広告を見ていると、ターゲットを読む癖がある。癖、というよりは半ば仕事だ。ことにTVCMはタレントや音楽などの情報量も多く、良くも悪くも「マス」を狙っているために、戦略が見えやすい。
TVCMは直接ターゲットにリーチすることを目指すわかりやすさがある。
ターゲットとして狙われるのは、
- お金を持ってる人
- その商品の属性とリンクする人
直接エンドユーザーにターゲットを設定しているというわかりやすさが必要になる。
食べ物やお菓子だったら、美味しそうに見え、少し新しさを感じさせるような要素を盛り込みながら。
以前は直接危機感を煽るようなCMが多かった気がする薬のCMでも、わかりやすさは重要になってるようで、そのわかりやすさは「あなたの悩みはこれではありませんか?」と優しく寄り添うように危機感を煽るようになっている。
そこでは、悩んでいるのは自分だけではないんだと思わせる工夫が為されている。
あるいは、ノスタルジーにアピールするように演出されたり。
これらは、直接のターゲット以外にも間接的に影響を与えることがある。
ノスタルジーを掻き立てるように作られた映画"三丁目の夕日"を見た平成生まれの子供の中には昭和の体験がないにも関わらず、「なんだか懐かしいね」と反応する子がいたらしい。
冒頭で引用した記事では、バブル時代を謳歌した世代をターゲットにしたCMを茶化しているのだが、違う世代には違うメッセージになっているはずだ。
マネー系の雑誌というのがある、投資ジャンルから家計の無駄の見直しまで幅広く取り扱うが、この手の雑誌を見るたびに、「お金は気になるかもしれないがこの雑誌で何が解決するのだろうか?」と感じる人は多いだろう。
これらの雑誌は、意識高いエンドユーザーに見て欲しいということの他に、金融機関で働く営業系の職員の情報源や客先での営業ツールとして使う参考書としての役割もある。
掲載されてる内容に大した違いはなくても、常に新しい情報であることをアピールするためには新しい号の雑誌を持っておく必要がある。
銀行、保険、証券の営業に携わる人の数は50万人とも言われてる、だから出版不況のなかでも、見えないところで一定の需要がある。
お客としてのターゲットを考えていると、自然と商売敵となるライバルの存在に思いが行く。
携帯電話の普及が顕在化させたのは、ライバルは同じフィールドにはいないという現象だった。
不景気も追い打ちをかけ、可処分所得の奪い合いになっている。
奪い合いが起きるところにはトレードオフが生じる。
お金のトレードオフだけではなく、生き方のトレードオフも起き出している。
『便利、役に立つ、効率的(生産性が高い)』という価値観は、少数派と多数派という二極分化を生み出した。
少数派が果実を独占するようになっている。
しかし、可処分所得の奪い合い合戦の結果生じたことだから、これ自体は悪いことではない。
『便利、役に立つ、効率的(生産性が高い)』という価値観に適応した結果、トレードオフとして失っていったのが人間には心と体があるという当り前のことかもしれない。
鬱に代表される精神疾患、成人病に代表される現代病は、人間が体を使うよりも機械に任せるほうが早くて確実で効率が良いという、間違っているとは思えないことに、そもそもの原因があるのかもしれない。
この30年位は、テクノロジーの発達のトレードオフとして、社会の裏側で大きな変化が2つあった。
その一つは、人間が持つその身体性を蔑ろにしてきたのかもしれないということ。
思えば、子供の頃から目標の設定は自分のためではなかったような気がする。
親や先生が喜ぶことを、自分の喜びだと勘違いし、社会人になるとお金を得ることを目標にする。
全部幸せになるために必要だと思ったからだし、大人になるとはそういうことだと思っていた。
自分のためでない生き方を続けるうちに、自分自身を大事にしなくなった。
自分の心と体に向き合わない生き方をするようになっていた。
結果だけを求めて、結果を目的にする生き方が身についたことのトレードオフのせいだろう。
怖いのは、そんなつもりがなくやってるということにある。
もう1つは、知らないうちに入り口が閉じられるようになったということだ。
そのことをうまく表現しているツイートがあった。
昔はテレビ局のゲート緩かったから有象無象のいろんな芸能関係者が制作部屋にふらっときて芸能人の情報交換できた。アポがないと中に入れなくなると元々知ってる人か入構証を持ってる大手しかやってこなくなる。テレビ出演者の寡占化が進んでるのって実はビルのセキュリティが厳しくなったからかも。
— 角田陽一郎/KakutaYoichiro (@kakuichi41) 2017年12月12日
コミュニケーションの基本は人間同士が対面することにあるが、その対面の場が知らず知らずのうちに減っていたのだ。
減っていく時期をリアルタイムで経験していたが、このツイートを見るまでこの感覚を忘れていた。
コミュニケーションの入り口が狭められ、しかも事前のアポイントが必要になったのは、広い意味でのセキュリティ意識だろう。
不都合を排除するというごく当り前の行動だが、当然トレードオフを生じる。
今思い返しても不思議だが、セキュリティが厳しいビルにオフィスを構えるビジネスパーソンはなぜか忙しい人になっていった。
セキュリティが厳しい会社は、外部の人に厳しいだけでなく、内部にも厳しい目を向けだしていた。
セキュリティは、イタチごっこなので、一つ厳しくすると次から次になる。
人の出入りをチェックしだしたら、次は情報の出入りのチェックに移る。
情報はピンキリなので対応も次から次になる。
この結果、心も体も疲弊する。
心と体をバランス良く使わない生き方を続けて疲れ切ってしまうと、ますます体を動かさなくなる。
体を動かさないことで更に疲れていく。
この30年位の間に働く人は大きく疲れるようになってきた。
街を歩けばそこかしこでマッサージ店の看板を目にすることは、世間に疲れてる人が多いことを示しているのだろうし、『癒やし』という言葉が定着したことも疲れてる人が多いからだろう。
しかし、この流れは今変わりつつある。
疲れるのは、疲れ方が悪いからという考えが広まりだしている。
そのために、目的に向かう生き方を選択する人が増えている。
まだビジネス面では、自分の目的を強く主張できる人は一部かも知れないが、私生活では気兼ねすること無くできる。
テクノロジーの発達を求めることは相変わらず続くだろうが、人間が体を使うことに注目し始めている。
キッカケは、健康を意識してかも知れない、それは健康であることが特別なことになりつつあるからということを示しているかもしれない。
今はまだ流行にも見えるが、男性だけでなく女性も筋トレしたりしている、美容やダイエットに留まらずストイックな取り組みをする人が増えている。
街なかにジムが増えている。
参加型のスポーツイベントが増えている。
競ってはいるが、その相手は他人ではなく自分自身になっている。
拘るのは目標を達成することであり、着実な進歩の実感を得るためだ。
着実な進歩を実感させる疲れは、人を心地よくする。