住所や電話番号や生年月日という個人情報が、ほぼ公だった時代があった。
学生時代、石原裕次郎の家から車が盗まれるという事件があった。
新聞に、詳しく住所が出ていたので、友人と家を探しに行ったことがある。
それがきっかけで、高級住宅街を散歩と称し、有名人の家探しを友人としたことがある。
今だったら、この行為は非難される行為かもしれない。
昔の小説の巻末を見ると、著者の連絡先が明らかに個人の自宅と思しき場所であることは当たり前だった。
昔、著名な人に弟子入り志願する人が自宅を訪ねられたのは、住所がオープンに扱われる情報だったからできたことだろう。
個人情報が秘匿性を有する情報と認識され始めたのは、犯罪やビジネスのターゲット設定に利用され始めたのがキッカケだ。
昔の家の表札は、家族全員の名前が書いてあることが珍しくなかった。
それがいつの頃からか、名字だけの表札になり、一戸建て以外では表札を出さない家が増えてきた。
これは、増え始めたDM(ダイレクトメール)や訪問販売に対し、家族構成や家族情報を知られたくないということがキッカケだろう、1980年頃だ。
またこの前後の頃から訪問者に対し、玄関を開けるのは当たり前だったのが、ドア越しの対応になり、インターホンの普及が進みだした。
外部と遮断する場合の家側の情報を、個人情報と呼ぶが、その家の内部でもプライバシーと言う個人情報が遮断されている。
子供に勉強するために個室を与えることが生み出した、意図しない情報遮断の発生を起こした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/プライバシー
プライバシーに関する議論の論点は、以下のようにカテゴライズできる
- 放っておかれる権利(the right to be let alone)
- 他人による個人情報へのアクセスを制限する選択肢(the option to limit the access others have to one's personal information)
- 秘匿、すなわち他人からの任意の情報を隠す選択肢(secrecy, or the option to conceal any information from others)
- 自分に関する情報を他人が利用する事へのコントロール(control over others' use of information about oneself)
- プライバシー状態(states of privacy)
- 人間性と自律(personhood and autonomy)
- 自己のアイデンティティと人間的成長(self-identity and personal growth)
- 親密な関係の保護(protection of Intimate relationships)
もともとプライバシーや個人情報という概念がない日本人には、ムラ社会という束縛関係があったが、これは悪いことのように捉えられることが多いし、私自身も好きではないが、関係を持ってる人の面倒を見ると言う意味で突き放さない関係性があるのは良い点だ。
個人情報やプライバシーが守られない替わりに、ムラ社会という束縛関係で脱落者を出さない仕組みがあった日本で、プライバシーや個人情報を守るようになったらムラ社会は成り立たなくなる。
プライバシーや個人情報は、好ましくない利用をされないために保護することが重要だとされたが、保護することで『自由』を加速させたが、同時にあらゆる分野で関係性の遮断を促進した。
「ムラ社会という束縛」から「自由」への移行に見えるが、ムラ社会が面倒見ていた人間関係が行き場を無くしただけだとすれば、しわ寄せが出るのは当然だ。
自由とセットで進められるべき「流動化」が進まなかったことの不都合が、日本の閉塞感につながっているかもしれない。
だからなのか今の人々は、新しいムラを求めてるように見える。
ムラの定義は様々できるだろうが一言で言うなら「帰属先」といえるかもしれない。
「勝ち組・負け組」と騒ぎ立てる人のイヤらしさ
楠木建の「好き」と「嫌い」――好き:出たとこ勝負 嫌い:勝ち組・負け組
勝負とか勝つとか負けるとかいうのは基本的に自らの能動的な行為でありその結果である。にもかかわらず、話が集団への帰属にすり替わっている。自分はその「組」に入っているだけ。勝負が自分の意思による選択や行為ではなく、どこか受動的というか、他人事になっている。
まんざらでもない顔をして「俺は勝ち組だから……」とか悦に入っている輩は、その時点ですでに負けている。実際のところ「負け組筆頭若頭補佐代理」のようなものだ。いまは勝ち組にいるにしても、未来永劫安泰であるわけがない。個人の地力がなくては、いずれは負けてしまう。で、負けたら負けたで「どうせ俺たちは負け組だから……」と「組」に責任転嫁する。
こんなことを考えるキッカケになったのが、キムタクだ。
芸能界の圧倒的な勝ち組だったキムタクこと木村拓哉は、圧倒的な人気を誇り、人気者の常としてアンチも多く抱えていた。
そんなキムタクがsmap解散を巡り一人悪者扱いを受けることで、日本中を敵に回した。(チョット大げさ)
キムタクと言う存在は、ある意味日本人の男が描く理想像かもしれない。
常にカッコイイ存在であることを求められ、自分自身もカッコイイことを認識できている。
だから演じる役回りは常にヒーロー役。
しかし、ヒーロー像は多くの場合ワンパターン化する。
長年に渡るワンパターンが、予定調和をつくり、独特なうんざり感が出てくるからアンチも増える。
これはキムタクが悪いわけではなく「ヒーロー役」の宿命だろう。
とアンチの気持ちを察しているようなことを書いたが、これは私自身の気持ちだ。
smap解散を巡りキムタクがバッシングを受けるのに慣れてきた先月こんな記事が出た。
キムタク カンヌ国際映画祭「重大マナー違反」で大炎上 :東スポweb
キムタクに対してアンチの気持ちが芽生えてしまうと”坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”となり、この記事も字面だけで「キムタクってそういう奴だ」と納得する自分がいた。
しかし、6月11日の「世界の果てまでイッテQ!」を見て猛省した。
キムタク、カンヌ「空手ポーズ」真相 やっぱり「パパラッチ出川」へのサインだった
すると、名前を呼びながら空手ポーズをする出川さんに気付いた杉咲さんと木村さんは、出川さんに向かって空手ポーズで応答。その直後、木村さんは出川さんのもとへ駆け寄り、左腕を出川さんの肩に回して笑顔で一緒にセルフィーに納まった。
テレビを見てると、キムタクも杉咲花も三池監督も皆が笑顔だった。
その場に、幸福感がある良い時間が流れているのは明らかだった。
あの場で取材をしていて、「重大マナー違反」と書けることが不思議だ。
今回の反省点は、よく知りもしないのになんとなく身についた先入観に合致する情報が与えられると、勝手に信じ込んでしまったことだ。
日頃こういう事がないように気をつけたいと思っていたはずだが、完全に毒されていると気付いた。
もう一点は、反省点ではなく注意点として、嫌いな人に対して欠点を探そうとしてしまうこと。
意識的な悪意をもちろんのこと、注意すべきは無意識の悪意だ。
勝ち組を目指す気持ちが「自意識過剰」を生み、負け組を嫌悪する気持ちが「被害妄想」を生む。
この二つの異なる意識が心のなかに同居しているのでおかしな行動取ることがあるが、それはムラという帰属先を無くした状態で勝負しようとしてるからかもしれない。
いずれにせよ、自分で勝負に出ていないことには変わりはない。
「勝ち組・負け組」とか言っている連中に言いたい。
勝ち負けぐらいで「組」になるな。勝負は一人で勝手にやれ!