日本で生まれ日本で生活するネイティブの日本人には当り前すぎるが、世界に目を向けると決して当り前では無さそうなのが、はっきりとした四季があること。
四季があることが、日本人のメンタルに影響を与えてるとしても、日本人には気づきにくいかもしれない。
人生を季節に例えるような話をする場合、やっぱり始まりは春からになる。
人生には悩みが付きものだが、日本人は悩みも無意識に四季になぞらえる。
無垢な若葉や新芽が幼児や子供を感じさせるとともに、大人でも新スタートを切る場合にはイメージは春になる。
春の悩みは、何も知らないことに対して起こる。
友達できるかな?
勉強や仕事はついて行けるかな?
期待と不安が入り混じった悩みが多そうだ。
夏は、暑くて日差しも強く快適とは程遠いのに、なぜか”もっともっと”を求める季節だ。
夏の悩みは、強気になり”もっと”できそうな気がすることで起こる。
もっと実力を付けて上に行きたい!
もっと高い点数を取りたい!
もっともてたい(評価されたい)!
競争を好んだり、自分の世界にのめり込んだり、信じるものを疑わない気持ちが行動を駆り立てることが悩みになるが、夏の悩みは自覚があるかないかは別にして目標となることもある。
常に枯渇感があるのに、居心地は悪くなかったりもするが、友達がライバル化する時期でもある。
秋は、暑さと日差しが弱まり、快適さは増すが、昼間が短くなり、徐々に寒さを感じるようになるが、夏に求めていた”もっと”の充実を感じられる様になるとともに、信じるものを疑わない気持ちに疑心暗鬼が忍び寄る季節でもある。
秋の悩みは、不安が元で起こる。
このままで良いんだろうか?
狙っていたところに到達できてるのだろうか?
もっと寒くなったらどうなるんだろう?
寒さへの備えは充分だろうか?
ライバルが敵になるが、人恋しさも芽生えだす。
春、夏、秋、ここまでは実際の季節の持ち味になぞらえるように表現したが冬だけは少し違う表現をしたい。
その理由は、冬は植物や木が枯れることが死を連想させるが、冬の意味は春になれば枯れた木も新芽を出すということにあるような気がするからだ。
冬は寒く閉塞感があるが、だから家族が身を寄せ合い、春に備えて準備する、準備は春夏秋で貯まった疲れや不具合を解消し回復することにある。
冬の悩みは春に備えての準備を巡って起きる。
反省点はどこにあるのだろう?
新しい目標をどうしよう?
最大の敵が寒さだとわかると、敵やライバルも皆協力し合う仲間だと気付く。
浅い考えでほんの一例を上げただけだが、もっとたくさんイメージできることはあるだろう。
言いたいことはここからで、四季の存在を当り前に感じていると、無意識に、変化や大きな出来事が生じたときの背景やその意味をを4つに分類してるかもしれないということだ。
問題点を解決するために、四季になぞらえられるようなプロセスを当てはめているかもしれない。
この4つのリズムを意識すると、着実な進歩を目指せるが定型化したルーティンワークになりがちで、やがて結果が出るまで時間が掛かり過ぎと評価されるようになるが、究極的には様式美に上り詰め、芸術の域に達する。
なんのことはない、今の日本の特徴そのものだ。
ネイティブの日本人には四季のリズム感が文化として宿っている。
四季は世界どこでもあるのだが、それぞれの季節に気候風土的な特徴が際立って出るのが日本の四季の特徴で、実際の気候は違ってる沖縄や北海道の人を含めて共通認識を持ってるはずだ。
日本型のビジネスが、スピード感がないと言われ、意思決定が遅いと言われるが、この遅さは四季のリズムに由来するのではないだろうか。
ついでに言うと、春(4月)を起点に1年が始まるという文化が遅さの原因かもしれない。
グローバルビジネスには四季は全く関係ないから、日本人の良さを発揮することができない。
日本のグローバル化を妨げ、世界に通用しなくさせてる大元が、4月起点で始まる四季の文化かもしれない。
今更グローバル化に活路が見出だせるとは思わないので、この四季のリズムが織りなす文化をジャマモノ扱いする必要はない。
大事なことは、『この四季のリズムは武器にならないのだろうか?』ということに答えを見つけることかもしれない。
季節としての四季ではなく、日本人のメンタルに宿ってる四季文化や四季リズムを武器に出来れば、圧倒的に有利な闘いを楽に展開することができそうな気がする。