“serendipity” を正しく訳せる? 日本語でうまく言い表せない9つの英語表現
アイデンティティということばを多くの人は英語の長文読解の中で初めて聞いただろう。
その訳として「自己同一性」と出てきて、なんじゃそりゃと思った人も多いだろう。
自己同一性(じこどういつせい、アイデンティティ、英: identity)とは、
心理学と社会学において、ある者が何者であるかについて他の者から区別
する概念、信念、品質および表現をいう。
似たようなことばとして、
Cogito ergo sum(ラテン語:我思う故に我あり)がある。
知識として持っているが、皮膚感覚として理解してない日本人は多いと思う。
一切を疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑により、
自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている
意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけは
その存在を疑い得ない。
「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は
否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在
する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/我思う、ゆえに我あり
日本語に訳しづらい言葉は、日本語文化圏内に概念がないということだ。
「LOVE」という概念が日本に無かったと言うのは有名な話。
「相手に合わせる」という価値観は、日本人にはあまり違和感がない。
相手の趣味嗜好、流儀に合わせるという事に大きな抵抗がない。
「日本人には、自分がない」という話を昔聞いたことがある。
例に出されたのは車だ。
「日本車には個性がない、それは日本人に個性がないからだ」というような展開で聞いた話だ。
察することが自然にできる日本人は、輸出する相手国の都合や、事情に合わせた車をつくる。ただし、デザインだけは日本流。
輸入した国では、変なデザインの車を造るメーカーが自国にできたと思う人もいたらしい。
値段が安いから売れる。乗ると実用に関しては悪くないから受け入れられる。
しかし、セカンドカー、サードカーとしての評価にとどまる。
「日本人には自分がない」「made in JAPANは没個性」とは、このような状態を称して、言われた言葉だ。
そんな日本人も自己主張しだし、欧米流にすべてがシフトし始めた。
そして、もともと持っていた価値観や習慣の一部が生活の中から消えて行き始めた。
フローリングが増え、畳が減った。畳が減ったら、正座をしなくなった。
畳や正座がなくなると、日本人魂みたいなものも減った気がする。
そして、ビジネスでも生活でも競争が激しくストレスの多い社会になり、心と身体を病む人が増えだした。
そんな現代の最前線で最もストレスを抱えるだろう欧米のトップ経営者が取り入れてるのが、禅や瞑想だ。
欧米をお手本にし、日本人が手放した日本古来の価値観を、欧米人が取り入れていたのだ。
一番大事なのは「今を生きること」 Twitter創業者ジャック・ドーシーが毎日実行している成功のための「やることリスト」
欧米の文化を一言で言うならば ”肉食であり奪い合い”だ。
そこで目指すのは勝つことだ。
これは、外に敵がいて、敵を意識して行動するということである。
背景には、狩猟文化がありそう。
”察する”という文化を通じて、日本人が察していたのは、自分以外の人の
考えてることや感じてることだ。
背景にあるのは、農耕文化で、自然とともに歩むことに由来するかも。
欧米も日本も意識してるのは、自分以外だ。
子供の頃は、すべての子供が「自分自身の本音」と真正面から向き合っていたはずなのに教育を重ね、大人になるほど、自分自身を二の次にしてしまう。
DNAに染み込んだ元々持ってる日本人のメンタリティの影響はしょうがないとしても、日本人は、察する相手の中に、自分自身を含めるべきだったのに、それをしないで、その文化自体を「他人の顔色を伺うもの」にしてしまった。
「灯台下暗し」を思い出せ!
欧米のトップ経営者が禅や瞑想を通じて察しようとしてるのは、自分自身だ、心の中の内なる自分に気付くためだろう。
求めていても、それを表現する言葉を持ち合わせてなければ、どう探せばいいかわからない。
持っていても、気付いてなければ、持ってないのと同じ。
自分自身と向き合うと言う意味では、日本人は欧米に一周遅れてるかも。
これからの時代に新しい価値をもたらすのは、「察することができる、欧米的価値観の持ち主」と、「自分自身を追求できる、日本的察する価値観の持ち主」だろう。
だとすると、日本人には生きやすいかもしれない。
これまでは遠慮して主張しなかったことを主張すれば良いだけだから。
察することが出来る人は、主張したからといって、そうわがままなことを言い出すわけではないだろうから。
Cogito ergo sum