違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

すべての原因は自分かも

次のツイートを見てずいぶん昔の話を思い出した。

 

 

 

 

キーワードとしてはすべての原因は自分だった、とでもなるのだろうか。

 

ネットなど無い頃、知人がご自慢の愛車(改造多数)を専門誌の個人売買欄に売却希望を出しているのを偶然見つけた、共通の知人にそのことを伝えると、「ああ、あの人時々載せるんだよね、売るつもりなんかないけど自分の愛車の市場価値を知りたくて、価格応談にしていくらの値がつくかを楽しんでるんだよ」。

 

しかしその知人曰く、「雑誌に載せるときに自分の住所や連絡先も載ることで盗むつもりの人間に情報が漏れるんだよね、だから結構ヤバいことやってることになるんだよね」と言っていて、当時としてはかなり新鮮な話に感じた。

 

結果的に、その愛車が盗まれたり何らかの被害を受けたりはしなかったのだが、自分の軽率な行為や何気ない行為、それらの行為は別に悪いことではないとしても、その行為が原因になって相手の目に留まることがトラブルの元になるということは少なくないのが現代。

 

煽り運転の被害を受ける場合の原因などにも当てはまるはず、無意識な無自覚な何気ないついついやってる行動(その行動自体は一般的には何の問題も無いとしても)、結果的にその行動のせいで相手に目を付けられるということがあるのだ。

 

報道などで、被害者が一見善意無過失で非など無いように見える場合でも、相手に目を付けられるような何かをやってるものなのだ、逆恨み的であったり、妬みや嫉妬や瞬間的な怒りだったりを感じさせているのだ。

 

 

最近のトク流型の犯罪では、犯罪者と被害者の間には何の関係性もなくても遠慮なくバールで殴られたりなど、明らかに恨まれてるかのような仕打ちを受けることからも、そう感じる。

 

 

 

逆にいうと、どうでも良い人間やサイトやアプリとは如何なるコミュニケーションも発生させないことを徹底することは、自分を守るためには必要なのだ。

 

どんな人物がどうでも良い人間かは、自分の人生経験に照らし合わせると一目瞭然なはず。

 

 

 

情報のプラットフォームはディスプレイ

次の記事に触発されて思った話。

 

スマホ保有世帯、初のテレビ超え 総務省調査

スマートフォンを保有する世帯の割合は91.8%(前年は90.5%)に増えた一方、テレビは90.1%(同91.5%)に減り、テレビが統計に加わった19年以来初めてスマホがテレビを上回った。

 

 

ITが急速に世の中の中心になった21世紀では、勝ち組企業はプラットフォーム事業者だと言われるようになった、GAFAMに代表される企業だ。

 

その前の時代で脚光を浴びていた自動車や家電のメーカーですら、今ではプラットフォームの上で踊るだけにしか見えない。

 

現代のプラットフォームとは一言で言うと何になるか、それはディスプレイだ。

 

勘違いをしてはいけないのは、ディスプレイを造っているメーカーは踊ってる側に過ぎない。

 

現代の勝ち組事業者は何をやってるかというと、最初はディスプレイに関する同種企業間の覇権争いだった。

 

やがて覇権争いに勝ち抜けた企業がGAFAMと呼ばれる固定メンバーになった。

 

そして次の段階に移行した、異業種間のディスプレイ上の陣取り合戦で、GAFAMに加えてNetflixのようなコンテンツ事業者が参入してきた。

 

冒頭で紹介した記事は、従来のコンテンツ事業者の代表だったテレビ事業者は誰もがすでに知ってるように踊る側だと改めて教えてくれているのだ。

 

現代では情報のプラットフォームがディスプレイなのだ。

 

ディスプレイ上の覇権争いが一段落した現在では、同種の覇権争いに勝ち抜けた事業者が新規参入大手も含めて異業種間のディスプレイ上の陣取り合戦を始めている。

 

