人間はつくる生き物だと思う。
つくるには、「作る」「創る」「造る」などがある。
そして、ほぼすべての人が、ビジネスであれ、趣味であれ、なんらかの「つくる」を行っている。
ただ遊ぶだけでも「つくる」要素がどこかにはある。
「つくる」は、相手を求めることが多い。
自分のために自分一人で「つくる」を行っていても、技や情報を求める先には誰かが必要になる。
知ってる人が多いほど、「つくる」は広がりを見せるだろう。
一般的には、意気投合できれば「知り合い」は、「友達」になれるだろう。
しかし、リアルな人間関係は結構複雑だ。
「友情を言葉で説明するのは難しく、『何が友情でないか』を語る方が容易です」
「友情」の感覚が変化しているという声もあります。ヴァッサー大学で英語を教えているロナルド・シャープ教授は「何もせずに、ただ一緒にいるという友だちは今や『失われた芸術』なのです。人々は人間関係の効率を最大化することに夢中で、何が友情なのかを忘れています」と語りました。なお、シャープ教授は友人関係を「相手を理解するために時間を割き、自分を理解させることに時間を割ける人々」と定義しているそうです。
リアルな人間関係がややこしくなる一方、インターネットの普及が生んだSNSが新たな人間関係を作り出している。
そこでのキーワードは「共感」だ。
共感し合える相手を増やしたいのは自然な感情だろう。
リアルな知り合いではないが共感し合えるというのは、新しい関係だ。
あまりに数が大きくなりすぎると、従来の有名人とファンの関係と同じになるが、共感をベースにしてると単純な一方通行ではなくなる。
そういう意味では、SNSやブログも共感を求めての発信行為として機能している。
リアルな人間関係とは違うキャラクターで認知されたりしてるケースもあるだろう。
すごく可能性を感じる世界だ。
しかし、同時に若干の失望も感じる。
人生を振り返って「ああ!これは失敗だったな」と思うのが、日本語しか話せないこと。
成績は良くなかったが、英語を結構頑張った時期もあったが身につかなかった。
3.11の大震災による原発関連の情報に関して、日本発の情報の信憑性に疑問があり、海外発の情報を読むようになり、英語に関しては、読むことだけは抵抗がなくなったが、それとて大したレベルではない。
失望したことは、英語で書かれた情報は受け取れるが、英語で発することができないということだ。
つまり日本語というニッチ環境で生きるしかできないということ。
そう思っていたが、おもしろいことに気付いた。
言葉がしゃべれなくてもコミュニケーションが取れ、共感が得られる世界があるではないかと。
ヒットした理由は全く分かりませんが、「ペンパイナッポーアポーペン」は英語圏の方からすると、「L」が多く入っていて、発音が意外と難しいらしいんですね。外国の方に「子どもはあれを覚えて言いたくなるんだよ」と言われました。最近では、トランプ米国次期大統領の5歳の孫娘さんが、「カバー動画」を上げていて驚きました。
ヒットの作り方は分からないので、今面白いと思うものを皆さんにどんどん提供して、あとは世の中の人々に選んでもらえるかどうかだと思います。このような作品でも、日本文化の一端ではあると思うので、それを世界の人々に楽しんでもらえるとうれしいです。
言葉によるコミュニケーションには、しゃべり言葉と書き言葉があるが、普通の日本人には日本語の枠内という制限がある。
意味を表現しようとするから生じる限界だ。
「PPAP」のように音遊びにしてしまえば言語の枠を超えられる。
そう言えば最近日本でも川柳などの音遊びが流行ってる気がする。
映像の持つ一目瞭然性というわかりやすさと、生活する場所や文化が違うと発信する側には当たり前のことが珍しかったりする意外性という面白さが両立することもある。
共感は、言葉で意味を表現しなくても得られることがある。
お手軽なところに思わぬものが潜んでるワクワク感がある。
言葉で説得することをしてきた人には、ちょっとハードルが上がるかもしれないが、音と映像を使って納得してもらうというのは、今やお手軽になったので楽しむのも悪くないかも。
費用対効果や生産性という概念とは別の、「好き」「おもしろい」「楽しい」という言葉がキーワードになってるはずだ。
PPAP(Pen-Pineapple-Apple-Pen Official)ペンパイナッポーアッポーペン/PIKOTARO(ピコ太郎)