正反対の価値観が脚光を浴びることがある。
その昔、気の利いたビジネスマンがマイノートPC を使い始めた頃、そのビジネススタイルはカッコよく多くの人が徐々に真似し始めていったのが90年台半ばだった。
そしてビジネスの場でマイPCでプレゼンを行うことが珍しくなくなると、如何にビジュアルに拘ったプレゼンができるかを競い合うようになって行った。
このプロセスは、そんなつもりがあるわけではないが、どうすれば相手にわかりやすく伝わるかという視点を欠落させていき、独りよがりなプレゼンになることもあった。
だからだろうか、営業成績が良い人の中には、資料はすべて手書きという人がいた、印字された資料での営業をPC営業と呼び、手書き資料を使うことを紙芝居営業と呼んだりしていた。
手書きの紙芝居プレゼンが支持されたのは、お客にとって手書きの資料は自分だけのために作られたことが伝わるからだという事実があり、PCが普及すると手書きで資料を作るという手間暇が障害になり、簡単に真似することができなかったという背景もあった。
このような紙芝居営業を支持したのは年配の経営者が多かった。
しかし、21世紀に入るとビジネスの場から手書きが大幅に減少し、手書きを評価することも減っていった。
学生は手書き中心だろうが、現代ビジネスの場では手書きが減ってしまった。
手書きが減ったことが、思考や学習に見えない変化を及ぼしていたのかもしれないということを示唆する話が最近増えている。
講義中の「パソコン」が学習効率を下げるワケ
紙とペンのほうが効率アップという結果も
The New York Times 2017年12月12日
講義の理解度をテストで調べたところ、ノートパソコンを使った学生の成績は紙とペンを使った学生よりかなり悪かったという。
手書きでノートを取る学生は授業に置いていかれないように話の内容を処理して要約する必要がある。ノートパソコンを使った学生のノートは、講義の要約というよりは講義録だった。手書きの学生のノートは簡潔だったが、講義で話された重要な事項はちゃんと含まれていた。
講義中にPCを使うというのは、教師を不愉快にさせるという話はよく聞くが、使ってる生徒にも悪影響を及ぼしてるようだ。
同様な話を、記者会見での記者の姿に感じるという話もよく聞く。
タイピングに夢中な記者は、話し手の目を見ることがないので、話し手には虚しい時間に感じるらしい、そして多くの場合で取材してる記者自身が、タイピングしたものを読まないと何が語られたか覚えてないだろう。
聞いて理解することと手で書くことは連動するが、聞いたことをタイピングしても理解を深めるためには別の学習が必要になるだろう。
理解の仕方に差があるということは、考え方の差につながっていく。
スピード勝負の時代に京大式「深く考える」が重要な理由
1/8(月)
◆DEEP THINKINGの極意
◇深く考えることは、プロセスをたどる営み
◆なぜ「鉛筆で記す人」は「できる人」っぽいのか?
◇物との約束に実感は宿る
◆「わかりやすい説明」に数字はいらない
◇数字を使うと説得力が弱まることも?
