1990年のアメリカ映画でアーノルド・シュワルツェネッガーが主演した『トータル・リコール』には、リアルな体験実感を伴う記憶を売るというビジネスが登場する。
この映画の原作は、1966年に出された短編小説だ。
この時間差は、映像化するために必要な技術が実用化するために要した時間と言えるだろう。
映画の中では、火星が舞台になるが、操作された記憶と現実が入り混じり混沌とする。
実際の記憶と作られた記憶がシンクロし、現実と仮想が一体化する中で、何を信じれば良いのかがわからなくなるという話なのだが、シュワルツネッガー演じるダグ・クエイドに感情移入しながら見るととても面白い、もう何度見たことか。
起きてる出来事は、実際に起きてるのか、脳内で発生する記憶が創っているのか?
このような場合、現場はどこになるのだろうか?
現場という言い方をすると、工事現場を思い浮かべたり、事件が発生する現場を思い浮かべたり、特別な場所をイメージしがちだが、実際には目的となる場所全般を指す言葉として使える。
仕事であったり、遊びであったり、何かしらの行動をする場合、何をするかの前にどこでするかが問われる。
目的が伴う”どこ”は全て現場であり、その都度変わることもあれば、いつも同じということもある。
家であったり、学校であったり、職場であったり、訪問先や旅先だったりが一般的だが、暗黙の了解としてリアルな場を前提とする。
不特定多数がどこかに一堂に会する場合、スポーツや芸能で観客が集まる場合は、スタジアムや会場が現場になる。
映画『トータル・リコール』では、現場は脳の中と言えるかも知れない。
VR(virtual reality)は、仮想現実という訳語が与えられている。
この言葉にももはや新しさを感じなくなってきたが、私は実際に試したことはまだない。
現在のVRは、ディスプレイ上の映像や画像を高い没入状態で鑑賞することで、第三者的な立場での鑑賞にとどまらず、当事者の体験に近づけるというものだ。
VRは、感覚を増幅させることでエンターテイメント性を高めようとしてるように見える。
一方で、感覚を遮断することで心身を良い状態に保つという方法がある。
アイソレーション・タンクの存在を最初に広く知らしめたのは、1979年の映画アルタード・ステーツ/未知への挑戦で、私はこの映画は見てないが、アイソレーションタンクのことを立花隆の「臨死体験」で読んで興味を持っていた。
アイソレーション・タンク(Isolation tank)は、感覚を遮断するための装置であり、光や音が遮られた空間で、皮膚の温度に保たれた高濃度のエプソムソルトの塩水に浮かぶことで、皮膚感覚や重力の感覚を大きく制限することができる。リラックスを目的として、また心理療法や代替医療として使われている。1990年代以降はヨーロッパを中心にフローティング・タンク(floating tank)と呼ばれることが多い。遮断タンク、瞑想タンク、サマディ・タンクとも呼ばれる。
アメリカ国立精神衛生研究所(NIMH)にて研究していたジョン・C・リリー(John C.Lilly)が、1954年に感覚遮断の研究のためにタンクを考案した。1950年代には感覚遮断の研究から注目され、体験は次第に神秘体験と比較されるようになった。1980年代には、リリー博士をモデルとした映画『アルタード・ステーツ』を機に一般にも流行した。また、スポーツ選手のイメージトレーニングや単に学習のためにも用いられている。近年再び注目が集まり、タンクを所有する施設が増加している。研究はタンクの体験によって、ストレスや不安を軽減し、線維筋痛症の痛みや睡眠を改善することを示しているが、その研究規模が小さいとも指摘されている。
VRが、感覚を刺激することで新しい感覚を目覚めさせることを目指すのに対し、アイソレーション・タンクは逆に感覚を遮断することで弱った感覚や失われた感覚を取り戻すという対比が面白い。
仮想化ということばが身近になったのは、PC用語としてだろうが、本来の意味は”実際には無いものをあると仮定する”と言う意味で”抽象化”とよく似てる。
アイソレーション・タンクを使ってやろうとしてるのは、仮想の逆(?)で、”ある”感覚を無い状態にさせることで、新たなもの(感覚)を得ることだ。
仮想繋がりで思い出すのが、仮想空間を舞台にした「SecondLife」というオンラインゲームだ。
一時期、実際に不動産を買うんだったら、セカンドライフの中で土地を買ったほうが良いというような記事が出たりしていたことを思い出す。
「SecondLife」(セカンドライフ)は今どうなっているのか?
日本でも、2005年頃からSecondLifeの話題が紹介されるようになり、とくにビジネスユーザーから注目されました。そしてトヨタや慶応義塾大学といった有名企業・有名大学などまで、SecondLife内に支店やキャンパスを作り、なんだかとても「未来的な」世界が構築されていったのです。2006年にはメディアによる過熱報道で、ブームが最高潮に達しました。
しかし、所詮ブームはブーム。その後、ほとんど話題にならなくなり、今では人々の記憶から忘れ去られています。中心言語が英語であることや、アバターがカワイイものではなく、リアルでゴッツイものだったため、日本人には不向きだったのでしょう。
ネットビジネスとして利用する人はごく少数で、多くの人は趣味でつながるコミュニケーションツールとして利用しています。この点は、リンデンラボ社が当初思い描いたものとは異なるかもしれません。いずれにしても、栄枯盛衰の激しいIT業界で10年以上も続いていることは驚異的といえます。
技術の発達やコミュニケーションの多様化は、どこが現場なのかをわからなくすることがある。
現場がどこなのかがわからなくなると、道に迷うのは世の常。
と言うよりも、道に迷っているから、現場がわからなくなるのかもしれない。
テクノロジーの進化は、現実と仮想の境界を曖昧にしている。
そして人間自身が”心”という捉え所のないものを持っているように、人間は仮想と相性が良いのかもしれない。
仮想は、良いものにも悪いものにもなりうる。
だからこそ、これからの時代は、現場がどこなのかをきちんと理解することが大事になる。