いつの頃からか、毎年夏になると、最近の夏は何かが足りないなと思っていたが、ひょんな事から、これだったかもと思い出すキッカケとなる記事に出くわした。
スプーン曲げに心霊写真、常にブームの中心にいた男
HONZ特選本『コックリさんの父 中岡俊哉のオカルト人生』
ブームというものがいかにして形成され、いかにして終焉を迎えるのか。そのプロセスにおいては、ブームの大きさゆえに社会問題が起こり、誰か一人がスケープゴートにされていく。そして、いつしか姿かたちを変え、また似たようブームが再び舞い戻ってくる。このサイクルを繰り返している限り、ブームを文化にしていくことなど到底不可能なのである。
暑苦しい夏を、涼しく感じさせるのが『恐怖』だった。
恐怖を感じさせるのは、霊や霊が起こす現象で、それは暗がりに潜んでいた。
そんな子供時代を過ごし、大人になったらいつの間にか忘れていた。
霊や霊が起こす現象なんて存在しないと気付いたからだろうか。
あるいは、霊より怖いのが人間だと気付いたからだろうか。
何に恐怖を感じるかには国民性や民族性の違いがあると、映画を見比べると感じる。
洋画の恐怖の源泉は「理不尽」
邦画における恐怖の源泉は「因果」
欧米的個人主義と日本的ムラ社会の差が見られるような気がしないでもないです。
あくまで私の個人の感想ですが
恐怖の対象」が、アメリカだと人間の姿から少しかけ離れたもの(ゾンビだとかモンスターだとか)であり、日本では「限りなく生存者に近い姿のもの」です。
神道での「罰当たり」「たたり」
仏教での「因縁」「輪廻」
に関係したことが多いのは当然ともいえると思います。
何か超自然的なものへの「触らぬ神へのたたり」の恐怖→化け物系
過去世の因縁からの「恨み・怨恨」の恐怖 →幽霊系
が日本での恐怖だと考えます。
洋画の恐怖は実在する何かが迫ってくる恐怖であり、その実在感をどう演出するかが映画の出来不出来に影響を与えるが、その恐怖の対象は自分の外側に存在する。
これに対し邦画では、恐怖の対象が最終的には心の中という自分の内側に存在するということが多そうだ。
昔、コックリさんをやった時、確かに10円玉は自然に動いていたが、これは自己暗示や筋肉疲労が影響し、潜在意識に従ったという説が有力なので、やはり根本は自分の内側にありそうだが、一人でやってるわけではないので不思議は残る。
ところで、邦画の恐怖が成立するための重要な要素として「ことば」があるような気がする。
脚本の大元は怪談で、落語家や講談師によって伝えられている。
「ことば」に映像を連想させる力が要求される。
作品を楽しむことに最も必要な能力は、ことばから絵を紡ぐ力です。
そこに並んだ文字のかたまりから頭の中に絵を浮かばせる。
僕はこれが読解力であると思っています。
「文字を読む」ことと「文章を読む」ことは明確に違うのです。
文字を読むとは、そこにある言葉を追いかけること。
主語と述語をしっかりととって、そこに書かれていることばを記号として受け止める行為です。
極端な話、理解などできていなくても「読む」ことはできます。
それに対して文章を読むとは、言葉から相手の言いたい事を汲み取る作業です。
それが小説ならば頭に絵を浮かべることまでが求められるし、論説文であるならば筆者の主張をしっかりとつかむ必要があります。
最近の夏に怪談が少なくなってきたのは、ことばが質的に変化し始めているからかもしれない。
速読を奨める文化が定着してるが、これが「文字を読む」だけで終わらせることに繋がってるかもしれない。
だから読んだ人が絵を紡げない。
絵を紡げないと心にアピールできない。
だから、怪談が成立しづらいのかもしれない。
読みながら、頭に絵が浮かぶと、読むことを忘れ、意識が絵の世界観に連れて行かれることがある。
そして、紡がれた絵が、新たなことばを紡ぎ出す。
こんな時、速読なんてできない。
速読できる時は、絵が浮かんでないだろう、それは中身が薄っぺらいからだ。
じっくり時間をかけて読み込むことこそが、豊かな世界を広げるかもしれない。