クローズドのサーキットのような周回コースでレースを行う場合、そのコースで安全にレースが成立する程度に参加台数の制限に関する規定がある。
レースには、本戦の前に予選があり、エントリー台数が多い場合、予選の成績で足切りされるし、その成績で本戦のスタート位置が決定されるので、予選の成績が良いほうが本戦でも有利になるが、その有利さは絶対的ではない。
レースが中盤を過ぎると、先頭が最後尾を抜くことがある。
この追い抜く瞬間だけを、レースに興味のない人が見たら、トップ争いをしてるように見えるのだろう。
このレースに参加台数の制限が無ければどうなるだろうか?
レースの世界だと成立しない競争を、人間は日常生活の中で行っている。
やる気満々で参加してる人がいる一方で、参加してるつもりが全くない人も一緒に競争しているのだ、いやさせられてると言ったほうが当てはまるかもしれない。
そんな人間が行う競争は、スタートがどこなのかもわからなければ、当然ゴールがどこかもわからない。
予選は、前世の因縁だろうか?
こんな時、人は悩む。
現代人だけが直面してる課題ではない、昔からあるのだ。
そんな時、らせん階段が出てくることが多いようだ。
イギリスの哲学者で政治家のフランシス・ベーコンのことばだ。
今いる所の真上に高く登るためには、自分の足で一歩一歩登る、らせん階段状がいいのでしょう
幸せのヒント 「らせん状に進歩していく」
上記のサイトには、らせん階段と人生を結びつけた先人のことばがいくつか紹介されている。
クローズドコースでのレースだと、先頭と最後尾が接点を持つが、らせん階段だと接点はない。
らせん階段でイメージするよりも、コイルの方がイメージしやすそうなので画像を引用すると。
様々な形状があるが、中心があることがわかる。
らせん状に展開する様々な人生は見えるが、その中心軸を意識することはあまりない。
私自身、これを書いていて初めて気付いた。
人生の場合、この中心軸は何なのだろうか?
らせんの上を歩むスピードは人それぞれ違うが、ある瞬間を切り取れば、高さは違うが似た景色が見えていることが想像できる、こういう時は共感し合えるのではないだろうか。
見えるから気付くことと見えないから気付かないことがある。
ゴミや公害は、目の前にあれば気付くし、気付けば、何とかしなければと思う。
しかし、ゴミ収集車が回収したゴミがどうなってるかを知ってる人はほとんどいない。
同じ時代に同じように生きてるつもりでも、全く違う反応をしてしまう。
コメントをしてくる人は、大体4種類
- 最後まで記事を読んで、意見を言う人
- 単語のみでキレてコメントしてくる人
- 話の論点がズレてる人
- そもそも見てない人
そして、数で言うと、コメントしない人の方が圧倒的に多い。
現代の脳科学によると、私たちの脳は、因果関係がわからないことから来る不安を避けるように働くらしい。
だから、辻褄を合わせたがる。
しかし、合わせたつもりの辻褄がすぐに合わなくなることが増えてるような気がする、辻褄がすぐに合わなくなる人の多くが渡ってるらせん階段は、凄く半径が小さい状態なのかもしれない。
だとすれば、変化は急激に訪れるだろう。
どの瞬間で考えても、「今の社会」は既に時代遅れになりつつあるので、「今の社会から拒否されてる人」はとても幸運。「今の社会」に受け入れられてしまうと、自分で変わる力のない人は全員、数十年後には時代遅れになる。だから優柔不断な人ほど「今の社会」から拒否されたほうが生き残りやすくなる。
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2017年9月25日
21世紀は「人・物・金」から「人・人・人」へ–大前研一氏が「もはやお金は経営に必須ではない」とビジネスの変化を語る
世の中には「仕事のない能力ある人」があふれている
ピンチとチャンスは紙一重だから、変化に備えて準備する必要がある。
準備してない人が逃すチャンスは大きなものになる予感がする。
<以下余談>
らせん状に動くと捉えた場合は、登る方向に動くだけのように感じる。
らせんを下に向かったり、飛び降りるという選択肢は、話がややこしくなるからとりあえず無しにする。
古来、世界には宗教的に生まれ変わりややり直しが『教え』として存在する。
これは、らせん階段の上と下が繋がることの様にも感じるが、大きく3つある。
世界の生まれ変わりの思想は多様であるため、本記事でまとめて論じるために、竹倉史人の分類を援用する。竹倉は生まれ変わりの理念型を次のように分類している。
転生型=循環
輪廻型=流転
リインカーネーション型=成長