大半の争いは大手事業者間で展開されてるが、一般大衆という名もなき個人もこの同じ土俵で勝負してるのだ、勝負なんてしてるつもりはなくても。

 

 

ChatGPTに質問した、情報のプラットフォームとしてのディスプレイの歴史に関して。

 

回答はさすがだと思った。

 

紙がディスプレイとして機能したというのはなんとなく予想の範囲だったが、それ以前には石がディスプレイだったと教えてくれた。

 

石の部分は、すでに存在している自然界の何かと置き換え可能だが、その場合はプラットフォームとしてのディスプレイよりも、ディスプレイに情報を刻む道具や知恵や工夫の方が主役だったのかもしれない。

 

そう言えば、ディスプレイとは言えないかもしれないが、情報伝達として狼煙をあげるなんていうのもあったなと思い出す。

 

 

現代のディスプレイはディスプレイ単体で機能してるわけではない、通信とCPUの融合によってだ。

 

情報は、ディスプレイを介することで瞬時の加工を施して再発信が可能になった。

 

当初は、加工の主役はあくまでも人間だったが、今ではAIがその領域に侵入している。

 

ディスプレイが情報のプラットフォームということを別の表現を用いると、情報は視覚から入ってくる、となる。

 

しかし、情報が危機管理に関するものでしかも緊急性が高ければ、視覚にアピールするよりも音や振動の方が有効だ。

 

 

ディスプレはどこに向かうのだろうか、それとも全く違う何かが登場してくるのだろうか?

 

初めて聞く〇〇病

進学や就職で新しい環境へのストレスがGWをきっかけに隠せなくなることを昔から四月病とか五月病とか呼んでいたが、ついに六月病まで登場した。

 

正社員の5人に1人が「六月病」経験 6月前後にモチベ低下や疲労感

六月病経験者を年代別にみると、20代(27.6%)が最多で、30代(23.8%)が続くなど、比較的若い層で高い傾向がみられた。

 

 

今のところ六月病を訴えているのは若い人が多数派のようだが、従来の四月病や五月病がGWの休みをきっかけに現れるのに対して、六月病は」六月に祝日がないことをきっかけにして、ありとあらゆる自分自身に関する不満(自分に対する評価への不納得感をベースとしたもの)が噴出するというものらしい。

 

この記事を読んだ人は誰でも思うことが、十二ヶ月全てに〇〇病と命名されるのもそう遠くないのだろうということ。

 

昭和の頃のサラリーマン社会では、定年を意識し始めた年配社員が、「自分のサラリーマン人生も先が見えた」と嘆くようなシーンがドラマや映画ではよく描かれていたが、現代では進学や就職でまだスタートしたばかりなのに「自分の人生先が見えた」と感じる人がとても多いように感じられる。

 

人と一緒の時にそんな思いを隠さない人はよほど重症の人だけかもしれないが、こういう思いに関しては自分に嘘は吐けないので、独りで悶々とする人は意外と多いのかもしれない。

 

 

勝手に先が見えてしまうのは、情報化社会だからでもあるし、若さという価値はルッキズム的なものであったり美容的なものだけであり、年齢としての若さではないのが現代で、若さという評価はかなり差別的に展開してるはず。

 

そういう意味では、もはや若いと評価されたいなんて思わない人の方がはるかに気楽に生きられるはず。

 

一方、健康という観点では、すべての年齢層が若さを求めてるはず。

 

健康的な若さは、不平不満を遠ざけると思っている。

 

暑い寒いが不満の対象になる生き方は、不健康ゆえであり若さを失ってるということでもあるが、多くの人はその不満の解消をエネルギーやコストに頼ろうとすることを賢明だと思いがち。

 

これも情報化の弊害だろう。

 

 

これからますます増えるのが初めて聞く〇〇病で、耳慣れない〇〇病の話を聞いて、「ああ、自分にも当てはまる」と思う人はかなりやばいだろう。

 

