んでいる。

 

 

ところで今日は何の日かというと、

 

高市政権が武器輸出を全面的に解禁 なぜ今?どう変わる?5つの要点

 高市早苗内閣は21日、防衛装備移転三原則の改定を閣議決定しました。さらに、三原則の運用指針を見直し、武器輸出の目的を限定してきた「5類型」を撤廃しました。戦後、日本が「平和国家」の理念のもと制限してきた殺傷能力のある武器輸出が、全面的に解禁されます。

 

 

自衛隊の戦車の暴発が起きたのは今朝の8時39分、つまり武器輸出の閣議決定の前、そりゃあ暴発事故に関してはXでしか語れないよなと。

 

利害で人の関心を引き寄せることには長けていても、近寄る人の誰からも愛されてはいないということが感じられる、人だけではなく運命とか空気からも愛されてはいなさそう、だけど世渡りはなかなか。

 

日本ってこういう人結構いるよね、だからこそ寄らば大樹の陰が成り立つんだろうな。

 

 

コスパの成れの果て

2020年代って、実はかなり価値観の変化を余儀なくされていたのだ、2026年になって一層そう思う。

 

まずはコロナ。

 

その後ロシアウクライナ。

 

この辺から需要と供給のアンバランスや価格の変動などが当たり前になった。

 

次に生成AIの普及。

 

そして、最近のアメリカイスラエルの横暴に起因する世界的な混乱など。

 

以上のような流れを受けてだろうが次のような記事が目についた。

 

 

 

友達をコスパで損切り?「フレフレ現象」とは…止まらない物価高で「自分にお金を使いたい」 識者が分析「必需性の低い交際費は節約の対象」

 「フレンドフレーション」とは、「フレンド」と「インフレーション」を組み合わせた海外発の造語で、物価高や生活費の高騰によりコスパの悪い友人関係を精査・損切りすることのような意味で使われている。

 

 

 

人間関係にコスパという尺度を適用すると表現されるとインパクトを感じるが、合わない人とは付き合いたくない、合う人とだけ付き合いたいと考えると何の不思議もない。

 

昔ながらの表現で、『金の切れ目が縁の切れ目』というのがあるが、それと似てなくもない。

 

オタクというワードが登場したのはいつ頃だっただろうか、初期のオタクとは、申し訳ないが気持ち悪い変わり者を意味するものだった。

 

しかし、マイペースで自分の趣味や価値観を貫くために自称オタクと用いることで嫌な人間関係から容易に離れられることが理解されるとオタクは市民権を得ていった。

 

そして、最近では推しというワードがオタクに取って代わったように感じる、オタクに付きまとう陰湿さは、推しに代わったことで健康的な感じすら与えるようになった。

 

上記の記事では『おひとりさま』と重なるような表現もあるので、合わない人間関係にうんざりするくらいなら一人の方がマシだし、むしろ一人の方が良いと考える人が増えてるのだろう。

 

そうすると、取り残されるのは一人は嫌だと感じる人だ。

 

一人の時間を楽しめないというのは、現代では結構ツラいことなのかもしれない。

 

 

みんな謎解きが好き

なるほどなと思いながらも、話題を根こそぎにされてることに対する嫉妬もあるんだろうなと感じるツイートがあった。

 

嫉妬を感じているのはツイ主ではなく中野信子さんの方だと思っている、念のため。

 

 

 

 

命の問題だとするなら戦争の現場の方が遥かに酷いのだし、そんな戦争の影響は世界各地の人に及ぶ、比較するとずいぶん小さくかつローカルな話題なのだから。

 

そんなこと百も承知の上で多くの人が夢中になってるのが京都の事件だろう。

 

被害者が子供だから感情移入しやすい上に、あまりにも謎が多い。

 

最大の山場は過ぎたようにも感じるが、まだまだ次から次に謎が出てくる。

 

 

『どうして戦争なんかするのだろう?』、多くの人が思っているだろうし、生成AIに質問してる人も多いだろう、どういう答えが出てきても多くの人は分かるようで分からないはず。

 

答えなんか求めてもきっと意味が無い、殺された命は戻らないし破壊された街も戻らないし、ズバリの答えがあったとしてもただ虚しいだけだ。

 

