人間は生態系というヒエラルキーの頂点にいると思っているが、それは現在の社会では天敵がいないということだけの意味しかない。
日本では火葬がほとんどだから気付かないが、死体を分解するのは虫やバクテリアなどで、襲われるわけではないが最後は食べられるのだ。
本来の生態系は決してヒエラルキー構造ではなく、そうした循環が成立するシステムなのだ。
ただ部分を捉えると弱肉強食に見えるだけで。
同じことが、人間活動にも当てはまるのではないだろうかと考えてみた。
歴史を振り返ると、弱肉強食に通じるヒエラルキーが人間社会には常にあった。
武力や権力や財力というものが、ヒエラルキーの大元にある。
技術力なんかも入るだろう。
ヒエラルキー構造の場合、頂点と底辺は接点が生まれないため争いを含めてコミュニケーションが発生しないように感じるが、その間では上下に挟まれたグループがグラデーションを描くように接し、争いを含めてコミュニケーションを取っている。
現在の人間社会のヒエラルキー構造を支える前提になっている要素は、エネルギーとお金だ。
前提でありながら、それ自体が目的化している。
エネルギーの大半が、石油と石炭に依存している。
使い勝手が良いのは石油だが、
石油はこれから「正味エネルギー」が急減する
採掘の複雑・高度化が示唆する石油経済の早期終焉
中田 雅彦=石油経済研究会 2018年3月5日
原油の「正味エネルギー供給量」は、2000年頃から減少し始めている。
「正味」とはどういうことか。
原油を地下から回収するには、油田の探索を行い、発見できれば地下から回収するための設備や機器類を設営し、採掘する。これら全工程で直接あるいは間接的にエネルギーが消費される。当然だが、原油というエネルギー源を回収するには、外部から何らかのエネルギーを投入しなければならない。
ある油井で、原油1バレル(159リットル)相当のエネルギーを投入して、10バレルの原油を採掘できたとする。この10バレルが「見かけ」の入手量である。そして、「正味」は投入したエネルギー分を差し引いた9バレル相当ということになる。正味部分のエネルギーが経済社会で追加的に利用される量であり、経済にプラスの効果をもたらす。
見かけの原油入手量10に対して、正味では9しか入手していない場合、正味エネルギー率は90%となる。
だが、多くのエネルギー統計では、上記のような場合も10バレルの石油が生産されたとカウントされる。
以前から埋蔵量の限界が見えているとは言われていたが諸説あり、まだまだ大丈夫という説もあったが、これまで言及されなかったトーンで石油の危機が伝えられ始めた。
お金に関しても、資本主義の限界が近づいているという話が増えている。
前提が維持できなくなると、その上に成り立っている構造は壊れてくる。
なんだか強固に見えた人間社会のヒエラルキー構造も、実は生態系と同じ循環構造で、これまで見えなかった動きが現れてくるかもしれない。
この動きは、ヒエラルキーの上に位置してる人には脅威だが、底辺に位置してる人にはとてつもないチャンスになるかもしれない。
インプットよりもアウトプットが大事とはよく言われるが、人間が行うアウトプットとは、『つくる』だ。
漢字で当てはめると様々あり、何をやっても行動は全て『つくる』に行き着くと言って良い。
作る
造る
創る
做る
昨年ブレイクしたことばの一つに"フェイク"というものがある。
フェイクニュースでお馴染みになったことばだ。
フェイクの反対で、あるべき正しいものとしてクローズアップされたことばが、"ファクト"や"エビデンス"だ。
もちろん、ウソは良くないのだが、
私には、この過剰にアピールされる"ファクト"や"エビデンス"の喧伝が、下克上を恐れるヒエラルキーの上位に位置する立場から発されてるように思えてしょうがない。
ヒエラルキーの上位と言っても頂点ではなく、二番手、三番手の存在だ。
二番手、三番手は、底辺から見ると安泰に見えるが、実は今その地位を大きく脅かされている。
そんな下克上は、"センス"に関して起こる。
スポーツ選手だったら身体能力に当たり、センスは基礎体力に近いとも言える。
何が花を開かせるかわからないという意味では、"やってきたことに無駄がない"という時代になり、"何もしなかった"というのが最悪になるだろう。