違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『フェイク』は、次世代のキーワードかも?

日本人が考えていることはわかりづらいと言う外国人の話を良く聞く。

 

最近は、以前に比べるとずいぶん改まっている気もするが、そのわかりづらさは日常のコミュニケーションだけでなく、決算書などにも見られた。

 

日本企業と取引を希望する海外企業が、その判断基準とするために決算書を見ても知りたいことがわからないと言われることが多く、21世紀に入った頃から国際会計基準を適用せざるを得なくなってきた。

 

決算書が読みづらいのは外国人だけではなく日本人もだったので、『できるビジネスマンは決算書が読める!』と銘打った本が本屋にはたくさん並んでいた。

 

そんなわかりづらさは、恋愛にもあった。

 

「ねぇ、どうして日本人はフェードアウトするの?」

様々な人の経験談を聞いて感じたことは、自分の意見を言ったり感情を伝えることに慣れている外国人と、そうじゃない日本人との間ですれ違いがおきているということ。

 

突き詰めたら奥が深そうな議題…。ただ友人の話を聞いて、丁寧なコミュニケーションは大事だと改めて思い知りました。だって、もし自分がフェードアウトされる側だったら本当にイヤですから。

 

 

 

日本で生まれ、日本で育つと、自然に身に付く"察してよ!"という遠回しの拒否に関して、したことも、されたことも、あると言う人は多いだろう。

 

遠回しに表現することを、古典の授業で、「婉曲的表現」と教わったが、日本的な文化の背景にしっかり染み付いている。

 

おそらく、察する、忖度、などは婉曲的表現が当たり前だから生まれたもので生活全般に及んでいただろう。

 

現代でもこの文化は生きているが、わかりづらいということだけは、ほぼ全ての人が感じているだろう。

 

それでも、コミュニケーションを取り合う双方が"察する"ことを前提にしてれば、コミュニケーションは現代でも辛うじて成立するだろうが、わかりづらさはつきまとう。

 

しかし、片方は察する気が全く無く、もう片方は察してほしいと思ってるような場合、大きなトラブルに発展することがある。

 

熊本地震で全壊した老舗時計店に届いたセイコーからの非情な取引終了の告知に衝撃が走る

 

 

 

少々炎上気味なこの件は、日本国内では類似案件がたくさんあるだろう。

 

ビジネスライクに事を進めることを、情が薄いと感じる日本人は多いが、それは契約書に不慣れなことから起きる。

 

契約書が有効なのは日本が法治国家だからだ。

 

検索して少し調べると、実態はともかく日本が法治国家になったのは明治維新以降。

 

それ以前は律令国家だった。(教科書で見たことがある言葉だ)

 

律令と言うのは現在でいう法なのだが、決定的に違うのは国家の有り様で、大多数の国民は実質的に奴隷で強制的に農業か兵役に就かされていたらしい。

 

律令が機能しなかったのが、戦国時代。

 

察する、忖度は、そんな律令時代の生き様に源がある卑屈な行為だが、多くの日本人の家庭や教育の現場で受け継がれているだろうから、なかなか無くならない。

 

察したり、忖度したりしながら付き合うことは、""があると呼ばれ、法や契約と対立しながらも曖昧な落とし所を見つけ折り合いをつけ続けた日本だが、もう落とし所が無くなりつつある。

 

良い悪い、好き嫌いで反応していると、大事な判斷を誤る可能性が高くなる。

 

情がある現場には、セットで"おんぶにだっこ"がある。

 

これは、関係性が対等ではないことを意味してる。

 

 

 

やっぱり、何かが終わりつつある。

 

 

 

終わりつつあるものとはなんだろうか?

 

・一つのことを長くダラダラと続けることに価値があると思うこと

 

・好きなものを好きだと、はっきり言わない

 

・イヤなことをイヤだと、はっきり言わない

 

・うまくいかない時に、恨み言を言う

 

・自分より相手を信じる

 

終わりつつあるものを考えていると、こんな話題があった。

 

これも炎上中で、炎上の主は高須克弥先生だ。

 

 

高須先生に、こう言わせた元ネタはこれ。

 


「若者の○○離れ」の原因はコレ?新聞の投書欄に寄せられた「お金の若者離れ」にハッとさせられる

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終わりつつあることの中には、"金は天下の回りもの"があるかもしれない。

 

お金の不思議さは、それ自体に価値が無いのに、価値を生み出すこと。

 

その価値は"信用"という錯覚のうえに成立するので、"赤信号皆で渡れば怖くない"とほとんど同じだ。

 

 

金が天下の回りものでなくなったら、別のものあるいは別の仕組みが代わりを果たすことになるだろう。

 

 

 

面白い考え方に最近接した。

 

 

お金はフェイクであるという考えで、これはお金が生み出す価値は信用という錯覚の上に成立すると言う意味だと私は取った。

 

お金の持つフェイク性が、芸術にもあるという考えだ。

 

それ自体に価値が無いものが、価値を生み出すことは変わらないかもしれない。

 

最近話題になるフェイクは、フェイクニュースのように露骨に嫌われるが、良く考えるとフェイクなお金はもてはやされるのは不思議な話だ。

 

フェイクは、次世代のキーワードの一つかもしれない。

 

このことばにもアンテナを張ってみたい。