サバイバルが流行っているように感じる。
流行ってるとまでは言えなくても、意識する人が増えているような気がする。
地震や大災害を目の当たりにすると、公共のインフラが機能しない時にどう乗り切るかと考えるとサバイバル能力が必要だなと感じる。
しかし、実際にはそれに向けて行動したりはしない、時々思い出しては忘れの繰り返しばかりを繰り返してる。
直接のサバイバル能力とは、
- 正しい知識
- 必要な道具を作れる
- 体力と行動力
- 運(必要な場所や材料を見つけられると言う意味で)
などが思い浮かぶ。
こういう一連の能力を身につければ、何があっても生きていけるだろうなと思えるだろうから、日常の不安の多くが解消するような気がするなと感じながら思いついたことを書いてみたい。
サバイバル能力が究極に高まると、一人で生きることが可能になる。
そう考えて、改めて気付いたのが、我々が生きていく上で大前提の考えが『人は一人では生きられない』ということにだ。
一人ではできることが限られてるから他の人と協力しなければいけない。
大昔だったら、この協力は明確な役割分担の上に成立し、誰が何の役に立ってるかがはっきり見えていただろう。
一人では困難なサバイバルを、集団で行っているという意識があったかもしれない。
良い悪いは別にして、「ムラ社会」なんていうのはそういうサバイバルの中から生まれた集団の知恵だったかもしれない。
そして時が流れ、我々が仕事と称してやっていることは”誰のために”、”何のために”を考えるとすごく曖昧なものになっているような気がする。
誰のためには、お金を払う人のためにとなり、何のためには、お金を手に入れるためになっている。
歴史を遡ると、お金という仕組みができたからお金至上主義になったわけではない。
お金の世界に”金利”という概念が導入され、お金は増殖するものだと認識されてからだ。
その時期は、聖書の時代に遡り、金利や利息は悪徳であるとされたから、宗教的な、哲学的な課題となるが、貨幣経済の浸透が徐々になし崩しにしていった。
英語で金利は”interest”で、一般的には「興味、関心」を意味するのが面白い。
金利を享受するのが一部の人の時代には、集団の秩序が最優先され、群れのルールに従ってサバイバルしていたが、この流れは長期間続き、現代社会の主要なインフラの基礎となるものは、集団の秩序を最優先したから作れたと言えるだろう。
そして、現代に至ると金利だけでなく、個人の「興味、関心」の追求が盛んになると、集団の秩序は形だけになり、実際には法律が秩序を支えるようになるが、実行部隊は警察、検察、裁判となり、集団としての一体感や連帯感は感じられなくなる。
多くの人にとってサバイバルは、国や自治体など役所がやることで、実行部隊は警察、消防、自衛隊だと思っているかもしれない。
岡本信人さんという野草取りの名人で有名になった俳優がいる。
バラエティ番組で見た人も多いだろうし、彼が野草を取って食べる姿は笑いを誘うが、私はその食べれる野草と調理法に対する知識にサバイバルを感じ、自分を含め現代人に欠けてる能力だと理解させられた。
同じくバラエティ番組の「0円生活」も笑い話としてテレビで見てるが、立派なサバイバルだ。
サバイバルではないが、自らの手で行うという意味で感心するのが「鉄腕ダッシュ」。
持続可能性(sustainability)という言葉が、地球環境を守るという意味で、地球にも限界があるという意味で用いられている。
昨日の衆議院選挙の結果を見ていて、小さな単位での生活(家族や個人や仲間など)を守るための保険として、サバイバル能力を高め、最小限の装備で自給自足できる知識と能力を高めたほうが良いかもしれないと感じた。