解決困難な悩みや問題に直面した時、多くの人はきっとため息をツキながらこう言うだろう。
「ああ、人生とはなんだろうか?」
シンプルな問いだが、禅問答のように無限の答えがあるのだろう。
こんな時、わたしは反対語を考える。
”人生=生きること”とした場合の反対語は、”死”だろう。
回答ありがとうございます。
いろんな人の回答を読むまでは、死ぬ=生命がなくなることだと考えていました。つまり死ぬとはこの世からあの世(仮に)に渡ることだと考えていたため、死ぬの反対は生まれるだと考えていました。しかし死ぬという言葉が死んでいる状態も含むならば生きるの反対語となりますね。
生きてる人間は、遅かれ早かれ絶対に死ぬのだが、意外と死は身近なものに感じられなくなってきてる。
”人生とはなにか”を考える時、”生きる”の反対が”死”と思える時には許容できていたことが、最近許容されなくなっているような気がする。
つまり、”生きる”の反対語が”死”ではなくなっているのだ。
おそらく、”生きる”の反対語は”充実してない”になっている。
かなり前からそうなっていた気がするが、表現する言葉がなかったのだが、”リア充”という表現が出た頃から、”生きる=充実”が公式化したのだと感じる。
改めてそう思ったのは、最近やたらと騒ぎになっていたこの件だ。
話題の牛乳石鹸のCMを、男性学の研究者に見てもらったら......
それでいうと、このCMについて男性は、個人的な感情を表に出さず、一般論として分析するスタンスに回っている人が多い印象です。一連のジェンダーがらみのCMでも、リアクションするのは女性に偏っているようです。
放送作家の鈴木おさむさんのブログは、子育てについて男性が発信しているにもかかわらず、コメント欄の書き込みは女性とみられる人ばかりです。男性たちがジェンダーに関心が薄いという点は、認識しておいたほうがよさそうです。
このCMが話題になってから数日経って、どんだけひどいのかなと思いながらCMを見たが、そんなにひどいとは思わなかった、強いて言うなら全編を通じて昭和の男が作ったCMだなという感じだった。
昭和の頃は、まだ”生きる”の反対語が”死”として通用していたので、家族は最小の運命共同体として機能していたので、生活ができるならば少々のことは許容されていた、許容を強いられていたのは父親以外の家族だろうが。
家庭の中では、家族に犠牲を強いる父親も、社会や会社では犠牲を強いられていた。
しかし、世の中そんなものだとすべてが許容されていたのが日本社会だったが、時間の経過は緩やかに世間の空気を変えていった。
そして、現在では家族は充実追求共同体になり、家族全員が自分の充実を最優先するようになっているのかもしれない。
これってなんだか、チルチルミチルの幸せの青い鳥の話に似てるのでは?
https://ja.wikipedia.org/wiki/青い鳥
2人兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にあったという物語。
もう少し具体的に捉えると、
「幸せの青い鳥ってどこにいるの!?」と女性がよく口にする言葉。
1.小さい頃やっていた事をやってみる
2.自分が欲しい幸せがなくてもいいと思ってみる。
3.お友達に聞いてみる
4.やりたくないことを辞めてやりたいことをやってみる
5.毎日青い鳥の存在を感じる
充実を巡る問題のキーパーソンは女性だ。
日本社会はまだ昭和の理屈で動いているところが多い、昭和の理屈は犠牲になることを強要してくる。
その昭和の理屈に対抗する勢力が、充実という盾を構えている。
昭和的な支配は、いづれ時間の問題で消える(昭和脳が死ぬから)。
忘れてはいけない、求める充実は、遠くにあるのではなく、身近に存在してるということを。