2018年、「権力の時代は終わった」と認識することから始めたい
この大きな政府や大企業という仕組みが、戦争が終わってからも高度経済成長を成し遂げるために有利に働いたというのは、経済学者の野口悠紀雄さんが「1940年体制 ―さらば戦時経済」という名著で書いている。でも高度成長はとっくに終わり、総力戦が起きないかぎりはもはや強大なパワーの集中は必要なくなった。そして実際、「権力の終焉」に書かれているようにパワーは分散する方向に進んでいるし、米NICが指摘しているように、未来はますますパワーが分散する世界になる。
ここに書かれてるような大きな政府や大企業が有利に振る舞える時代には、多くの人が参加し関わるイベントや儀式が支持される。
共通の体験が連帯や共感を呼びやすくなり、付加価値が共有されなすくなり、高付加価値化を促す。
その付加価値が、ブランドのレベルまで高まるとブランド価値を担保する仕組みや世間の目が出来上がる。
その一方で、充分にブランド化できてないのにブランドであるかのように振る舞うために『伝統』というスパイスをまぶしたイベントや儀式が仕掛けられる事が多い。
日本の成人式は、奈良時代の元服に由来すると言われることもあるが、ウィキペディアでは成人式を下記のように説明してる。
日本における今日の形態の成人式は、第二次世界大戦の敗戦間もない1946年(昭和21年)11月22日、埼玉県北足立郡蕨町(現:蕨市)において実施された「青年祭」がルーツとなっている。敗戦により虚脱の状態にあった当時、次代を担う青年達に明るい希望を持たせ励ますため、当時の埼玉県蕨町青年団長高橋庄次郎(のち蕨市長)が主唱者となり青年祭を企画、会場となった蕨第一国民学校(現:蕨市立蕨北小学校)の校庭にテントを張り、青年祭のプログラムとして行われた。この「成年式」が全国に広まり現在の成人式となった。
伝統と呼ぶには?が付くし、そもそも元はローカルイベントだったのだ。
要するに、「成人式の晴れ着」は、バレンタインデーやクリスマスケーキが、菓子屋のマーケティングであるのとまったく同じ構造ということだ。
「とくダネ!」のキャスター・小倉智昭氏が今回の騒動を受けて、「これを機に成人式で着飾ったりするのをやめたほうがいい」と提案したら、飛躍しすぎだとネットで叩かれた。
だが、実はこれは着物文化を守るという意味では、悪くない提案だ。先ほども申し上げたように、「着物」が衰退している最大の理由は、「ボッタクリ」ともいうべき高付加価値路線が行き着くところまで行ってしまい、葬式と同じように「セレモニー化」していることが大きい。
伝統や儀式がセレモニー化すると、深く考えず、流されるように行動するようになる。
オリンピックが平和の祭典と言われる所以を考えたことがあるだろうか?
オリンピックはなぜ始まったのかと言う問いに、ヨーロッパの人は「不毛な戦争を避けるための休戦のイベント」と答えるらしい。
そう考えると、今では平和ボケの象徴のように取り上げられる聖徳太子が言ったとされる「和をもって尊しとなす」は、実はすごく奥が深いのかもしれない。
多様化の時代と言われる一方で、多様化に反する動きも顕著で、大きなレベルでは宗教や民族に関して起き、小さなレベルでは個人の行動や発言の背景にあるリテラシーを巡ってもめ事が起きる。
日本人は宗教や民族の問題にあまり強くないのは、伝統的に多神教であることと、海に囲まれた島国に単一民族で生活してるからで、世界的に見ると珍しい国になるだろう。
一神教と多神教(八百万の神)の違いがもたらす多様性への寛容度は、日本にはあるだろうが、日本の場合、支持する宗教を持ってない層が最も多い。
単一民族と多民族の違いがもたらす多様性への寛容度に関しては、最近問題になってるヘイトスピーチはどちらにも見られる現象で、改めて考えると日本は比率の違いは大きくても多民族国家と言えるのかもしれない。
色んなことがガラパゴス化する背景にはこんな事情も関係してるかもしれない。
一神教は、単一の宗教を意味するだけでなく、似たようなものとして法治国家の法律を意味することもできるだろう。
法律を神と捉えるならば、多神教の場合は、法律以外に優先される別のルールや”しきたり”が存在することになり、まさに日本は多神教の国であることを感じる。
法治国家という概念が生まれたのは19世紀のドイツだが、世界的に定着したのは第二次世界大戦後として良いだろう。