一方で京都の事件は、地元の人にとってはとても重苦しい事件のはずだが、それ以外の人にとっては残念ながらエンタメにしかなっていないだろう。

 

悲しいドラマや映画を見て涙を流してスッキリしたいと思う人もいれば、真の動機は何なんだと思う人もいれば、登場人物はすべて登場してるのか、それともこれから登場する人物がいるのかもしれない、あるいはこの事件を完全犯罪にするために何が欠けていたかなんて思う人もいるはず。

 

 

謎が解けてもきっとスッキリはしないはず、後味は不毛なもののはず。

 

そもそもこういう事件が起きないために何が必要だったかという謎は解かれないままだろう。

 

迷える子羊

近年の話として、人を不幸にする要素の一つとして自己肯定感の低さを指摘することが増えた。

 

改めて考えると、自己肯定感が低いというのは本能に反することのようにも感じる。

 

世界を敵に回しても自己を貫く方が本能の発動として自然に思えるからだ。

 

しかし、あえて自己肯定感などと取り上げられるのは、それだけ社会が複雑化してるからだと言えるし、そんな社会に適応すると、人はナイーブになるということでもありそうだ。

 

 

そういう事情も背景にあってのことかもしれない。

 

 

AI、人間をダメにする「全肯定bot」であることが明らかに

対人関係のトラブルや社会的な悩みに関する相談をAIに入力した結果、AIは人間の回答者と比較して平均49%高い頻度でユーザーの主張を肯定した。

 

 

生成AIとのコミュニケーションを重ねると、この全肯定bot的な雰囲気を感じることと共に、聞いてもいないのに全方位網羅的な雰囲気を表す場合もある。

 

つまり、全肯定なんでもありとほぼ同じに感じるような表現を感じることがある。

 

 

また、瞬時に答えが得られることは効率的だと思われがちだが、これが従来とは違った意味での自己肯定感の減少に影響するようにも感じていた。

 

これは質問の仕方やテーマの設定の仕方とも大いに関係してるはずなので、得た答えに不満がつきまとう場合はAIとの接し方に課題があるのだろう。

 

 

【AI依存症】AIは人間の「忍耐力」を奪うことが判明

AIの即時的な回答が自力での問題解決を相対的に苦痛にさせ、試行錯誤を通じた自己成長の機会を奪うメカニズムが確認された。

 

 

まあ、だとしても使い方次第では大いに役立つことには変わりないが、諸刃の剣でもあるのだ。

 

 

AIは人間を「ダメにする」装置であることが判明

 

 

AIが生成AIという形で普及した結果、AIが奪った分野は自己啓発的な分野だと思うことが増えた。

 

最初は良い話聞いたなと思えても、だんだんと一定のテンプレートが適用されてるだけのようにしか感じなくなる。

 

だから、本当はもっと良い答えがあるんじゃないのかと。

 

 

なんだか迷える子羊という言葉が思い浮かぶ。

 

そもそもどんな話なんだっけと調べてみたら、全然思ってたのと違う話だった、ついでに言うと子羊ですらなかった。

 

 

「もし一〇〇匹の羊を飼っていたとして、そのうちの一匹がいなくなったら、だれだって、残りの九九匹を放っておいてでも、いなくなった羊を探しに行くでしょう。そして、見つかったら大喜びすることでしょう。

https://kotobank.jp/word/迷える羊-635911

 

 

本来的な意味は、キリストは最後の一人をも見捨てない、ということらしいが、現代的な解釈としては、天秤にかけると釣り合わないものに振り回されるのが人間だ、とも取れる。

 

 

この話に照らし合わせると、AIは一匹の羊と解釈することもできるし、AIの出す答えが一匹の羊とも解釈できる。

 

 

さて、どっちを選ぶ?、それとも新たな別の解釈を求める?

