口は嘘つきだが、体は正直。
これは、非自律神経系がコントロールするものは間違った反応をするが、自律系神経系は正しい入力には正しく反応し、間違った入力には異常な反応をするということ。
手足は思ったように動かせるが、内臓は思いとは無関係に動くが、体としてはつながっている。
嫌なことをすることを、口は我慢や修行でやる価値があると、あるいは対価を得るためだと説くが、それを続けると納得してるつもりでも体や心がおかしくなる。
異常な反応が起きるということは、間違った入力が為されたということが1番可能性が高いのだが、それを認めないための理論武装をするのが人間という生き物だ。
生活(仕事や遊びや人間関係を含む)が、体や心に与える影響を正しく理解できなくなることが増えている。
こういう時に、自然と考えるのは”何が正しいのか?”、”何が間違ってるのか?”だ。
こういう時、日本人の多くが権威を持った人が発する知識や自己啓発を拠り所にする。
拠り所を権威や自己啓発に求める日本人の特徴の背景には、無宗教という生活スタイルが関係してるという説がある。
日本の宗教人口は平成26年の文化庁の調査によると、神道が約49%、仏教が約46%となっており、ほとんどの人が神道か仏教のいずれかを信仰していると答えているらしい。
八百万の神が存在すると言われてるのが神道の世界。
つまり何でも神様だし、神様はどこにでもいるというのが神道なのだ。
悪いことをすると、『お天道様に見られてる』と思うのは、日本人の美徳でもある。
しかしと言うか、だからと言うか、個人的な本音はと問われ、かつ匿名での回答が可能ならば、多くの人が無宗教と答えるのが今の日本だ。
本音では無宗教であったり、神様はどこにでもいると考える日本人には、”共通の宗教”と言う拠り所を持たないと言う大きな特徴がある。
このことが、日本人の権威好き、自己啓発好きの背景にあると言われてる。
権威や自己啓発に寄っていく心理の奥には、”得したい、お金を手に入れたい”という本音が透けて見える。
お金を稼ぐことが悪いと言いたくてしてる話ではない。
”得したい、お金が欲しい”という本音がターゲットにされている時代だと理解する必要があるという話だ。
欲しいのが、”ライフスタイル”である場合はお金は健全な消費に回り、それは自己実現への投資となる。
この考えは個人だけでなく、法人にも当てはまる。
グローバルに展開する資本主義や投資の世界では、お金は次の投資のために求めるものだ。
お金を稼ぐ場合、稼いだ金を次の投資に回す場合には、生活や生き方は大きくは変化しない。
収入も支出もすべてお金が流動化したという意味で、生きたお金の使い方がなされたと捉えるGDPでは、貯蓄だけが死んだ使い方と考える。
そんなGDPも将来の具体的な使途のための貯蓄はGDPにカウントする、例えば学費や住宅購入などがそれに該当する。
しかし、漠然とした不安や心配に備えてなされる蓄財をGDPは死財として考える。
私は、GDPが死財とみなす貯蓄を悪いとは全く思わないが、国も企業もそしてあらゆるビジネスがこの死財を狙っているのだ。
その手法に権威が用いられ、自己啓発的な論理展開が使われている。
権威が提唱したり、自己啓発がアピールすることは、全く間違ってるわけではないことが厄介になる。
ある部分だけを見ると成り立つのだが、全体を見渡すと成り立たないことが増えているというのは、”口は嘘つきだが体は正直”と共通する。
”あちらを立てればこちらが立たず”が起きることを、トレードオフと言うが、トレードオフが見えづらい繋がりや関係性がたくさんあるのだ。
中国で毛沢東の時代の1958年に行われた大躍進政策#四害駆除運動でコメを食べるスズメを害鳥とみなし大規模な駆除を行った結果、天敵のスズメがいなくなって害虫が大量発生し中国の農業が大打撃を受けるということがあった。
このように部分を見て対処したことが全体に悪影響を及ぼすことがある。
大自然だけに成立してる話ではないことが明らかになって来ている。
人間活動にも当てはまるであろう考えで、今すでに直面してるし、今後も無視できないであろう。
エコシステム(生態系)として捉えることが重要になっている。
これまで、全体を見ずに部分に特化することで発展してきた。
お金を基準とした場合、お金は本来仲介手段だった。
