以前、歴史は前にしか向かえないというエントリーを書いた。
核家族化とテレビの関係について書いたのだが、その時思いつかなかったことが気になりだしてきた。
核家族化の進行が、その後の一人暮らしと二人暮らしの増加を招いた。
この核家族の分裂が、一人1台のテレビを実現した。
昔、日本人の多くは核家族で生活してる時、テレビのチャンネルの選択権は一般的に父親が持っていた。
父親不在時は、母親が持ち、例外的に時間制限などの条件付きで子供にも与えられていた。(個人的な実感)
しかし、テレビが一人1台になると、そんなチャンネルの選択権をすべての人が持つようになった。
テレビが一人1台というのは、一人一部屋と同じ意味でもある。
一人1台のテレビは、ラジオに大きなダメージを与えた。
おそらく、今の子供や若者が携帯電話やスマホを初めて所有した時の行動と似たようなことが、初めて自分のテレビを持った昔の子供や若者にも起きていたのではないだろうか。
私は大学入学で一人暮らしをしたことで、自分のテレビを手に入れたが、この時の印象は自由を手に入れた感覚だった。
一方、初めて携帯電話を所有した時は、仕事上の必要だったからだろうか、束縛の象徴のように感じ、不愉快だったことを思い出す、通話料金が高いことも不愉快だったが、全くプライベートな理由で所有してれば違う気持ちだったかもしれない。
以前のブログでは、80年台初頭に進学や就職で一人暮らしを始めた人が、一人暮らしの寂しさの間を埋めるためにテレビを点けているというNHKの特集の話を書いた。
寂しいと言っても別に泣いてるわけではない。
要は、間がもたないのだ。
価値観で言うと「間をもたせたい」の1つだけなのだが、その間を埋める手段や方法が年月の経過とともに多様化し始めたのだ。
だから、この多様化した末端の動きだけを捉えて、価値観の多様化と呼ぶことが増えた事に対し、違和感が拭えない。
間を埋める行為は、「娯楽」と言われる。
娯楽にはいくつかパターンが有る。
- 映画や読書その他、作られたコンテンツを楽しむ
- 趣味として、コンテンツを自ら創る、演じる
- 飲食や旅行で家族や仲間や時には一人でコミュニケーションを楽しむ
- 好きでやる勉強や研究やスポーツ
ここに上げた娯楽の特徴は、その場では1つしか楽しめないという点だ。
この当たり前のことに革命を与えたのが、一人1台になったテレビだ。
チャンネルを変えれば複数の番組を瞬時に切り替えられる。
一人1台のテレビは80年台の娯楽の最後発で、特徴はコンテンツの消費が無料で、見るのも止めるのも自由だという点だ。
大きな画面で迫力ある映画に対し、小さい画面のテレビだったし、テレビドラマの脚本は、小説という原作があったので、こんなキャッチコピーが成立していた。
映画界としてみれば、テレビはお客さんを奪った「憎らしい存在」なので、そのテレビを利用して宣伝するという発想がなかったんです。それを角川映画は、もともと映画界の会社ではないので、合理的に判断して、テレビコマーシャルを打った。それで映画人からはだいぶ嫌われ、批判もされました。
業界の垣根がはっきりしてた時代は、小さなことでも、異業種参入と騒がれたかもしれないが、一人1台のテレビの実現が、情報のテレビへの集約と言う意味で、実はかなり大きな影響を与えていたのではないだろうか。
上記のブログを書いて以降、最近になって追加で気付いたことだ。
ここまでは、今回の前置き。
今現在を基準に、転換点がどこにあったかを考えると、一般的には、”windows95の登場によるPCの普及と携帯電話の普及が同じ時期に起きたことが大きな変化をもたらした。”となるのだろうが、それだと説明がつかないのが”フジテレビの凋落ぶり”だ。
80年台にダントツ一番人気だったフジテレビが、現在ダントツで凋落してる。
その凋落ぶりは多くの記事になっている、ほとんどが同じことを指摘している。
フジテレビ凋落は「内輪ウケ・世間ズレ・自己保身」が原因か
週刊女性2016年8月2日号2016/7/24
「'80年代、フジテレビは“庶民的”なテレビ局でした。当時の番組に共通する特徴は、反権威主義でリアルを追求するところ。当時、個性化が進んでいた若者たちは権威主義的に教員や親から考え方を押しつけられることに対し、鬱屈した感情をため込んでいたのでしょう。
しかし、お台場への移転などをきっかけに、フジテレビは“エリート”になってしまった。