 

諺や四字熟語に感じる繰り返される人間の営み

巨人の阿部慎之助監督が辞任した。

 

昨日の夜発生した家庭内トラブルが大騒動に発展したためだ、事の内容にはこれ以上は触れない。

 

私の脳内を様々な諺や四字熟語が駆け巡っている。

 

 

後悔先に立たず

 

覆水盆に返らず

 

雨降って地固まる

 

禍福は糾える縄の如し

 

人間万事塞翁が馬

 

禍を転じて福となす

 

捨てる神あれば拾う神あり

 

起死回生

 

不撓不屈

 

棺を蓋いて事定まる

 

 

 

報道等で伝わることが全てであるならば、些細な家庭内トラブルだったのだろう。

 

もし、それだけではない何かがあったとしても、やっぱりおそらく家庭内トラブルに思える。

 

反応がナイーブ過ぎた、あるいはお酒さえ飲んでなければ、何事も起きなかったのではとすら感じる。

 

運が良いとか悪いとかは、確かにあると思う。

 

 

人間はそういうことを繰り返しているのだ。

 

 

つまり、誰の身に起きても不思議はない。

 

 

これもエントロピー増大?

次のツイートを見て思い出したことがある。

 

 

 

思い出したとはいえ、時期も出典も覚えてないが多分90年代だと思う。

 

フランスと日本では精神疾患を抱える人の率が倍違うという話で、フランスの方が倍多い、という話。

 

それに対して、日本が半分の理由は何だろうか?、というテーマの話だったと記憶している。

 

結論としては、フランスはきちんと統計的データを取り、それをきちんと公表してるのに対し、日本はデータなど取得してないか、捏造してるか、だったと記憶している。

 

 

上記のCNNの記事を見る限り、現代に生きる者に共通してるのが精神疾患であると感じるし、フランスと日本の対比も単に日本のデータがいい加減だったと言うことなのだろう。

 

 

さて、日本では処方箋の発行は医者のみで薬剤師はそれに従うのみという点では医学の下に薬学が位置してると言えるが、患者の多くは医者に適切な薬を処方することで治してほしいと望むという点では薬学が上に位置してるとも言える。

 

この関係性が、鶏と卵の関係に似てる。

 

つまり、そもそもどちらが先なのかだ。

 

 

日本とフランスで精神疾患の発生率が倍違ったのは、そもそも当時の日本では精神病は認識していても心の病としての精神疾患は認識できていなかった可能性が高い。

 

なぜ認識できてなかったかというと、症状を示す適切な病名が与えられてなかったからだ、そう考えると納得できる。

 

それに対して、純粋な民間領域では、製薬メーカーが独自に症状に対して病名を命名し、それもコミカルでカジュアルな名前を、その病名や症状に効くと、処方箋の必要がない薬を売り出すことが多い。

 

不思議なことに、そんな病名を付けた薬が出るまでは、そもそもそんな症状すら認知されてなかったのに、売り出されてCMが流れると、「あっ、自分のことだ」と思い込む人の何と多いことか、というような現象が起きることはもはや珍しくない。

 

 

SNSの普及と、ちょっとした現象や症状にコミカルでカジュアルな名前をつけることは、相性が良いからどんどん進むだろう。

 

 

これからますます病名や症状は増え、それに対応する薬やサプリもますます増えることだろう。

 

受け身で生きてると、訳のわからないことばかりが増えていくのだろう。

 

ある意味無秩序の加速だ。

 

 

これも一種のエントロピー増大に思えてくる。

 

 

起きて半畳寝て一畳

起きて半畳寝て一畳。

 

物欲をはじめとした人間の欲を戒める諺。

 

より遠くに、より速く、そんな気持ちを戒める言葉でもある。

 

 

 

とても真似は出来ないが片岡鶴太郎さんの今のヨガや絵を描くことを中心とした生き方を見てると、起きて半畳寝て一畳が沁みる。

 

