違う見方

これから時代はどう変化するのかを時事ネタを交えて考察。考える際のヒント。気付くためのヒント。時には詭弁を弄します。今書いてることと、以前書いた内容が食い違う場合は、遺言と同じで新しいものが私の考えです。

その行動間違ってます!

合理的に行動しようとする時の行動は、正解を求めて行う。

 

あらかじめ正解がわかっていることや、目標として便宜的に正解を設定したりすることでそこに向けて行動する。

 

とりあえず正解が設定できるのは、『問題は何なのか?』がわかっているから。

 

『問題』は、世間から提示されたり、突きつけられたり、時には自分自身で設定したりする。

 

問題には、簡単なものから難しいものまで様々あるが、合理的な判斷や行動の背後には、正解が存在するということが挙げられる。

 

合理的な判斷や行動の拠り所になる正解は、現代ではほぼ2つの分野に集約される。

 

①稼ぐ

②儲ける

 

その結果、売りたい人ばかりで、買いたい人がドンドン減っている

 

だから、賢い人達は、売ってるように見せずに買わせる。

 

投資や利回りを求めるものが、それに当たる。

 

博打やギャンブルも宝くじも胴元が儲かるシステムなのに、買う人が夢を見るものとして取り上げられる。

 

おもしろいのは、売りたい気持ちは、儲けたい気持ちと同義なので、投資に意識が向かうが、なぜか投資も買い物であることは見過ごされている。

 

 

 

無い物ねだりの気持ちが、隣の芝生を青く見せ、もう戻れない見せかけだけの若さにしがみつかせる。

 

 

全ての行動は、正解を求める気持ちから起こるが、昔は情報の差が結果の差に繋がることが多かった。

 

しかし、現代では情報に関してはほとんど差が無くなってるのに、結果的に昔以上に大きな大きな差がつくようになっている。

 

そんな差を生み出す、大元にある『違い』がいくつかあるという話が最近立て続けに出ているので、それを少し整理してみた。

 

大元にある違いの特徴は、無意識に作用するもので、その影響(呪縛)を受けていることに気付けていない場合があるということだ。

 

正解を出すことが成功することならば、成功が何を意味するのかを知っていなければならないが、そもそも成功がどういうことなのかを知らない人が多過ぎるようだ。

 

「人は一般的には失敗を糧にはできない。糧にできるのは確固たる成功体験がある人だけ」そのためにするべき事に共感多数

 

 

 

 

血液型で性格を占うという話は、今はどの位信じられているのだろうか?

 

日本人は、血液型よりも、"日本人である"ということで知らないうちに身につけてる気質があるようで、ムラ社会の束縛に通じる大元を感じる。

 

不確実性が問題なのか、不確実性に耐えられないことが問題なのか?

国毎に不確実性回避度の得点を算出している。

 

53の国・地域のうち、不確実性を最も避けたがるのがギリシャで、次いで、ポルトガル、グアテマラ、ウルグアイ、ベルギー、サルバドール、日本という順番になっており、日本は不確実性回避度が高い国の1つになっている。

 

こうした不確実性回避傾向が常にマイナスとは限らないだろうが、直感的には今の日本にとってはプラスよりもマイナスに働くことが多いように思う。

 

高度経済成長期のようなモデルがあった時代と違って、現在のように進むべき方向が明確に示されない時代には不確実性を避けたがる国民が多い国は不利になるように思う。

 

 

日本人であるということで持ってる資質がある一方で、そもそも人間として持ってる資質というものがある。

 

人間は、思った以上に曖昧な存在で、確固たる考えや感覚に基づいて反応してるつもりでも、説明が付かない行動を取ることもある。

 

『私はすでに死んでいる──ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳』 「自己」という感覚を脳はどのように構築しているのか

そこで著者が引き合いに出すのが、アーウィン・フェインバーグの強調する「随伴発射」や、クリス・フリスの提唱する「コンパレーター・モデル」だ。

 

たとえば腕を動かすとき、運動皮質は腕の筋肉に指令を伝えるだけでなく、その指令のコピー(随伴信号)を脳のほかの領域へ送る。

 

受け取った領域は、今度はそのコピーをもとに、腕の運動がもたらす感覚を予測する。

 

そして、その予測と、実際に生じた感覚(触覚、固有受容感覚、視覚など)とを比較し、その結果にもとづいて「自己」と「非自己」の区別をつける。

 

つまり、「食いちがいがなければ、その行動を遂行したことになり、行動は自分のものという自己主体感が得られる。

 

一致しないところがあれば、行動は別の誰かがやったことだと感じるのだ」。

 

この感覚は哲学的でもあるので、ある種の永遠のテーマを感じさせる世界観がある。

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/なぜ私は私なのか

世界中に今現在 沢山の人がいる、また今までに数多くの人が生まれてきて、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろう。

 

しかしそれにも拘らず「なぜは他の誰かではなく、この人物なのか?」

(Why am I me, rather than someone else?)

 

人間が取りたがる合理的な行動の背景には、予測や予想がある。

 

予測や予想を確定に近づけるために、予定や予約という概念が生まれた。

 

しかし、『予(あらかじめ)』は、あくまでも確定はしてないというパラドックスに繋がる。

 

「不適切な個人データ活用」VS「飲食店ドタキャン客」の不毛な戦い(訂正とお詫びあり)

少なくとも、この全日本飲食店協会のサイトを見る限り、どう見ても全日本を代表できるような組織にも見えず、不適切に個人データが流通することだけは避けてほしいと思います。

 

ドタキャンは迷惑以外の何物でもありませんので、何かうまい落としどころがあればよいのですが。

 

ほかにも、病院その他、予約を取るだけ取ってぶっちすることを繰り返してしまうのを防ぐためには、結局は予約時に本人情報をきちんと提示する仕組みをペナルティと一緒に決められる法整備を行うぐらいしか思い当たりません。

 

もっとも、私も不慮の事故や子供の発熱で事後に「申し訳ございません」と平謝りすることは数多いのですが。

 

「気づいたら約束の時間を過ぎていた」のもまた、許されざる罪なのでしょうか。

 

 

賢く行動してるつもりで取る合理的な行動は、『予』を確定できずに不毛な闘いで疲弊する道を選ばせることがある。

 

 

 

 

予測や予想に入手した情報を絡めて賢く行動してるつもりで、ババを引くことは多い。

 

情報のバカ格差

暗記力が優れていても、計算が早くても、そんなことはコンピューターに任せれば良いので、なんの付加価値もありません。

 

試験で高得点を取れるよりも、ネット広告の仕組みを理解し、儲かる仕組みを作る人のほうが豊かになれる時代です。

 

それに気がついていない日本人は、今日も子どもにせっせと計算ドリルをやらせて時間を浪費しているのです。

 

 

"賢く見える奴がバカで、バカに見える奴が賢い"、そんな時代になるのかもしれない。