「いつの間にかおごりが生じ、成功体験から抜け出せず、独善的な番組作りをするようになりました。それを省みることができなくなり、視聴者ではなく“番組制作者本位主義”、いわゆる内輪ウケの姿勢が根づいていたことも独善性に拍車をかけます。その結果、世間の変化に目を向け、耳を傾け、謙虚に寄り添おうという気持ちが薄くなり、感覚がズレてしまったのです」
このような記事を読んでると、読みやすいし、なんとなくそうかなと思うが、どうしても納得できない気持ちもあった。
視聴率という尺度を気にする民放業界では、大衆が何に反応してるのかに最も敏感なはずだからだ。
この点に関しては、テレビ局と広告代理店はセットであろう。
いろいろな調査をしたりして、世間の動向はわかっているだろうに、なぜ間違った判断を繰り返すのだろうか。
視聴率が上がれば儲かるならば、喜んでおごりやプライドを捨てると思うのだが。
テレビが作られるまでのメカニズムが極めていい加減であることです。こういう話を真に受けてしまえば、私みたいな素人にだって番組が作れそうに思えてきます。
業界の体質の問題はあるのだろうが、それだけでは謎は解明できない。
フジテレビの問題の中には、テレビ業界に共通した問題と、フジテレビ固有の問題があるはずだ。
謎の解明は、フジテレビ固有の事情にある。
検索して、似た意見を引用しようと思ったが、なんだかズバリを言ってくれるものが見つからない。
昔は、フジテレビ好きだったな〜と思い出しながら自分で考えてみることにする。
フジテレビが大人気になりだした時期は、秋元康やとんねるずが牽引した。
この特徴は、素人の活用だった。
一流のプロを活用すべきシーンや主役に素人を活用することで人気が出たのだ。
この手法は、とても新鮮だった。
揶揄すれば、テレビ番組の学芸会化なのだが、見事に予定調和を崩したのだ。
新人を主役に抜擢することがルーティン化すると、緻密な台本や脚本を活かすことが出来なくなる。
こういうフジテレビのやり方を「キャストで勝負する」と当時言われていたことを思い出す。
この時期は不思議な時期で、技のあるベテランがうんざりされ、技も何も無い新人が輝いて見えていた。
どうせ難しいことを要求してもできないし、視聴者も完成度の高さなんか求めてない、そんな時期が90年台に入っても続いていた。
この時期は、裏方のベテランにとっては辛い時期だったかもしれない。
ベテランの技が求められないし、評価もされない。
やがてバブル景気が崩壊し、不景気が長引く中で、表面的な価値観の多様化が顕在化し始めた。
このことが、ベテランの復権も果たしたが、芸能界のヒエラルキーはキャリアではなく人気のままで現在に至ってる。
素人は相変わらずいろいろな場で重宝され続けたが、短い賞味期限で消えていくものがほとんどで、次から次に新人が補充されては消えるを繰り返し現在に至ってる。
この傾向が一番強いのがフジテレビだと感じてる。
人もコンテンツも流れるもので、たまたま網に引っかかったものが人気が出れば良いという感じで、消費するだけだったのだろう。
それから20年、30年経過して、気がついたら最初にいた一部の人だけが残っており、あとは事情がよくわからない人ばかりになったように見える。
消費だけを繰り返し、気がついたら何も残ってない。
それが今のフジテレビかもしれない。
つまり、この30年間消費するだけで、育てなかったのだ。
実は、こんな日本企業がすごく多いと感じてる。
娯楽という意味でのコンテンツに目を向けると、いつの頃からかテレビドラマの原作が漫画というのが非常に増えている。
書籍は売れないが、コミックだけは売れるということを示しているのだろう。
消費行動が旺盛な分野に、乗っかることしか思い浮かばないのがテレビや広告の業界であり、CMの世界なのだろう、掻き立てたいのは新たな消費なのだから当然に感じるが、大衆のベクトルが変わりだしてるかもしれない。
大衆は、消費行動に飽き始めていて、何かを創りたいと思い出してるのではないだろうか。
金持ちは消費を極めようと動き、超お金持ちを目指してるが、そういうのとは無縁な0円のコンテンツで育った人々は、自分流コンテンツを持ちたいと思うのは自然な流れだろう。
昔の子供は、夏休みに、朝顔やひまわりを育てていたが、最近の子はどうなのだろうか。
大人もやってみると思い出すだろう、蒔いた種から芽が出ることがどんなにうれしいかということを。
生きてる人間は、誰でも種を持っている。