狭いところで満足しろという話ではなく、手足を思い切り伸ばしても必要とする空間の広さだってこれまたたかが知れている。

 

 

そんなたかが知れている空間の範囲で喜びや楽しみを味わえる趣味、それも身体を活用してのものを持てるとたぶん気分は良いはず。

 

実はコロナ禍ではそのような価値観は注目されていた、その頃のわたしはそんな価値観にはまったく目覚めていなかったが。

 

ヨガ的な動きは、筋トレでいうところの自重トレに当たる、そして身体の柔軟さはより必要になる、さらに動きながらも瞑想効果も期待できるはず。

 

身体一つでできる事とはいえ、始めようとすると身体の柔軟さの不足であっという間にやる気が萎えてしまう人がほとんどだろう、つまり始めても喜びや楽しさを感じるようになれるには相当な時間が掛かるはず。

 

 

しかし、その結果起きて半畳寝て一畳を満喫できることが可能になれば、他人のことなど気にすることなく大きな充実が得られるだろう。

 

考えようによっては、宇宙より広さを感じさせてくれるのが起きて半畳寝て一畳の空間なのだ。

 

雇うならバカがいい

4人の16歳少年が実行犯として捕まった強盗殺人事件及びその指示役として捕まった20代夫婦に関する記事はたくさん出てるが次の記事が一番おもしろくてかつ頷ける内容だった

 

 

「雇うならバカがいい」「ビッグになりたい少年は格好のカモ」闇バイトのリクルーターが明かす“選考条件”

闇バイトの応募者は物欲と金銭欲が非常に強いのです。そして私が気になったのは、なぜ物欲が強く、金銭に執着するのか、取材を重ねても全く分からなかった点です。闇バイトの応募者は、まずカネが欲しいという欲望があり、その次はいきなり『ビッグになりたい』という夢に飛んでしまうのです。おまけに『ビッグ』の具体的なイメージを本人が描けていません。

 

 

この記事に書かれてることはこの犯罪を犯した当事者に限った話ではなく、今の日本社会で生きてる人の多くに当てはまることではないかと感じる

 

自分がいかに優秀かをアピールすることに余念がなく、一生懸命自分がいかに使えそうかをあの手この手でアピールするがそのアピールをしてる相手にとってはそんなアピールは実はどうでも良くて、いかに自分にとって都合が良存在にできるかだけが関心事のすべて

 

記事は闇バイトに関する話だが、裏社会に限らず表社会でも儲けのターゲットになる領域はもはやグレーゾーンだけと考える経営者は多いはずで、詐欺から学ぶ事業展開は少なくないはず。

 

そんなことが、社会的にはまともな存在として認知されてる企業や組織の至るところで起きていると考えると妙に納得が行くのが人事に絡む話には多い

 

バカがいいからと思って選んだ人物が、想像の上をいくバカであることが世間を賑わすような事件や事故もある、一種の逆転現象、最近だと銀行員が執務室内の映像を顧客情報が丸見えの状態でSNSに発信したり。

 

記事に書いてあるが、バカはお金にルーズ。

 

お金にルーズな人間は、思考もルーズ、その上周りが自分と同類なので自分のルーズさに疑問を持たない。

 

今の日本社会で求められてるのは、賢そうに見られたがる意識高いバカであり、仮に本当に賢ければそれはそれで別の使い道を考えるかもしれないが、それはあくまでも副産物なのだ。

 

雇うならバカがいい、この考え方は連鎖するはず。

 

雇うの意味を拡大解釈すると、上下関係や主従関係あるいは系列などが成り立ってる分野すべてに当てはまるから。

 

 

バカとは、疑問を持たずに従ったり、疑問は感じてるが従わざるを得ない、そんな環境に自ら属してしまう人たちのことだ。

 

バカは、バカと呼ばれるより遥かに以前からバカの道を歩んでいるはず。

 

 

クワバラクワバラ