今年2016年は、芸能界では文春がスクープを連発している。
今の文春は、ネタが良ければ取材費もケチったりしないらしいし、そもそもネタにタブーが無いらしい。
だから、いいネタが持ち込まれるという好循環が出来上がってるらしい。
ちょっと検索するだけでわかることである。
さて、この検索して分かった気になってることは、事実なのだろうか?
また、事実であることは重要だろうか?
そもそも事実(真実と言ってもいいかも)とはなんだろうか?
こういう時は、反対語をどう定義するかで意味がはっきりしてくる。
事実の反対語が嘘(架空、虚構)ならば、事実は厳しくチェックを受ける必要があるだろう。
しかし、事実の反対語にはもうひとつ大きな意味が隠れてると考える。
- 証明されてない仮説のようなもの
- 的確に表現する共通のことばがないもの
今の世の中にはバックグラウンドで機能するインフラの仕組みをプログラムが制御するものが多い。
仕事や遊びの世界にもパソコンやスマホなど高度にプログラミングされてるものが増えている。
プログラムは、曖昧さを許容しない(幅をもたせることは設定できるが)。
ビジネスの現場にはコンプライアンスという自己規制が導入されてきている。
今、普通に生きてると、かなり窮屈な生き方を強いられている。
結果、自分なりの考えを主張するのが難しくなる。
例え話を使って説明しようとすると、例え話が事実でなければ使えなかったりなど。
裏付けはあるのかと言われたり。
そして考えることをやめる人が多くなったのが今だ。
最近、ビジネス書や自己啓発書のなかに「考えよう」と謳ったものが増えてるのは、考えることをやめた人が増えたせいでもあるだろう。
考えるという習慣がない人に「考えろ」と言っても簡単にできない。
「考える」という行為は、二番目の行為だからだ。
多くの人が忘れてるのは、最初に「感じる」があること。
「考えない」習慣がつくと、「感じない」習慣が身につく。
「感じる」「感じない」はセンサーである五感の問題と言えるし、五感が刺激されると第6感と言われる独自のセンサーが働き出す。
重要なのは第6感だ。
第6感を養う方法はただ一つ。
自己肯定感を正しく持つことだけ。
自分はこう感じる、だからこう考える、この繰り返し。
冒頭で、「事実であることは重要だろうか?」と言ったのは、「感じる」方がよっぽど大切だという意味だ。
感じた後の「考える」部分は、AI(人工知能)の得意分野になる気がするが、「感じる」ことはAIには荷が重そう。
AIにやらせても只の”センサーお化け”にしかならないだろう。
データを解析するのは当分人間の方に分があるだろうが、問題はふさわしい人がその役割りを担えるかどうかだ。
「感じる」という事に価値があるとすると、文明や進化の度合いとは違う原始的なものの方に多くのヒントがあるような気がする。
「ことわざや言い伝え」って実は、一周回って凄い気付きがいっぱいあるかも。
今年の特徴は、文春だけでなく、「PCデポ」や「WELQ」も挙げられる。
文春が、不倫や薬物という有名人の業にまつわるスキャンダルを中心に活躍したのは、プロによる綿密かつ緻密な取材の結果だった。
「PCデポ」「WELQ」の場合は、ブロガーの告発に端を発してる。
最初の一歩は、「それおかしいんじゃない?」と感じたことだ。
裸の王様に、「あんた裸だよ!」って言った一人の言葉が「そうだ!そうだ!」に繋がった。
DeNAがやってるウェルク(Welq)っていうのが企業としてやってはいけない一線を完全に越えてる件(第1回)
取材は「何が出てきても構わない」に対して行われる打算。
「感じる」は、自分を納得させるための好奇心を刺激。
「取材」と「感じる」は相性が良いと思う。