前回下記の記事を見てブログを書いた。
その時は、日本の若者が変化してるが、その変化は退化かもしれないという視点で書いたが、退化に見えてる私自身が1周遅れかもしれないとも思えたので、そういうことを書いてみたい。
2〜3年前、毎日新聞記者の小国綾子さんからこんなエピソードをうかがったことがある。LINE株式会社の出前授業に付き添い、中学校を訪問した時のことだそうだ。
「友だちから言われて最もイヤな言葉は? (1)まじめだね (2)おとなしいね (3)天然だね (4)個性的だね (5)マイペースだね」との問いかけに対し、一番多かった回答は「(4)個性的だね」だったという。
「まさか!」と耳を疑った彼女に向かって、生徒たちは口々にこう語ったそうだ。
「個性的と言われると、自分を否定された気がする」「周囲と違うってことでしょ? どう考えてもマイナスの言葉」「他の言葉は良い意味にも取れるけど、個性的だけは良い意味に取れない」「差別的に受け取られるかも」等々――。
驚かれるかもしれないが、どうやらこの中学生たちだけが特殊というわけでもないらしい。
「個性を重視する」ということばには懐かしさを感じるとともに、耳心地の良さも感じられる。
子供の頃聞いた、個性を重視するという言葉の響きには肯定感が強く感じられた。
しかし、その一方で中学高校とガチガチの校則は、個性を重視してるようには感じられなかった。
不良と言われる生徒たちが、校則に反発すると、「やりたいなら学校をやめろ」や「やりたければ卒業してからにしろ」というのは学校側の定番の答えだった。
当時は気付かなかったが、今なら気付くのが、すべての人には二つの立場があるということだ。
- 家族や学校や職場や社会のどこかに所属してるという立場
- すべての人が消費者であるという立場
「個性を重視する」という思想や教育が、明治期の資本主義の始まりとともに生まれた。
学校では「子どもにはひとりひとり個性があって、その発想や想像力を大切にしなければならない」と教わる。
マスコミは「個人の消費行動って格好いいでしょ。これが新しいライフスタイルなのよ。」と個人消費を煽る。
それすなわちそのまま「個人の消費行動」に全てがつながり、それすなわち「企業の利益」に全てがつながる。
この個性は、消費者という立場で求められていたものであり、所属する立場で求められたものではない。
だから、日本語の「個性的」には、わがままや協調性の無さを連想させる悪いイメージがつきまとう。
経済成長とともに、消費者として「個性的」に行動し始めた日本人は、所属の場でも流動性が生まれ「個性的」に行動し始めた。
時間差はあったが全ての場で個性が通用するかに見えたが、経済成長が止まると二つの立場がまた分離し始めた。
【悲報】日本企業は個性の”無い”人間を求めている事実が明らかにwwwwwwww
個性の意味を履き違えている人が多いと思う。個性とは珍しい性格だとか
変な奴だとか、他人と違うことをしてきた人だとか、そういうことじゃない。
徹底的に他人を模倣して研鑽し、それでもにじみ出てきてしまうその人なりの味を 個性と言う。
経験の浅い人に個性なんてあるわけがない。それがにじみ出てくる域まで到達して ないから。だから企業の採用でも「新人の個性」なんて言うまやかしは評価の対象に なるはずが無い。
このエントリーは2014年のものだ。
学校教育や家庭で就活がどのように伝えられてるかは、推して知るべしだろう。
そんな中学生が「個性的」であることにネガティブな印象を持つのは当然だ。
所属の場では、規則と成績(挙績)がより強く求められる様になって来た。
情報のやり取りが、自由で多様性に富んでいる分だけ、昔より今のほうが締め付けられ感が強いだろう。
集団としての日本人の特徴を語る時にキーワードになるのが「ヤンキー」と言うのはよく知られている。
日本の消費社会を牽引してるのがヤンキーだと言われている。
ご存知でしたか 日本人の9割がヤンキーになる 1億総中流の時代はよかったなぁ 2013年
「ヤンキーの価値観は『気合主義』と『反知性主義』。つまり、『気合と勢いがあればなんとかなる』『ややこしい理屈をこねるより、大それたことを実行した奴が偉い』という発想です。このような考え方は、日本人なら誰もが多かれ少なかれ不良経験とは無関係に持っているのですが、近年それが顕著に表れるようになっています。