宗教や民族という枠のもとに形成されるルールは1000年単位で人間の思考や行動に影響を与えたような気がするが、その拠り所が法律になり持続時間がどんどん短くなってるような印象がある。
法律の条文は変わらなくても、その解釈が時間の経過で変化することは合理的だと考えられてる。
また法律は行動を規定するが、心にはタッチしないので、想定外が発生する。
想定外の発生は、法律の”フロー化”を加速させる。
元々は簿記で用いる経済用語であったフローとストックは、お金やものの動きを示す指標だった。
フロー(英: Flow)とは、一定期間内に流れた量をいい、ストック(英: Stock)とは、ある一時点において貯蔵されている量をいう。
この「フローとストック」という考えが法律にも当てはまるようになってきた。
世間の実情に照らし合わせると、短い期間しか当てはまらない法律はフロー化し、世の中が変化しても当てはまる法律はストック化する。
「フローとストック」という区別が当てはまるということは、同一分野の中で極端に陳腐化が速くなるものと長く通用するものが混在するようになっているということを意味する。
現在では、人の心や情報が「フローとストック」の対象になっている。
心や情報の多くがタイムラインを流れるフローとして消費され陳腐化している、そしてごく一部がストック化し、時の流れに負けずに生き残る。
時の流れに負けず生き残るものとは、極めてパーソナルな心の有り様が関係する。
だから、ストックが共有できる人には強い親しみと共感が感じられるし、それは信頼感にも似てくるだろう。
フローの一致や共有は、敵ではなく味方に近い存在だという程度の確認に留まるだろう。
フェイクニュースのような嘘や詐欺に騙されないことも大事だが、同じ真実でも「フローとストック」という視点が大事になる。
大元の1次情報を引用加工する2次情報が生まれ、その2次情報を加工した3次情報と言うように、いじられるたびに情報としての純度を落とし、曲解されるような情報がある一方で、わかりづらい1次情報をわかりやすくする2次情報があり、その2次情報の活用法を教える3次情報と言うように捉えたら必ずしも悪いことではないことが分かる。
大事なことは、その情報がフローなのか、ストックなのかを見分けることだ。
タイムラインを流れるだけのフローに振り回されるよりも、自分にとってのストックが重要になる。
人間の本質は、フローではなくストックに表れる。
ストックは、非常に重要だが、極めてパーソナルなので、共有することが思った以上に難しいかもしれないが、生き方や考え方が多様化するとは、そういうことを受け入れるということかもしれない。
山下達郎は自身のラジオ番組で選曲の際しばしば「OLDIES BUT GOODIES」と言う、それがストックをうまく表していると思う。
そんな山下達郎のことばを文字起こししてる方がいたので引用して終わる。
オールディーズというのは、要するに古い曲がオールディーズです。
オールディーズ・バット・グッディーズ(OLDIES BUT GOODIES)、オールディーズ・バット・ゴールディーズ(Oldies But Goldies)と、古いけれどもいい曲。
そういう意味です。
60年代にそういう言葉が生まれて、昔の曲がかかるようになったという。
そういう事ですので、何年前だったらオールディーズなんていう事はありません。
萩原健太の名言で「発売されて翌日から、もうそれはオールディーズなんだ」っていうですね。
そういう萩原健太の定義がありますが。
決して大げさでは、ありません。
ただ私の場合は、一番多感な時期が1960年代でしたので。
その時に音楽を聴き始めて、私は特に古い音楽が好きでしたので。
ドゥーワップ代表とするロックンロールの世代ですね。
1950年代のロックンロールソング。
こっから始めましたので、だいたい専門は50年代、60年代、70年代の中期くらいまで、亘っております。
その前の40年代のジャズ、それから90年代以降のヒップホップ系、そういうものは専門ではございませんので、あまりかけません。
サンデーソングブック、私の番組は、基本的には5、6,7初めの、それくらいの三十数年分を網羅してやっております。
ので、古今東西、いろんな曲がかかります。
でもロックンロールが好きなのでアメリカン・ロックンロール、それからイギリスのロックンロール、日本のロックンロールを中心にやっております。
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