店頭での買い物やネット通販を利用したり、私たちは特に疑問を持たずに取引をするが、改めて考えると実に高度なことをしてるということがわかる。
以下少々くどい気もするが原則論を語ると、
”商品に付けられた値段と同額のお金”と”商品”を交換することで売買取引は成立するが、売り手が商品に付ける値段は売り手が考える最低基準より高い金額を設定し、最低基準以下で売ることは基本無い。
一方買い手は、自分が考えるその商品の最大価値に見合った金額より低くないと買わない。
売り手が考える最低基準と買い手が考える最大価値の間の金額で両者が折り合える場合に取引が成立する。
売り手にとっての最低基準とは、作り手ならば「製造原価+利益」であり、流通や小売ならば「仕入原価+利益」で利益は任意に設定されるが、考え方に一定の公式が当てはまる。
一方買い手にとっての最大価値は、ピンからキリまである。
この売り手にとっての最低基準と買い手にとっての最大価値を巡ってビジネスドラマは展開されるのだが、売り手にとっての最低基準はそう大きく変動したり差がつくわけではない。
1998年ビジネスウィーク誌の取材を受けた故スティーブ・ジョブズこう答えている。
A lot of times,people don't know what they want until you show it to them.
お客は、予め自分の感じる最大価値には、気付いていないとジョブズは捉えている。
つまり、売買というビジネスドラマの要は、買い手にとっての最大価値を巡って繰り広げられる演出合戦にあると言える。
日本では、最大価値を上げることは狙わずに、付加価値を付け値段を上げるという方向に進む企業が多かったが、これがガラパゴスの正体と言えるかもしれない。
しかし、最大価値は主観的価値であり、『心』と似ていて、比較ができない。
人によって全然違う。
同じように評価していても、感じてる最大価値は同じとは限らない。
つまり、最大価値は測ることができない。
価格として提示されるのは客観的価値だが、客観的価値への同意は、主観的価値(=最大価値)とイコールではない。
客観的価値を別の言葉で表すと「相場」と言える。
客観的価値の多くは、ルーティンワークから生まれる。
最近世間で取り上げられるAIが奪う職業とは、ルーティンワークであり、ルーティンワークを生み出す客観的価値という存在だ。
客観的価値の強みも弱みも『比較できる』ということにあり、自然と相場と言われる基準が出来る。
それに対し、比較できない価値としての主観的価値とは、月並な表現だが『クリエイティブ』から生まれる価値観で、私にとっては岡本太郎が語ることばに通じるものがある。
君は、あなた自身を創造してると思いなさい
限界は考えない。
人間は、はじめから限界のふちに
たたされているんだから。
客観的価値が作る相場は、比較を生み出す。
資本主義社会を渡り歩くために学校で勉強するが、小学校から中学校、高校と段階が上がるほどに、科目を比較し差別するようになる。
得意科目と不得意科目。
必要科目と不必要科目。
一生懸命勉強する人ほど、体育や音楽や美術や技術といった科目を蔑ろにする傾向があるのではないだろうか。
おそらくこの傾向は、学校内の教師の格差にも反映してるだろう、特に進学校では。
しかし、好きや楽しいという人間的な感受性に基づく場合は、この蔑ろにした科目の分野に惹かれることが多い。
また好きや楽しいという思いは深く追求するという行動につながる、そうすると体育は医学の領域と重なり、芸術系の分野は数学や理科の領域と重なってくる。
すべてはつながってくる。
しかし我々は全体を見ないで部分だけを見、その”部分”に囚われ、”部分”が生み出す価値を比較するだけだ。
日本のテレビ番組の中には「日本って凄いんだよ!」と伝えるバラエティ番組が割と多い一方で、経済やビジネス寄りの報道では日本の劣化ぶりを伝えるものが多い。
この違いは、どこに焦点を当てて比較するかから生まれる。
最近その発言が改めて注目されることが多いシュンペーターは、「資本主義に代わるものが出現しないのは、資本主義自体が変化してるから」、そして『資本主義のエンジンは創造的破壊である』と言った。
「日本って凄いんだよ」と取り上げられる日本は昭和の日本に焦点を当て、「劣化してる日本」とは21世紀の日本に焦点を当てている。
この違いは、資本主義のエンジンによる創造的破壊の現れではないだろうか。
日本に住んでいると日本だけが劣化してるように感じるが、先進国では共通してる現象だ。
21世紀に入ってインターネットやデジタルイノベーションが大きく社会を変えたし、多くの人がその変化を実感してるが、おもしろいことにマクロ経済の統計を分析してもその事実は出てこないと言われる。
経済の分析とは、結局モノとお金の移動で計測され、途中のルートの変化は関係ないのだ。
現在の実現済みのイノベーションは、”売り”と”買い”の中間を変化させただけなのだ。
テレビは終わったとよく言われるが、新しく出て来るデバイスはテレビ的なものが多いのに似てる気がする。
CES 2018:あらゆるデヴァイスが「テレビ化」する未来が見えてきた
何かをするためにはこの製品を使わなければならないといった制限はなく、目的に合ったものを自由に選ぶことができる。もちろんこのゴールにたどり着いた製品はまだ存在せず、達成にはさまざまな苦労や混乱、相互運用をめぐる問題があるだろう。
それでもうまくいけば、テレビはガジェットになり、ガジェットはテレビになる。結局、すべてはただのモニターなのだ。
資本主義が創造的破壊を繰り返しながら行っていいることは、良いものを安く大量に生産し売るというサイクルを繰り返すことだ。
それが限界に近づいた時どうなるか?