最初は、持ってるものや作ったものを等価で交換する際の仲介手段として世間に浸透していったが、その際のお金の機能の唯一の例外がお金を貸して利息を取るという等価ではない交換行為で、これは道徳上の問題として宗教家の議論の対象となりながらも認められ、権威と一体化し銀行になっていった。
金を貸し利息を受け取るというビジネスは、高いモラルが求められることと貸す相手を見抜く目を持つ必要があるため一定のハードルが課されていたが、もともとは縁の下の力持ち的存在であった。
やがて、金を貸し利息を受け取るというビジネスモデルは、手っ取り早く儲ける方法として注目を集めるようになるが、人に貸すと言うのはハードルが高いので、投資と言われる世界に注目が向かうようになった。
投資も昔は、事業という人間活動を対象とすることを考えると、人を見る目が大事だったのだが、いつの頃からか、人を見る目よりも運やタイミングの良し悪しの問題と捉える方が主流になって行き、今がある。
そんな現在の資本主義は”株主資本主義”と呼ばれていてアメリカで20世紀の終わりに生まれた考え方だ。
日本では21世紀の初頭に入ってきて、表舞台で認知されたのがホリエモンや村上世彰が話題の中心になり、連日ワイドショーに追いかけられてた頃だろう。
この時、ホリエモンや村上世彰には賛否両論あったが、大きな争点になっていたことは、反発する人は感情的に反応していたが、賛成する人は彼らの行動が合法であるから支持していた。
この頃のことは私も覚えているが、うまいことやりやがってという若干の反発と彼らのキャラが感じさせる不快感がありながらも、合法であるという点では賢さが勝っていたということで、そこには爽快感を感じていた。
表立って言われないが、ホリエモンや村上世彰が台頭した背景には巧妙な外圧としての仕掛けがあったのだ。
欧米ではグローバル化した取引を行う場合、決算書が異なる会計基準で処理されていると取引企業の実態が把握しづらいということで国際会計基準を設定しだした。
そして、取引相手企業に取引条件として国際会計基準の採用を求めるようになった。
貿易国日本がこの波に抗うことはできないので、海外取引をする大企業は軒並み会計基準を変更した。
国際会計基準とはざっくり一言で言うと、キャッシュを重視することだ。
このキャッシュ重視と株主重視が、配当重視へのシフトと、経営に口出しする株主の増加を招いた。
株主が強くなったことで、企業は時間を掛けずに成果を上げることを求められる。
研究開発や社内教育や社員育成と言った分野がドンドン蔑ろにされる。
これらが全て日本ではブラック化に関係してるのは言うまでもない。
その流れが加速させたことが2つある。
- 人材派遣業や転職仲介業
- M&A
社員に即戦力を期待するので、新卒よりも経験者のほうが良いという判断が働くが、人材の側の問題よりも派遣する側や仲介する側の問題の方が大きいような気がするのは、搾取ビジネスに常につきまとう先入観がうみだす。
また、研究開発に時間が掛けられないことも同様に、必要な技術は内部で作るよりも外から買った方が株主から余計なツッコミを受けないので、結果M&Aが多くなる。
M&Aを後押ししたのが、国際会計基準に移行すれば”のれん代”の償却が必要なくなるということもあり、M&Aをするために会計基準を変更する企業も増えたらしい。
意欲と野心のある研究者のモチベーションはM&Aしてもらえるような技術の実用化に躍起になるだろうが、研究の場は大学や中小企業になり、時間以上に費用の制約が付きまとい、ジレンマは解消しない。
人々のマインドが変わったから変化が起きたというよりも、規則や法律が変えられたので、それに合わせて変化が進んだだけなのだ。
国際会計基準が導入される前には、ISOなど現場を混乱させるだけの制度も鳴り物入りで導入されていたことを思い出した。
『金と法律が全てを牛耳っている』これが今の日本だが、それが行き詰まっている。
そして、金に金を生ませる株主資本主義も行き詰まっている。
気付かないうちに毒が迫り、気付いたら既に毒されてる。
最近話題になっている”「公益」資本主義 (著)原 丈人”について書いてみようと思ったが、思うことが多すぎて、自分の考えを整理する意味で前置きとして最近の風潮を整理してみた。
次は、「公益」資本主義について踏み込んでみたい。