 

 

 

老いや死を意識すると

1951年、マッカーサーが退任の際の演説で、兵士の間で流行していた風刺歌から引用したのが有名な『老兵は死なず、ただ消え去るのみ』で71歳の時、その13年後84歳で亡くなっている。

 

21世紀に入ってから有名人や著名人が『老い』や『死』をテーマにした本を出すことが増えた、高齢化や長寿命化が進んだことの必然でもあるだろう。

 

ある程度人生の年月を重ねた人だと誰もが遭遇してるのが、老いを迎えるより遥か前に亡くなった人の存在だ、身内や直接の知り合い以外に芸能人やスポーツ選手などいわゆる有名人なども含めて、死の理由は様々だ。

 

最近ある本を読んだ、若い頃には全く関心を寄せたことがない人が著者、本を読まなければ今でも関心を持たなかっただろうが、それなりの年月を経た生き方には魅力が多かった、その魅力の大元には老いや死に対する意識が無関係ではなかった。

 

 

生きてることに価値があるならば、老いを迎えられることは幸せなはずだが、世間では必ずしもそうは思われていない。

 

老いや死を考える際にマッカーサーの「老兵は死なず…」を思い出すが、現実的には消え去るのは簡単ではない、せいぜい接点がなくなることで知ってる人の記憶からも消え去るということはあっても。

 

 

老いや死を考えることで価値観や生き方はどのように変わるだろうか。

 

最後の晩餐は、イエス・キリストが処刑される前夜に十二人の弟子と摂った食事を描いたレオナルド・ダビンチの絵。

 

それを踏まえて、「最後に何が食べたい?」というのは日常会話になっている。

 

そして、おそらくだが、その答えには年齢の違いや老いや死に対する意識の違いが如実に現れるはず。

 

良いとか悪いとか、あるいは正しいとか間違ってるなんて評価は全く意味を持たないはず。

 

自分にとって何が大事か、あるいは何に対して一番思いや感情が向かうか、ただそれだけのように感じられる。

 

 

老いや死を意識することで、多数の執着や欲望が膨れ上がる人もいれば、自分の中で厳選されたごく少数のことのみが浮かび上がる人に分かれるように感じられる。

 

欲望が膨れ上がるというのは元気な証拠でもあるが確実に老いが進行してることに対する自覚は薄そうだ、それに対して少数に厳選する場合には元気なうちにしておこうという対策意識が感じられる。

 

もちろん、どちらかが正しいというモノではない。

 

受け容れれば慣れる?

この4月から自転車ルールが厳しくなった。

 

取り締まりそのものはある程度交通量が多いところで見せしめ的に行われるのだろうと思いながらも自転車乗りとしては気になっている。

 

一番気になっているのは、歩道走行と曲がる際のハンドサイン。

 

4月に入ってからは、スーパーでの買い物でママチャリにしか乗ってないが、明らかにこれまで歩道を走ってたであろうお年寄りのママチャリでも車道を走ってる人が増えた。

 

もう一つ気づいた変化がある。

 

歩道がない道をママチャリで走っていて、もちろん左寄りを走っていて、後ろから結構な勢いで自動車が迫っているのを感じてさらに左に寄るが抜く気配がない、少し道が広くなったところで抜いていったが、どうやら車の側でも自転車を抜く際には1mの間隔を取らなければいけないという車に課された新ルールを意識してるらしいことを感じることが複数回あった。

 

自転車も車も新ルールに対して戸惑いながらも意識は持ってることが感じられる。

 

さて、もう一つの気になる点であるハンドサインだが、これはまだ見ていない。

 

以前から車道を走るロードレーサーで服装もちゃんとしてる人はハンドサインを使っているのを見るのはよくあったが、それ以外では滅多に見るモノではない。

 

ゆっくり走っているのにハンドサインを使うことに対して自意識過剰な気恥ずかしさを感じるが、ウインカーを点けない車に感じる下品さと同じになるならやるしかない。

 

敵は心理的な抵抗感だ。

 

しかし、これがひょんなことから解けた。

 

NHKの『こころ旅(田中美佐子さん)』を見ていて、田中美佐子さんが曲がる際に手を伸ばしてハンドサインを出してる姿を見ていて堂々とやれば問題はないと気付かされた、むしろやってる姿はかっこいい。

 

 

やらされると思うと不快だが、まあ結局は慣れの問題なのだろう。

 

だったら早く受け容れた方が良い。