東京では全く売れないのに、地方では爆発的に売れているものがあります。浜崎あゆみ・EXILEなどに代表される歌手やアイドルのヒット曲、数年前にベストセラーになった『ケータイ小説(註・携帯電話で読める小説を書籍化したもの。若い女性に人気を博したが、内容が批判の的にもなった)』などは、東京では誰も興味がないのに、地方ではみんなが買っている。
いま日本で売れるのは、好みが多様化している東京の住民ではなく、地方で一枚岩を形作っているヤンキーに受ける商品なのです
ほぼすべての日本人がヤンキー化(程度の差は大きいだろうが)し、わかりやすい価値観を持っている。
そしてお互いにその価値観に共感しあえてることが多い。
生き方が多様化してるようで、多様性をあまり認めない日本では、共感するポイントは結構共通している。
しかし、冒頭の中学生のように従来と共感のポイントが違ってきている。
共感の世代間分裂が起きているかもしれない。
子供たちの「大人には騙されないぞ!」という気持ちの現れかもしれない。
同じく、共感のポイントが違ってきてることを、ドラマ「あなたのことはそれほど」の評判から感じることが出来る。
このドラマ小学5年の姪が好きで、一緒に見たことが何度かあるが、姪は面白そうに見てるが、私は見てて気持ち悪いことがほとんどだった。
これがおもしろいとなると先が思いやられるなと少し心配に思ってると、こんな記事を見つけた。
このドラマが異色なのは、主な登場人物である4人の誰にも「共感」できない、もしくはしづらいことだ。
大学の二つの授業で、学生たちに「見ている人は?」と聞いてみて驚いた。ある授業では、なんと約60%の学生が、そして別の授業でも約50%の学生が手を挙げたのだ。過去20年、同様の“教室内視聴率調査”を行ってきたが、この数字はとびぬけて高い。同じ枠の「逃げるは恥だが役に立つ」や「カルテット」も遠く及ばない
視聴理由については、「縛られないヒロインの行く末」「正常な人がいないドラマ」「罪悪感のない妻とサイコパスな夫」「普通に見えた人が徐々に変わっていく怖さ」などが並んだ。
たまたまなのかもしれないが、もしかしたら若い世代の間で、従来型の日本的な、あるいはヤンキー的な、好きになれない大人が作り上げた価値観に抵抗しようとし始めているのかもしれないとも思えた。
だとしたら原作者は何を表現しようとしたのだろうか?
原作者の漫画家いくえみ綾のインタビュー記事を見ると、
いくえみ綾『あなたのことはそれほど』インタビュー 私ハマるとしつこいよ――ズルい女とわるい男のリアルでドロドロなW不倫劇
――『あなたのことは~』がおもしろいのは、ネットのクチコミを見ると「登場人物のだれも好きになれない!」という意見も少なくなくて。じゃあ、つまんなくて読みたくないのかといえば、そうではまったくなく、むしろおもしろくて続きが気になってしょうがないと。登場人物もたいてい屈折してますが、読者もものすごく屈折したことになっています(笑)。
いくえみ 基本的にキャラにはいつも感情移入せずに俯瞰で描いてるので、だれにも自己投影しないし、私自身、ものすごくさめてるので、私も登場人物みんな読者に嫌われて当然だなあと思ってます。まあ、不倫話で「愛されキャラ」みたいなのがいるほうが、難しいとも思うんですが。イヤでダメな人間を描いているのは昔からのようです、読者の方によると。私は普通に描いているのですけど、なぜでしょうね……?
――一方で、「どの人物の気持ちもわかる」という声もたくさんあって。好きではないけど共感せずにいられないという、同族嫌悪的なものかもしれません。
いくえみそういう部分で共感をしてもらえるのなら幸いですね。
人生には模範解答という予定調和路線があると教わったのが、昭和の教育だったが、人生はもっとわけのわからない手探りなものなのかもしれない。
いくえみ恋愛はこうだよねとか、自分の価値観はこうですみたいなことは、話を作る時にいっさい考えてませんね。ひたすら作ったキャラを動かしていくのみです。私はこんな時こうしないけど、この人はこうするよね。こうすればいいのに、この人はしないからこうなるよね、あーあ……みたいな。その積み重なってしまった問題を片づけていくのが、ストーリーを終わらせるための私のお仕事なので、それに向かって進んでゆくだけなのです。私の考えは関係ない。あくまで客観視なんです。
若者の一部が、知らず知らずのうちに、脱予定調和な生き方を模索してるのかもしれない。