表と裏のように、
接してはいるのに交わらないものというか形?がある。
経営者と従業員、意識が外部に向かう場合は、協調関係を取れるが、意識が労使問題や待遇を巡る問題に向かうと、対立関係になる。
先生と生徒の関係も似ているかな。
これらの関係は、その関係性というか立場が成立してる時には当然のこととして受け入れられるが、ここに時間軸が入ってくると相互に移動が生じることがある。
従業員が経営者になることもあるし、逆もある。
生徒がやがて先生になることもある、逆はあまり聞かないが、地位が逆転することは珍しくないだろう。
表と裏に似てることとして、男と女はどうだろうか?
男を、男という括りでひとまとめにすることに無理があることは日常生活のなかで感じる。
要は、ピンからキリまでいるということだ。女も同様だろう。
趣味嗜好性癖として男なのに女寄りの行動をする人がいる。
男寄りの行動をする女もいる。
この趣味嗜好性癖としての異性的振る舞いは別として、むしろ医学的といったほうが良いくらいのレベルで、実際の性と自覚する性が違う人がいる。
全く別の、表と裏の関係に感じる性差に混同が生じるのは何故だろう?
そのことをうまく表現してる文に出会ったことがある。
東野圭吾の「片思い」。
一見、表と裏で交わることがなさそうな男と女の性。
しかし、もしメビウスの帯ならば、ある一部分を取り上げると男と女は表と裏の関係だが、連続的に辿っていくと男は女になり、女は男になる。
この世に生を受けた人間は、このメビウスの帯の上にアトランダムに配置されてるだけではないのか?
配置された性と自覚される性が一致する大部分の人には全く理解できない違和感を感じ、悩んでる人が、一定の割合で存在してるのでは?
このメビウスの帯的な視点は、これからの時代には必要では。
人工知能だ発達し、社会インフラが高度にデータ化され、正しいこと一択
の世の中になったらうんざりだ。
正しいこと一択の時代に必要なのは、風情や情緒だ。
メビウスの帯的視点を持てば、
敵に味方を感じたり、
悪に正義を感じたり、
心の答えは、ひとつでないことが感じられるだろう。