"無い袖は振れない"や"配られたカードで勝負する"など、皆それぞれが何かの制約を受けながら生きている。
最近、格差という言葉が定着しつつあるが、格差の反対が平等ならば、もともと平等なんて現実には存在してないだろう。
"配られたカードで勝負する"というのがトランプの話であるならば、誰でもストレートにその意味を理解できるだろうが、生き方として捉えると、自分に配られたカードが何なのかわかるようでわかりにくいものだ。
同じような意味で、人生やビジネスを釣りに例える話もある。
目的が、魚を釣ることであるならば、少なくとも魚のいるところで釣りをしなければいけない。
釣りが目的の場合、川や池や湖または海のように水がある場所を選ぶのは当たり前だ。
しかし、人生やビジネスを釣りに例えた場合、水のない場所に釣り糸を入れてる場合がある。
自分が持ってる道具は何だろうか?
釣り針を持っているのか?
釣り針が小さければ大きな魚は釣れないし、釣り針が大きければ小さな魚は釣れない。
いつの時代も、真理はシンプルな言葉で表現されるが、その言葉を自分の生き方に取り入れようとすると、途端にわからなくなる。
カメラがあれば写真は撮れる。
しかし、撮った写真を見ると、「撮りたかった写真はこれではない」と感じることがある。
誰にも邪魔されず、自分が思った通りに行動することが許されていても、自分が望んでることを自分で説明できないことがある、当然のように得られる結果もビミョーなものになる。
たまたま得られた結果が望みどおりでも、それがたまたまの結果ならば再現性は低くなる。
写真を撮るだけでも、人生に通じる奥深さを感じる。
人手不足倒産なることばをよく聞くが、働いてない人は多いのに求人に応じない現象が人手不足の現場を疲弊させているということだ。
これは釣りに例えると、釣りたい魚に対して釣り針のサイズを間違えているということだろう。
このように、本来組合せが成り立つと思われてるのにズレが生じることをミスマッチと呼ぶが、スレ違いの一種である。
上手く行かない時のスレ違いは、ストレスにつながる。
上手く行かないと言えば、赤ちゃんや幼児の教育や動物とのコミュニケーション。
まっさらな状態で正しく教えたり躾ければ、望むような育ち方をするかと言えば、そんなことはない、もちろんうまくいく場合もあるが、その方法に再現性があるかはビミョーだ。
しかし、うまく行かなくても、眼と眼が合った時に"通じ合う何か"を感じることがある。
うまく行ってないかもしれないが、スレ違ってはいない。
そんな時、これはこれで悪くないと思える。
"通じ合う何か"を、変化し続ける時代との間に感じることができれば、そうは悪くならないだろう。