今、時代は変わっているのだろうか?
変わってほしいと思っているから、そう見える事柄を過大に評価しようとしてるのかもしれない。
四谷学院のCMの変遷に、時代の変化が感じ取れる。
2000年のCM
「ホントはね、ずっと好きだったの」と複数の女の子から告白される、少し冴えない男の子。
そこで画面にテロップが入る。
「あの男、あの大学に合格」
2000年にはもう1本別バージョンがある。
登場人物は二人の女の子。ひとりは美人で、もうひとりはポッチャリ。
美人とポッチャリは仲良しだと思われてたが、美人はポッチャリを引き立て役にしてただけ。
そんなある日、ポッチャリの浪人しているボーイフレンドが医学部に合格した。
「信じられない、夢みたい!」と喜ぶポッチャリに、美人が「じゃあ、つねってあげる」と言って、ほっぺをつねる。
ポッチャリは痛がるが、美人はつねることを止めない。
美人の顔をズームすると、口元は笑ってるのに目が笑ってなかった。
ポッチャリのほほをつねりながら引っ張り歩く美人。
「キャー」という悲鳴でCMが終わる。
2006年のCM
「なんで、私が東大に!?」と合格体験を語るのは男子だけだったCMに女子が登場。
CMの展開にはコミカルな要素がまだあった。
2012年のCM
自然を背景にし、合格体験を語る女子。
「東京大学に合格するには、あとは応用力だけだと思っていました。でも思いがけないところに穴があった。先生との一対一のやりとりで気付いたんです」
リアルタイムで見ていたこのCMの変化に気づかなかった。
塾や予備校のCMは、生徒を集めるために最も効果的な手法を用いるはずだ、今なら気付くことに当時は気付かなかった。
2000年当時は、まだ頑張るのは男の時代だった。
そして女は、勝ち馬に乗ろうとしていた時代だったのだ。
2006年に女子が東大合格を目指すCMが出たということは、この頃に女子の価値観が男依存ではダメだにシフトし始めたのだろう。
あるいはもっと別の価値観かもしれないが、現在のアラサー世代だ。
現在社会人になりたての若者が2012年ころのCMの対象世代だが、男とは?女とは?の違いが全くない。
男女の役割分担の違い的なことが無くなりつつあるのだろう。
これは、良い面も悪い面もあるような気がする。
実際の仕事の現場でも、男の世界だと思われていた「体力勝負」の職にも女性が進出している。
日本社会の中枢はまだまだ、オジサンとおじいさんがいっぱい居座ってるが、小池さんが都知事になったことで政治の中枢が少し変わるかもしれない。
女性国会議員には、良い意味での女のパワーを感じないが。
女性が次の時代の鍵を握ってるような気がする
だとすると、トランプ大統領の背後にはキーマンとなる女性が隠れてるかもしれない。
アダム・スミスは、たとえ利己心に基づく行動でも、すべての人が自分に忠実に行動すれば、社会全体では適切な資源配分が達成されると考えた。
この市場経済の自然調整が機能することを「見えざる手が導く」と言った。
しかし「見えざる手」は、市場経済に限定されないことを期待したい。
ソ連崩壊を経験したロシアには、示唆に富んだことわざがある。
起こることは避けられないこと。
Чему быть, того не миновать.起こるべきことは起こる。必然的にそうなるようなことは、どうやっても回避不可能。
https://ja.wikiquote.org/wiki/ロシアの諺
これからは、「生きやすい人」と「生きにくい人」に別れる気がする。
お金のある無しは小さな要素だろう。
新しい一歩、自分自身の新しい言葉、これを何よりも恐れている
四谷学院のCMでの女子の変化のように、小さなキッカケで行動を変えることができるかが試されているかもしれない。
北斗の拳で「お前はもう死んでいる」というセリフがあったが、今の我々は「お前はもう見えない手に動かされてる」かもしれない。