◆プロセスと経験にまつわるDEEP THINKING
◇プロセス自体がユニークさを生み出す秘訣
次の3つの視点を重視するという。
1つ目は「現在地」を見ることである。プロセスをセルフチェックする際、今何をしていて、今わからないことは何かを明らかにすることで、思考のステップを冷静に振り返ることができる。
2つ目は「プチゴール」を見ることだ。最終目標にたどり着くまでに、「必ず達成しないといけない」という小さな目標がある。それをサクッとクリアできるかどうかで、現在取り組んでいるタスクへの本気度や習熟具合を評価できる。
そして3つ目は、自分がやりたくてやっているかという「実感」を見ることである。一生懸命取り組んでいるという感覚があれば、そのプロセスは質が高い場合が多い。「やりたくてやっているか」を自分の心に問うことで、自分の本心がわかるはずだ。
日本というのは不思議な国で、「本音と建前」のような相反する話がビジネスのような割り切った場でも生じることがある。
型や様式を重んじるあまり、”コンセプト”と”体裁”が対立し、事が進まないということが起きる、それもかなり頻繁に。
個人では超優秀な日本人が、企業体になるとなぜ世界に負けるのか;日本企業の極めて低い生産性の背景に何があるのか 2018年の日本経済を読む
日本人もドイツ人も、考えることはほとんど大差はない。だが、ドイツ人は成果を出すまで最後までやり遂げる、という点が違う。ドイツ人は理論どおりにやれば、理論どおりの成果が出る筈だと「真面目」「愚直」に実行し、そして理論どおりの成果を出している。一方、日本人は、「確かにそれが正論かもしれないが現実には難しい」という意見が「現実をわかっているやつだ」と評価されて会議を通ったり、新しいプロジェクトには熱心だが、一旦プロジェクトが開始すると多くの人が関心を無くしてうやむやになり、やがて次の新しいプロジェクトに熱中するという現象がよく見られる。
似たようなことが音楽の世界でも起きているという指摘がある。
サウンドやアレンジにはそれなりに勉強して手の込んだ雰囲気があるけれども、肝心の素材が著しく劣化している。基本の味付けを知らないのに、エスニック料理に手を出してしまったような不味さ。しかし当人たちに自覚がない様子からして、音楽における味覚障害のようなことが起きているのかもしれません。
そこで、桑田佳祐がNHK朝ドラ『ひよっこ』の寸劇で「涙くんさよなら」(作詞・作曲:浜口庫之助、1965年)を歌った意味を改めて考えてみたいと思います。
浜口庫之助の著書『ハマクラの音楽いろいろ』(1991年朝日新聞社刊 2016年立東舎文庫より復刊)で、27年も前から警鐘が鳴らされていたからなのです。
<たとえば、詩を左手、曲を右手として、両手を打ち合わせると「パン」と音がする。その音が歌なのだ。左手でも右手でもない。まして片方だけでは歌にはならない。>(p.76)
そして浜口氏はこの「パン」が失われつつあると感じ、こう指摘していたわけです。
<いまの若者たちは、リズム感が非常に発達していると、一般にはいわれているが、音楽的見地に立つと、僕は必ずしも、そうは思わない。進歩しているのは楽器ばかりだ。(中略)
とくに日本語の音韻とか、音感とかを、正しく把握せず、言葉を無視して作っているから、いい音が出ない。変調をわざと狙っているのだという人もいるが、僕にいわせれば、まだ未熟だということだ。>(p.75)
今の日本には、型や様式を重視してる人と、コンセプトを重視してる人の2種類に分かれているように感じる。
もちろん、どちらかに寄っているのではなく、この2つの要素がグラデーションを描いているのだが、問題はコンセプトが曖昧になってしまうことにある。
インターネットの普及は、日本にもコンセプトを掲げたら迷わないで行動できる人種を生み出した。
そしてそういう人達は、インフルエンサーとして一定の支持を得ている。
田端信太郎氏が語る、スマホ全盛期の今、マーケターが持つべきユーザー接点の考え方 —田端信太郎さん
マーケティングって、オーケストラみたいなところがあるなと僕は思うんです。
オーケストラの指揮者って、バイオリンを弾かせたらバイオリニストよりうまいわけではない。でも、世界の有名の楽団でも指揮者が「こうじゃないといけない」とか、「もう少しゆっくり弾け」とか楽団のプロの演奏者に指示する。
マーケティングとは何かっていうことをビジネス的に考えるのもいいけど、僕はマーケティングってもっと下世話なものだと思っていて。欲望を扱うものだと思うんです。
上記を踏まえてのツイートが下記だ。
リンクの講演でも散々語った例だが、日本の旅行業界従事者は、構造的に低賃金なせいか、旅行サービスの消費者としてのリテラシーが低すぎる。チョコレートを食べたことないアフリカの貧しいカカオ農家と一緒だよ。消費者として一流でないと供給者として絶対に一流になれない。https://t.co/oOVWpFvczg https://t.co/TAJ6GvDtpY
— 田端 信太郎 (@tabbata) 2018年1月7日
産業構造に搾取的な要素は付き物で、グローバル化はそれを拡大させたので、このツイートほど断定的には思わないが、手書きが減ったことが真の理解を妨げるのに似たことが世の中のあちこちで起きているのかもしれない。
似ているけど違う、どうでもいい程度にしか違わない、しかしそこには違いがある、そういう違いを求めてる人を相手にしようとする時に、その違いがわからないのは致命的な弱点になる。
違いが分かるということは大きな武器になるだろう。