それが今起きていることかもしれない。
今起きてることは、試行錯誤の途中で、見えてる現実がそのまま未来に繋がるわけではないだろうが、連続性が持つ必然性があることは間違いない。
そんな流れの一つが最近急速に増えた、偽物を安く作る、詐欺的に売るという価値観だ。
良いものを安くが飽和状態になった後で、更に利益を上げようとすると、更に原価を下げるための工夫が起こる、それが偽物に向かうというのは理屈は通る。
フェイクニュースが増える背景には、資本主義が末期状態であることが関係してるのかもしれない。
政治や経済だけでなく、学術や医学に関連する分野でも疑心暗鬼祭りが始まりだしている。
シンポジウムは、金印を所蔵する福岡市博物館が、本物と偽物それぞれの立場をとる研究者を招いて初めて開き、まず3人の研究者が基調講演で自説を展開しました。
この中でNPO・工芸文化研究所の鈴木勉理事長は、文字を彫った痕などが江戸時代に一般的だった印の特徴を備えていると指摘し、「のちに製作された偽物の可能性が非常に高い」と主張しました。
一方、明治大学文学部の石川日出志教授は、中国各地で見つかっている古代の印の形や金の純度を比較した結果、「後漢時代の本物に間違いない」と訴え、偽物説に反論しました。
福岡市博物館は、金印は本物だとする立場を変えていませんが、今回のシンポジウムについて、有馬学館長は「歴史的な価値が確定したかのように思われている資料でさえ、さまざまな見方ができ、学問的な根拠がぶつかっている。こうした議論があることを多くの方に知ってもらうことで、文化遺産についての理解が一層深まると思います」と話していました。
「体温を上げて免疫力アップ」は本当か アピタル・酒井健司2018年1月22日
体温を上げるために、筋肉量を増やせとか、ウォーキングをしろとか、安易に解熱剤を使うなとか、ショウガを食べろとか、風呂に入れとか、結果的にはそこそこ良いことが書かれています。即座に有害というわけではありません。しかしながら、体温と免疫力に関して医学的根拠のないことが書かれているわけですので、他の部分も正しいと軽々しく信用はしないほうがよさそうです。次回は、むしろ低体温のほうがよいケースもあることを取り上げます。
自分に利益誘導したい為なのか?
世間の通説に異論を挟むというポジショントークの応酬が行われている、愚かなやり方を取ってるわけではなく、証明されてないという一点突破を狙っているのだ。
この手法を用いると、正反対の理屈が正論として同時に存在するという混乱が起きる。
しかし、証明されてない通説とはどこか教科書的で官僚的な産物のようにも思える。
異なる理屈が同時に成立することは他にもある。
経済的な理由での移民は受け入れるのに、理由が政治的になったら移民を受け入れないようになったりということは実は現在の行き詰まる資本主義の理屈が働いている。
1950年に66歳で亡くなったシュンペーターは、こう言った。
2010年前後のインターネットやデジタルが様々なイノベーションを実現した頃、シュンペーターの予言は外れたかもしれないと言われることもあったが、最近ますますシュンペーターの予言通りに世界が動き始めたと世界中で言われ始めている。
一言で言えるものではないだろうが、社会主義とは”平等・公正”で”個人主義”と対立するもので、個人主義の原点は自由。
新しい社会主義が”平等、公正、自由”ならば悪くない気がする。
人類は、もう自由は手放せないだろう。
岡本太郎のことばにこういうものがある。
自分は自由だ、という自信がある人だったら、どんどん創ってみる。
もし、自分がまだ自由でない、と考えるのなら、
それでもかまわないという気持ちで、平気でやってゆけばいい。