相次ぐ金塊の盗難事件が世間を騒がせてるが、これらの事件について考えていると幾つかの点が気になってくる。
犯人たちは、お金を得るのが目的だが、今どきの時代は高額な現金取引は行われない。
そこで、時価での現金取引が基本の”金”に目をつけたのだが、”金”のネックは重量だ。
博多窃盗事件の金塊の重さは?7.5億円分を色々なものと比較してみた!
金塊7.5億って何kg?
報道によると160kgって言われてました^^;
ってことは、1g4700円弱くらいが当時の相場ですね。
実行犯は6人だったらしく、
一人あたり26.5kg程度を運んだ事になりますね。
26.5kgって結構重くないっすか?
では、実際に26.5kg前後のものを調べてみました!
ビール:中身が入った大瓶1本1.25kg程度なので中身が入ってると20本。外ケースとあわせると約26kgなので1ケース
金塊1kgは、市販の板チョコの箱のサイズより1周りから2周り小さいサイズなので移動手段を確保すれば運びやすいが、サイズと重さがアンバランスだから運び方を考えないと不自然になる。
一連の事件の犯人にとって、”金”にはさまざまな狙う理由につながる価値があったのだろう。
と考えていたら、普通に使われる『価値』とはなんだろうかと不思議になってきた。
一般的にあまり誤解を生む言葉とは思われてないが、改めて考えると奥が深そうだ。
社会の教科書ではお金が出来る前は、物々交換だったと教えるが、今生きてる人に物々交換をイメージさせても「わらしべ長者」的な童話の世界を描いてしまうだろう。
経済効果を生み出す物々交換がイメージできない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/価値
価値(かち)とは、或るものを他のものよりも上位に位置づける理由となる性質、人間の肉体的、精神的欲求を満たす性質、あるいは真・善・美・愛あるいは仁など人間社会の存続にとってプラスの普遍性をもつと考えられる概念の総称。
殆どの場合、物事の持つ、目的の実現に役に立つ性質、もしくは重要な性質や程度を指す。何に価値があり、何には価値がない、とするひとりひとりのうちにある判断の体系を価値観と言う。
水は有用だが通常は安価であり、宝石はさほど有用とはいえないが、非常に高価である。これは「価値のパラドックス」と呼ばれ、これを説明することは、初期の経済学の難問であった。
これを解決するため、交換価値と使用価値をはっきり区別し、直接の関連を否定して考えるようになった。すなわち、水は使用価値は高いが、交換価値は低い。また、宝石は使用価値は低いが、交換価値は高い。古典派経済学では価値の大小の理由として、希少性が考えられた。近代経済学(限界効用学派)では、全部効用と限界効用の区別により二者を消費面から統一的に説明することでこの問題を解決した。
上記のように事例として「水」や「宝石」を挙げないとピンとこないのが『価値』についての説明。
言葉は難しくないのに、ビジネスにも関連しそうなのに、あまり深く考えない『価値』。
たぶん『価値』を一番考えてるのは、美術や芸術の世界かもしれない。
一般的には、価値は価格で表現される。
そして需要と供給のバランスやその時々の生産量や生産原価との兼ね合いで、価格が決定される(変動する)。
ところが、美術や芸術の世界では、多くの人が納得できるような価格決定の仕組みがない。
多くの人に買って貰う必要がないし、ごく少数の分かる人だけを相手にすれば良い。
だから『価値』とは何かを常に考えてなければならない。
われわれは日常生活では全く意識してないが、不思議な使いかたをしてるものに”お金”がある。
1万円札は、製造原価23円。
このサイトには、一万円札につぎ込まれてる印刷技術についても書いてあるが、これだけの技術が詰め込まれても、そして紙質も良い一万円札が1枚23円であることを考えるとコピー代についても考えさせられる。
アートは、このお札を造るのに似たことを常にやっているのだ。
著者は、銀座にある「東京画廊」の二代目。
アートの世界の面白さを丁寧に説明している。
著者はごく普通の感覚を持っているように見えるが、お付き合いしてる人や周りにいる人がすごい人ばかりだ。
著者の母親は、首相官邸でタイピストをしていて、玉音放送の終戦の勅の文章を記録したらしい。この時記録した文章を天皇陛下が読んだとのこと。
さり気なくすごい話が出て来る面白い本だ。
一万円札が価値を持つのは、原価23円の紙切れに一万円の価値を保証している日本国の価値なのだ。
原価が知れてる絵画に値がつくのは、作者の価値もあるが、贋作が多い世界であることを考えると、仲介する画商や画廊が持つ信用に対する価値でもある。
だから、解説し、評論することも、新しい価値を生むことに役立つ。
近代アートが現代アートに移り、アートの世界にもグローバル化が起こっている。
アートの世界というと過去の大作に目が行くが、評価が確定している過去の作品はともかく、新作に関しては、価値は画廊や画商という第三者が付ける時代から、作者本人が自らの言葉で表現することがセットで求められるようになっているらしい。
ビジネスの世界でも、アートの世界でも、スポーツの世界でも、なぜ世界で評価されるのかわからない日本人がいる。
そんな日本人はたいてい雄弁だ、ナルシストのようにも見える。
だから、あまり好ましくは映らなかった。(わたしの目には)
その反動のように、日本人は黙ってることに美徳を感じることがあるが、それはガラパゴスかもしれない。
アートの世界でも、自分の作品や目指す世界観を、自分の言葉で定義し、自分の言葉で説明することができないと評価されない時代に入ったことと、AIの台頭や自動化の加速は無関係ではないような気がする。
『価値』の定義が変化し始めているかもしれない。
資本主義は、役に立つものを求め、必要に応じて育てるということを続け発展してきた。
そんな資本主義は、もっと役に立つもの求め始めた。
なぜなら、尺度にしている利回りが落ちてきたから。
もっともっとを求める資本主義は、育てることを無駄だと感じ始め、即戦力を求めだして、今に至っている。
日本発のノーベル賞は減っていく……」 科学界に不安が広がる理由 2016/10/06
今年、ノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典さん(東工大栄誉教授)の発言が注目されている。基礎研究についての発言だ。
「『役に立つ』ということが、とても社会をだめにしていると思っています。科学で役に立つって『数年後に起業できる』ことと同義語のように使われることが、とても問題だと思っています」
行き詰まった時には、反対方向に活路が開けることがある。
「役に立つ」という価値が行き詰まり始めてるとすれば、「役に立たない」が価値を持ち出しているかもしれない。
これからは、「役に立つ」ことの多くは、機械化され自動化され、大勢の人間が関与しなくても成り立つようになるだろう。
「役に立つ」という価値から「役に立たない」へのシフトは、究極のパラダイムシフトだ。
「役に立たない」代表がアートだ。
この場合は、拡大解釈しても良いだろう。
機械ではなく、人間にしかできないことに、そして、その人にしかできないということに価値が集約していくのではないだろうか。
難しいことが求められてるのではなく、一人一人が「自分にとってのコロンブスの卵」を定義し、つくることが求められるようになるのではないだろうか。
最大のハードルは、「役に立たない」けど売れなければいけない点、売れるの部分は、評価されるでも良いだろう。
このために、言葉で表現する能力が欠かせなくなる。
ビジネスとアートの共通点は、売れなければいけないことだが、アプローチは全く異なる。
これから評価を得ようとするスタート段階では、ビジネスは不特定多数を顧客として設定するが、アートでは客が想定できない、具体的に想定するような場合、その相手は途方もない目利きで、努力したくらいでは評価してもらえないだろう。
つまり、アートは客を想定しても意味がないということになる。
拠り所は、自分の外側ではなく、内側にあることになる。